小沢 (函館本線) 1978

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1978

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かつて、停車場の夜は明るいものだった。

機関区や客車区、電車区などを構内に隣接する拠点駅は勿論のこと、中間駅にあっても夜間に構内作業の発生する駅には照明の設備がなされ、構内とその周辺を照らし出していた。

運転速度の低いこともあるが、Tri-Xフィルムをもってすれば、増感に頼らずとも明るいレンズと絞り開放にて十分に走行写真撮影が可能な程だったのだ。


ところが、70年代後半以降の国鉄の合理化施策は、車両配置区所の集約化と合わせた運用の見直しにより、駅での分割併合といった解結作業を激減させ、加えて84年2月改正における車扱集配貨物列車の廃止にて、貨車の入換作業もまた、ごく限られた駅にて見られるのみとなるに及んで、構内照明は次々に消されていったのである。

88年の6月、この春に運行を開始した本州連絡寝台特急の上り列車の走行を撮影すべく、長万部の構内南側に立ったが、函館山線分岐側にて蒸機を後追いした十数年前とは様変わりした「暗さ」に閉口し、停車中のバルブに切り替えたものの、これとて、重連の牽引機を照らすのは、僅かな構内照明ではなく駅前商店街に並ぶ街灯の明かりであった。


ここ、小沢も本線列車に対する岩内線の分併作業や蒸機への給水の便からか、構内の上下方に背丈の低いながら照明塔が存在した。

列車は、岩見沢から倶知安への134列車。この、およそひと月後に道内に初配置の50系51型に置替られた。


[Data] Nikon F2+AiNikkor50mm/F1.4   1/60sec-f1.4    Non filter  Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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沢木-元沢木仮乗降場 (興浜南線) 1978

春別 (標津線) 1978

標津線は茫洋としたイメージがある。捉えどころがないのだ。

何処で撮っても同じようなカットになるだろう。


これで旅しても、車窓には牧場と落葉松林と落葉樹、さらに牧場と落葉松林と続いて行く。

時間を喪失する線路だ。


根釧原野に敷設された標津線は、台地に浅い谷を刻む小さな流れを幾度も渡る。その都度谷へと下り、直線的な平面線形ながら、はげしく上り下りの勾配を繰り返す。

しかも、簡易線規格ゆえの20から25パーミル勾配が随所に存在した。

その線路縦断面図は宛らノコギリの様相を呈し、北海道ならではの特異な線形の路線であった。


写真は、春別川を渡り20パーミルを上って台地上に出た、354D厚床行き。

この当時、貨物列車はスジこそ引かれていたものの、既に牽くべき財源が無く運休が常となっていた。


快晴で雪原が眩しい午後だった。


[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4   1/500sec@f11   Kodak No,12filter    Tri-X(ISO320)   Edit by CaptuerOne5 on Mac.

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美留和 (釧網本線) 1978

南線には在って北線に見られないもの。

それは全通時を想定して用意されたと思われる施設である。


沢木の駅施設は島式の乗降場を有しながらの片側暫定使用であったし、雄武では駅本屋に隣接した1線使用であったけれど、それは将来の上り本線であり、側線の一番手前側は明らかに下り本線を前提とした配線で島式乗降場を設置するスペースも設けられていた。

これらが、1935年の開業時点から設備されたものかは調べ得なかったのだが、そうとすれば北線側が浜頓別-北見枝幸間30キロあまりを一つの閉塞区間と想定しているのに対し、8キロ/12キロと言ったそれは北見枝幸以南での区間列車運転を想定したものであろうか。

北見枝幸発着の貨物輸送を未開通区間を通過しての名寄経由とする計画であったのか。興部での分岐もその遠軽方でなされていた。


興浜南線は沢木と元沢木仮乗降場の間で日の出岬の付け根部分を小さなサミットで横切っていた。

短いけれど急勾配が介在して、単行の気動車は唸りを上げて通過していたものである。


写真は、日の出岬から元沢木方の海岸線。

列車は927Dで、後追いになる。少ない列車本数ゆえ贅沢は言っていられない。


沢木の集落から日の出岬に至る道を素直に辿ると岬先端にある小さな入り江に至り、そこは海水浴場との標識があるのだけれど、その開設期間は7月末の一週間のみと掲示されていた。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8   1/250sec@f8   Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptuerOne5 on Mac.

弟子屈-美留和 (釧網本線) 1978

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その日は、この季節に信じられないことに雨だったのである。

雨天の撮影は嫌いではない。

雨に濡れることでしか見えない景色があり、ハイライトに抜けてしまう空の処理さえ間違えなければ、「情景」の表現の可能なのも雨天ゆえである。羽越本線や信越海線へは、それが雪に変わる前の時雨の時期を選んで出かけたりしていた程だ。

けれど、少しでも積雪のある場所での降雨は対処のしようがない。春先の渡道を避けていた理由でもある。雪原の雨に濡れた立ち木では、どうしてもちぐはぐなのだ。


仕方なく、早々に撮影を切り上げ、弟子屈の駅で所在なげな午後を過ごした。

気を取り直して翌日以降のスケジュールを再検討すべく、持参のトランジスタラジオ(当時の情報ツールは、この程度だったのだ)で聴いた天気予報は、翌日の晴天と夜半からの急激な気温低下を告げていた。そしてそれは、当日の移動を取りやめて現地への宿泊を促し、その撮影ポイントまでも確信させるに十分な情報だったのである。


翌朝、国道241号線の跨線橋上で霧氷が溶けてしまわないか気にしながら、光線と後追いが前夜思い描いたコンテどおりになるはずの混合631列車を待った。

雲一つ無い快晴は予定外の幸運だ。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8    1/500sec@f11    Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

厚岸 (根室本線) 1978

厚岸湖の養殖牡蠣は、その低水温を利用して本来夏場の抱卵期をずらすことにより周年出荷を行っている。

これは、生育の遅い環境を逆用した、ここの牡蠣漁師達の長年の技術である。

元来、抱卵期の牡蠣とは食用にはしないものだったのだが、近年風向きが変わっている。


それは、牡蠣に冠される修辞語である「海のミルク」を誤解したものとも思える。ここでの「ミルク」とは、牡蠣においてもそれに勝るとも劣らない栄養価を持つ、との比喩で用いられているはずなのだけれど、これから「クリーミィ」なるイメージが連想されつつあるのだ。

それは、夏場の牡蠣として人気を集めるようになった天然岩牡蠣の影響と推定される。夏の天然モノだから、これは抱卵期の牡蠣なのである。卵を身に持っているから、その食感は「クリーミィ」には違いない。

牡蠣の美味しさとは、抱卵期を過ぎて再びグリコーゲンをしっかりと溜め込んだところにあり、その食感は「ぷりぷり」である。この味を楽しむには生食ではなく、加熱するに限る。即ち、牡蠣鍋に焼き牡蠣であろうか。

「ミルク」としたばかりに食感に偏向してしまうのは、どうにも本末転倒の嫌いが在る。


とは言え、我々酒呑みも、かつては「新酒ばな」と呼んで嫌われた香気を楽しみ、出荷もされなかった上槽仕立ての新酒を「しぼりたて」「槽口酒」などと喜ぶようになっているのだから、牡蠣のそれも新しい楽しみ方なのかもしれない。

ただ、抱卵しっばなしの牡蠣は、養殖の手抜きでいくらでも作れると聞けば、低水温による生育遅滞にて生産量の限られる中、それを逆手にした抱卵期のコントロールを実現した厚岸の牡蠣漁師にはさぞや苦々しいことだろう。


写真は、駅近隣の厚岸湖沿いの区間、厚岸 (根室本線) 1971と同じポイントの8年後である。

大きい干満差で干潮時には海底の露出していたのだが、この間に船着き場の改修工事に合わせて、おそらく浚渫も行われたと見え、干潮でも船溜まりとしての機能は果たしていた。


列車は、混合444列車。

この列車については、門静 (根室本線) 1979にも書いたとおり、417・418列車<狩勝3・4号>の普通座席車が運用上根室へ直通していたもので、荷物車/郵便車も同列車との承継である。

417・418の組成順位を基本としている関係で本列車の根室方はスハ45となり、これには尾灯を装備した車両が限定運用されていた。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S   1/500sec@f8    FujiSC42filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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丸瀬布 (石北本線) 1978

キハ58形式急行形内燃動車の系列に属する車両群は、1960年度からの9年間で1818両も製造され、その運用は全国の津々浦々に張り巡らされていた。これに出会わずに済むのは、神奈川/静岡県下の東海道線筋くらいではなかったか。

この系列で、最初に出場したのは北海道向けのキハ56/27・キロ26の各形式であった。61年の4月初めまでに計22両が苗穂機関区に回着し、同月15日より札幌-釧路間に新設の急行<狩勝>にて運用を開始した。


一方、道内における気動車による準急以上の優等列車運転は、キハ21の新製配置を受けて1959年5月1日より釧路-川湯間に運転を開始した準急<阿寒>を嚆矢としている。同年6月7日からは札幌-様似間で準急<えりも>の運転も始まるが、これらは観光客向けの特定日運転の列車であった。

定期列車では、この年の9月22日改正で小樽-旭川<かむい>/札幌-室蘭<ちとせ>/釧路-根室<ノサップ>/旭川-網走<オホーツク>が準急列車にて新設され、いずれもキハ22が運用に充てられた。まだ、その運転には信頼性の低かったためか地域内の連絡列車に留まっていた。

長距離運転の急行列車への運用は、翌60年7月1日より函館-札幌間(室蘭線経由)に設定の<すずらん>に始まり、これには内地より転用のキハ55とキロ25が使われた。内地では準急用の車両による全席指定制とされた急行への運用であり、格落ちの感は否めない。


1961年度以降続々と増備されたキハ56/27・キロ26は、早速にこの<すずらん>を置替えた他、61年/62年/63年と続く大きなダイヤ改正の度に、函館や札幌と道北道東各地を結ぶ長距離急行や地域内のローカル準急に次々と投入されて行った。


このローカル準急(66年10月以降大半が列車種別を急行に統合)には、キハ56/27の絶対数の関係でキハ21/22のまま残され、後に「遜色急行」と呼ばれるものもあったけれど、代表的な列車を挙げれば、羽幌線の<はぼろ>や名寄線の<紋別>、宗谷線の<礼文>、根室線末端区間の<ノサップ>、釧網線の<しれとこ>、日高線の<えりも>に瀬棚線の<せたな>など、例え2〜3両の編成であっても、キハ22ばかりの各線区の普通列車に対しては十分に優等列車の風格の感じられたものであった。

夏期ならば白服となる優等列車乗務用の制服に身を固めた乗客専務が乗務し、エンジ色上下に白いエプロン姿の車内販売係員がワゴンサーヴィスに巡回し、なにより長距離旅行の乗客達の乗った車内は、急行列車の風格に満ちていた。

それは、ローカル線区/区間の優等列車だけに長大編成を連ねた幹線急行に勝っていたとも思える。


晩年に普通列車ばかりの運用となって、接客設備も改装された車両もあったキハ56/27しか知らぬ方には、想像も出来ぬ姿であろうか。これらローカル急行の持っていた使命は、今は都市間バスが担う。


写真は、急行らしい高速運転で飛ばして来た613D<大雪1号>。

旭川から石北/釧網線を経由して釧路までの列車である。網走で付属編成を切り落とし、釧網線内ではキハ27-2両の端正な編成だ。

低い光線の創り出すヤチダモの影の印象的な風景だった。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8   1/500sec@f8   FujiSC48filter   Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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Tri-X フィルムのこと八雲 (函館本線) 1971を続ける。


1971年の夏の渡道に1本だけ持参した始めての Tri-X は、高感度と言うだけでのぶっつけ本番使用だったけれど、これをコダック社の指定通り、使い慣れたD-76の22℃、6分30秒で上げて引き伸し機にかけてみると、やや肉乗りに過ぎると思われたそれからスムースな諧調が引き出され、ハイライト側の遠景も焼き込んでやればくっきりと絵を結ぶのに驚かされた。印画紙はお気に入りだった三菱製紙の「月光」、現像は指定処方MD-51の自家調合だった。


まもなく入学した写真学校では、講義や実技よりも暗室の自由に使えるのがうれしくて、先輩に倣って100フィート長巻をバトローネに仕込んではテストを繰り返していた。

そこで見えて来たのは、フィルムの感度とはプリントから遡って決定されることだった。「月光」の2号を基準に、学校からスポットメーターを借出し、覚えたてのアンセル・アダムスのゾーンシステムを用いて自分で決めた露出と、それを単純にセコニックメーターの示した指針と比較すると約1/3EVの差があり、自分のTri-Xの実効感度はASA320と決めた。

このテストでは、調剤の不安定さに限界を覚えていた自家調合に代えて、調合済み薬品も試していた。丁度フェニドンを主薬としたPQタイプの現像液が出回り始め、MQタイプに比較しての疲労度の小ささにも注目していたのだった。

Tri-Xは確かに粒状感のあるフイルムだけれど、プリントの際にそれで見せるフィルムでもある。要は、その粒が奇麗に揃い、諧調を表現してくれれば良いのである。

これらを満たし、なおかつ相性が良いと判断したのが小西六写真工業社の超微粒子現像剤コニドールファインなのだった。

推奨はされていなかったこれの希釈現像は、ただ単純にマイクロドールXに範をとって試行してみただけだったが、現像時間によるカブリもなく僅かながらシャープネスの向上が感じられ採用したものだ。1:3まで試して結局はそれに決めたものの、一度の現像のたびに廃棄するからPQタイプ現像液のメリットは失われたかも知れない。

テストのデータからASA320の感度で、やや浅めの22℃の12分から12分30秒を標準と決め、96年10月のこの組み合わせでの最後の現像まで通した。


撮影時の露光を厳密に決定しておけば、この現像時間や液温は多少ラフでも問題なく、逆に言えば全てのロールを12分30秒ジャストで上げても、プリントで十分対応が可能であり、その特性曲線で読める通りに、決して直線性の良くはないのだけれど、乱暴な扱いをしても自分の意図した諧調を引き出せるフィルムであった。

しかし、2号印画紙を前提に浅めに上げ続けたネガは、そのずうっと後になって(つまり今になって)、問題を引き起こすことになる。スキャニングである。

これについては別項を起こすつもりでいる。


余談だけれど、このISO=ASA320の感度による露出の感覚は身にしみ込んでしまって、ポジに移行してからのそれは160で使っていた。これには別の理由もあって、コダック社のEktachrome(特にE100シリーズ)は160で露光して+1/2EVの増感をかけると、ほんの少しハイライト側に諧調感が出るのだった。

そして、ディジタルの今、その常用感度は320に決めて往年の露出感を楽しんでいる。


白滝から乗車の521列車は、ここで上りの<オホーツク>を待って長時間停車した。

スハフ32の窓から溢れる白熱灯の灯りを暖房管からの蒸気が柔らかく包み込む。

Tri-X でのバルブ撮影は、その減感露出と現像でストレートでも焼けそうなネガが得られた。長い現像時間でもあまりガンマの立たない特性もこれに寄与していたと思う。

この頃の丸瀬布は、勿論有人駅で貨物も取り扱っていた。客車左側の側線にはワム車が留まり、余計な光源を遮ってくれている。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4   Bulb@f16   NON filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1978

小平とか初山別には夏場も行っているのだけれど、鬼鹿には冬ばかりだった。とりたてて意識した覚えはないのだが、D61重連の運炭列車目当てに、初めて訪れた際の写真どころではない強風と吹雪に強烈な印象のあるせいなのだろう。

1970年秋の築別炭礦の衝撃的な閉山による、それの運行停止後の訪問も冬を選んでいる。→鬼鹿(羽幌線) 1973


五万分の一地形図「港町」図輻に、その記号は見られないものの、ここには温泉が湧いていたのである。

駅の名所案内標に「鬼鹿温泉(南0.5キロ)」の表記があって、訪ねてみたことがある。そこには、鬼鹿観光ホテルなる宿泊施設が建ち、これがイコール鬼鹿温泉なのだった。その範疇であるかは疑問だが、いうなれば一軒宿の温泉である。吹雪に荒れる海を眺めながらのひと風呂は、当時の旅にしてみれば一級の「贅沢」と言えた。

泉温はそのままでは入浴に適さず、加熱を要していたけれど、大浴場脱衣所には温泉法に基づく掲示がなされていたから「温泉」には違いない。

勿論、宿泊施設なのだが、むしろ今に言う日帰り入浴の需要に依存していた感があり、小平側に町営の「ゆったりかん」なる入浴施設が開業して客足が遠のき、廃業に追い込まれたらしい。羽幌線廃止後の1990年代末のことと聞く。


鬼鹿に限らず、羽幌線沿線には板囲いの家屋が多々見られた。もちろん、冬の強風への備えとしてである。波飛沫混じりの北西風を永年に受けたであろうそれは、汐枯れした渋みがあった。

構図を探して歩き回ったけれども、列車の時間が迫って、人も車も通らない路上からのカットになってしまった。


列車は、鬼鹿上り方に在ったホンオニシュカッペ川橋梁上の4802D<はぼろ>。幌延から羽幌線を通しての札幌行きである。

所定は2両組成なのだが、この日はさっぽろ雪まつり対応の増結があり、留萠回転車を羽幌線内に延長、さらに1両を加えた4両編成にて運転された。

網走からの<大雪>、遠軽〜興部からの<紋別>と併結となる函館本線区間では、それぞれへの増結も在って14両の長大編成だったはずである。


[Data] NikonF2A+AutoNikkor28mm/F2.8   1/250sec@f8   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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別当賀-落石 (根室本線) 1978

前にも書いたことがあるが、撮影行動は鉄道にて移動し、駅からは徒歩である。

蒸機を撮っていた頃は皆そうだった。40年を経た今でもこのセオリーに従っている。もちろん、下車駅から利用が可能ならばバスにも乗るし、タクシーも使う。歩きに拘っている訳では無い。

鉄道を撮らせて貰いに往くのだから、その収益に僅かでも貢献したいのも確かだけれど、何よりも、列車に揺られ、駅の風情を眺め、ゆっくりと過ぎる視界に風景を満たしながらポイントに至り、そして脚を立てて列車を待つ、そのプロセスを楽しみたいのである。行動中に多々ある長い登坂や急崖の登摩、薮漕ぎなど山屋の範疇も侵しての上である。

クライアントなり編集者の意図になる写真を、何が何でも持ち帰らねばならない仕事写真ではない。それも十分に楽しんではいたけれど、写真を撮る楽しみを楽しむには、やはり鉄道旅に歩き旅が相応しい。


とは言え、これも以前に書いたように撮影が目的だからとりたてての観光スポットに足を踏み入れるではない。鉄道から離れた場所には行かない。それが鉄道のポイントと重複する大沼公園や小清水原生花園は例外中の例外である。

さりとて、とりたてての所謂グルメを楽しむでもない。必要としての駅弁だったり駅前食堂であったりロードサイドのドライブイン程度である。それでも、何度か通ったポイント近くの農家で馳走になった「とうきび」(農家はプロだから自家用の作物は特別なのである)や、度々昼食用のパンを仕入れた駅前商店の主人の打つ、かの家に代々伝わる「田舎蕎麦」などに出会えたり、ポイント近くでたまたま飛び込んだ寿司屋が漁師兼業だったりもする。


自動車を利用した撮影でもポイントへの最終アプローチは徒歩に頼らざるを得ないことは多々ある。なかには、かつての上目名周辺のポイントや道路から保線用ステップを延々と登っても南稚内からの徒歩と変わらなかった犬師駒内(エノシコマナイ)原野など、駅から徒歩でなければ到達出来ないケースもある。

ここ、落石西方の落石湾を見下ろす段丘上の地点も道路が通じていないばかりか、線路伝いに歩く以外に手はなかった。もっとも、落石の外浜から浜辺を走行し段丘下に至ることは出来たが、それは四輪駆動車あってこそだった。現在では付近まで別当賀からの道路が通じている。


写真は最果ての冬空。その定番ポイントに至る直前の位置から海を見ている。後方のカーブした線路の先がそのポイントであった。

列車は412D<ノサップ1号>釧路行き。後追いのカットになる。

キハ56+キハ27の2両にキハ22の1両を加えたのが、この頃の所定編成であった。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8   1/500sec@f11   Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

西中 (富良野線) 1978

その夜の富良野盆地は厳しく冷え込んだのだった。このカットの夜ではない。その、ひとシーズン前の西中でのことである。

バックパックに入れた水筒が完全に凍りついて、素手で触れるのを躊躇してしまうような環境が、どれだけ気温の低下していたものかは分からないけれど、その厳寒でF2に仕込んだフィルムは、用心していたにもかかわらず次のアドヴァンスで折れてしまったのである。

仕方なく、翌日の撮影をカメラ一台のみにて済ませ、これを早めに切り上げて釧路の写真店で暗室を借りたのだった。ここで、リワインドもアドヴァンスも出来なくなった状態のままカメラから取り出し、フィルムの未撮影の残りを取り去ったパトローネに事故以前の、パーフォレイションも長く破損もしていた撮影済み部分をなんとか詰め込んで、これを持ち帰った。

後日に現像したそれは、折損部は勿論だけれど壊れたパーフォレイションが膜面を傷つけていて、予想通りにコマの大半が救えなかったのだった。

この翌月の道内行きで、多くは撮影し直したものの、富良野線は翌年に持ち越していた。だから、これは一年越しで再撮影したカットである。


富良野盆地内の富良野線は、鹿討の手前、起点4キロ付近から上富良野直前までの約10キロメートルが直線である。沿線は、駅周辺を除けば障害物の無い田園地帯で、どちらが先か分からないけれど、その碁盤の目状の条理線を正確にトレースしている。その開けた風景が気に入って幾度か訪れていたのだった。


西中はその区間の簡素な木造乗降場の駅で、この頃には、その傍らにプレハブの小さな待合所が建てられていた。国鉄に依るものと云うより、地元有志による寄贈物件と思われ、それもそのはずで、ここは1958年1月25日付にて開設の仮乗降場を出自としている。けれど、駅への昇格は、その僅か2ヶ月後の3月25日である。仮乗降場の大半が北海道旅客鉄道の発足まで正駅化を待たねばならなかった中にあって、2ヶ月でのそれは異例と云って良かろう。


これは、駅昇格を前提とした設置だったのである。

富良野線は、この1958年1月25日の時刻改正にて、気動車の投入による貨客分離を果たし、その加減速性能を生かした到達時分の短縮やフリークエンシィの向上が図られ、あわせて長い駅間を埋める多くの乗降場を開設する総合的な線区の経営改善が行われたのであった。

この改正で設置の乗降場は他に、近隣の学田/鹿討/北美瑛に旭川近郊の西瑞穂/西聖和を数える。神楽岡/西御料も一足早い1957年12月1日に開設されていた。

この営業施策は、当時の旭川鉄道管理局第二代局長であった斉藤治平が、ルーラル線区経営のモデル線区として本社の主導を得て実施したものであり、これら乗降場も当然にそれの認めるところであった訳である。国鉄本社においても、簡素な無人駅設置と活用の思想がこの当時既に存在したことの証でもあり、興味深い。

走り去って往くのは636D、旭川行き。後部標識灯は非自動化線区ゆえ片側点灯である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8  bulb@f8    Non filter     Tri-X(ISO320)     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

糠平 (士幌線) 1978

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蒸機の時代には撮っていない士幌線へ通うようになったきっかけは思い出せない。帯広を拠点にしていた狩勝新線と組合せられる線区として自然に選択したものと思う。

ロケハンに乗ってみて、十勝平野の起伏ある畑作地帯も、糠平湖北端の長い橋梁(第四音更川橋梁-256M)や幌加近くの峡谷(第五音更川橋梁-109m)も気になったけれど、黒石平からダム建設にかかわる急勾配で山腹を登る途上(下の沢橋梁-41M)や、糠平ダムを交わしてから糠平に至るまでの短いけれど湖畔の区間が気に入って、十勝三股で折返して糠平に降りたのが最初である。この十勝三股間までの区間の列車運行の休止されるのは翌冬のことで、ここのコンクリートアーチ橋梁を撮っていないのは、些か悔やまれる。


この頃までに糠平には、国道273号線の新道が途中まで完成して、そこから俯瞰気味のポジションが取れたし、自動車の往来の無くなった旧道なら、長い列車間隔をゆったりと待てた。時間を持て余し楽しむ環境が整っていた訳である。

この旧国道、夏ならよいのだが、積雪期には除雪されないゆえ踏み込むには覚悟が要った。雪の積もり初めの頃、10センチ程度の新雪と侮って難儀したこともある。その時期の降雪は決して粉雪とは限らないのだ。


雪とならば、ここでは温泉の楽しみも在った。これについては前に書いている。糠平 (士幌線) 1983

昼間の貰湯は、めったに人に会うこと無く、ひろい浴場を独占出来た。


写真は、旧道のトンネル付近から俯瞰気味に見た725D、十勝三股行き。

湖面を背景に、カーブの向こうから列車の現れるのを望むのは好きな光景だった。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5    1/250sec@f8    Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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(釧網本線) 1978

ここは、釧網本線の釧北峠の網走方に在って、東釧路方の川湯とともに運転上の重要な地位を占めていた。峠の山中に信号場を持たない14キロあまりの長い閉塞区間の始端終端駅として、そして弟子屈からここまでが運用区間であった補機の解結駅としてである。それは、古くは道内に珍しい8620であり、後にはC58なのだけれど、1968年と云う早い時期に釧路機関区に投入された12両のDE10(27-38)に置替られてしまい実見してはいない。

74年夏の本務機運用の無煙化以降もこの状態は続いたのだが、78年10月改正にて補機運用のその重連総括制御を活かしての釧路-網走間の通し運転に改められ、この頃にはここに待機する機関車の姿も見られなくなっていた。


上下本線に加えて下り線外側に待避線と、機回しにも使われたであろう2本の側線を持つ構内は広く、待避線では貨物列車が旅客(混合)列車の先行を待っていたものである。開けた構内は、その側線の東側に南へと広がる草原に依るところで、そこはかつて上札鶴森林鉄道の接続していた広大な土場であった。そこの本線寄りには68年10月まで使われた転車台の存在したはずなのだが、この時の訪問では積雪のせいか、その痕跡を探し得ていない。


網走行きの混合634列車は、ここで対向する613D<大雪1号>の通過待ちで暫し停車する。待避線には1693列車が、それの先行を待っている。

貨物列車の設定が比較的多かった釧網本線には、待避線を持つ駅が数多く配されており、1982年の釧路鉄道管理局による配線略図では起終点と棒線駅を除く線内19駅中14駅にそれが見て取れる。(但し、その全てが運用されていたとは限らない)

なお、ここの混合列車は、貨車の前位組成定位により冬期の暖房を車載のウェバストヒータによっていたから、例え貨車の連結の無くても蒸気暖房のスチームの吐出は見られず、些か物足りない。前記の12両のDE10も後には1両を除いて蒸気発生装置非搭載の500/1500番台に差替えられている。

余談ながら、道内でDE10が蒸気暖房を稼働したのは、73年4月から86年3月2日までの江差線列車に対してのみである。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8   1/250sec@f11   Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1978

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冬期間、函館本線の山線と呼ばれる区間での風雪による輸送障害は、山間部よりも寧ろその中での海線である小樽築港-銭函間で生ずることが多かったと記憶する。現在の民営会社と異なり、国鉄は余程で無い限り列車を止めはしなかったのだが、海岸線をトレースするここでの暴風雪には脆かったのである。


この冬か、前の年であったかは忘れてしまったのだけれど、午後からの降雪が夕刻に至って、丁度撮影を終えたあたりから極端な吹雪と化したことがあった。風雪は飛礫となって露出した顔面を襲い、まともに前を見れぬ程で、マウンテンパーカのフードを深く被り、こんなこともあろうかとパックに用意していた山岳用ゴーグルをかけるのだが、高所での紫外線対応で暗緑色ゆえ、暮色の視界がさらに暗くなってしまうのが難点ではあった。

這々の体で銭函駅待合室に逃げ込み、そこで小樽-手稲間の運転見合わせを知った。そう言えば、ここに至るまで列車には出くわさなかった。

その日は道内ツアーの最終日で、山線夜行の荷44列車で函館に向かう予定にしており、それを札幌まで迎えに往くつもりを、ここで待てば良いと最初は高を括っていたのだった。海鳴りとも風音とも知れぬ唸りが天空を覆って、海側を向いた待合室の窓と言う窓は、横殴りの風雪に塞がれてしまったのだけれど、ストーブの燃えるそこは快適ではあったのである。但し、売店は早仕舞いしていた上に外にも出れぬから空腹は堪えるしかない。

19時を過ぎても風雪は一向に収まらず、札幌に待機していた<ニセコ4号>と、まもなくそこに到着する<北海>は、長万部以遠本州方面旅客を<おおぞら6号>に移乗させた上で前途を運休と出札の駅員から知らされれば、札幌からの夜行<すずらん>への切替を考えるも国道を往くバス便も運行を停止していると云う。


駅寝も覚悟し始めた23時を回った頃、遂に運転は再開され、何本かの電車や気動車が満員の通勤客を吐き出した後に、荷44列車はその日の最終列車としてやって来たのであった。ガランとした客車に乗り込んだ時には安心感からか、空腹も厭わず直ぐにも眠りに落ちてしまった。直近の小樽停車すら覚えていない。

翌朝、周囲のざわめきに目覚めると、満員の乗客の姿が見えた。遅れを増して函館の通勤通学時間帯に割り込んだ列車は、約3時間延で8時過ぎのそこに終着した。予定した26便には乗れなかったけれど、ホームの駅蕎麦の美味しかったことは記憶に鮮明だ。


写真は、激しい降雪の恵美須岩を往く833列車岩見沢行き。

視程が効かず望遠は使えない。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4   1/250sec.@f5.6   Y42 filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

函館 (函館本線) 1978

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(函館 (函館本線) 1988 から続く)


1993年以降、機回線を含む5面10線にて運用されて来た函館駅は、2001年4月26日に駅本屋建替計画にともなう構内改良工事が起工され、それは5月9日を第一回として以後2002年1月31日まで延べ40回の線路閉鎖をともなう大掛かりなものであった。深夜のそれにより、その実施日には下り<北斗星>に上下<はまなす>が五稜郭-函館間を運休し、時刻表にも記載されたのでご記憶の方も多いだろう。

特に2001年8月25日には15時より15時間に及ぶ信号の現示停止がなされ、この間手信号により最小限の列車運行を確保しながら、翌8月26日に有効長357メートルに及ぶ第6乗降場(9・10番線)と外側の機回線(11番線)が運用を開始した。これは、新本屋建設に支障して撤去される第1/第2乗降場(0-2番線)と有効長が70メートルにまで短縮予定の第3乗降場(3・4番線)の代替となるものであった。

同年9月27日には0番線を廃止して3・4番線を使用停止。翌2002年1月31日には1・2番線を廃止し、電車線設備を撤去の上で3・4番線を復活、合わせて跨線橋を廃して各乗降場の端部を連絡する地平通路が設けられた。この際にホーム番線の3-10番を1-8番に改める現況に移行し、一連の構内改良を完工した。


構内のコンパクトに一新された函館駅であるが、ここで注目すべきは現行の第1乗降場である。それは、70メートル程が残されるのみとは云え、気動車特急が13両の長大編成を横たえるなどした、かつての優等列車ホーム「函館第2乗降場」の北端である。早暁のここに立って、3番・4番線ホームに並ぶ<北海><おおぞら>を眺めた経験をお持ちの方は多いだろう。位置は動いていないから、ここを基準にかつての構内を想起することも出来る、旧函館駅唯一の遺構である。

駅舎建替には触れなかったが、この2代目函館駅で4代目となる新駅本屋の供用開始は2003年6月21日であった。


写真は、旧跨線橋から暮色の北側構内を見ている。右が旧第1乗降場、左が旧第2乗降場である。この日、遅れの16D<おおとり>は、まもなく定時で到着する6D<おおぞら2号>に4番線を譲り3番線の到着となった。この北端部分が現第1乗降場として残る。

ところで、現在、旧函館シーポートプラザ建物に隣接して「旧函館駅所在地」なる碑が置かれ、0キロポストを模した石柱が存在している。これは、1962年の函館駅開駅60周年事業として、1902年12月10日に海岸町に開業した初代函館駅の跡地とされる公園に建てられたもので、どのような経緯か知らぬが1990年にここへ移設されたのである。このような歴史を無視した暴挙は考えもので、そこに存在する意義の全く無いものであるばかりか、案内板の併設されるものの一読しては解り難く、史実を知らない者に誤解を与えかねない。


=参考文献=

道南鉄道100年史「遥」 : 北海道旅客鉄道函館支社 2003


[Data] NikonF PhotomicFTN+AiNikkor50mm/F1.8   2sec.@f5.6   Non filter   Tri-X(ISO400)   Edit by CaptuerOne5 on Mac.

元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978

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(安別仮乗降場 (天北線) 1985 から続く)


前回で述べた旭川鉄道管理局管内の事例は地元のニーズに開設を急いで(積雪期に間に合わせる等)、局長判断にて手続きを省略し本社承認を得ないものであった。

推定に過ぎないが、斉藤治平のそもそもの発案は、それこそ彼の専門分野と思われるバスのごとくに気動車を煩雑に停車させることではなかったろうか。例え数戸であろうが集落に通ずる道の線路に接する地点に「停留所」を考案したのである。従って乗降設備も気動車の乗降扉の一箇所が接すれば良い程度の乗降踏台を想定していたものと思われる。

この提案に現地事情を知らぬ本社側は、それを臨時乗降設備仮設の管理局長権限の拡大解釈と認めるにしても、高頻度の停車によるダイヤ編成への影響や車両運用など運転上の事由にて難色を示したのではなかろうか。戦前に試行された「ガソリンカー駅」の失敗も考慮されたであろう。

1960年までの97場設置は、斉藤としても譲歩した結果であり、設置経費増を招く気動車1両分程の乗降台設備は運転側の制動操作に配慮して本社指導を受け入れたものと推測する。

斉藤は設置を進めながら、利用者数の当時の駅設置基準に到達した案件については積極的に駅昇格も働きかけ、それを実現している。キロ程付与による利用者の運賃負担軽減を慮ってのことである。


この斉藤治平による事例を以て、道内の仮乗降場全てを未承認案件とするのは誤りと思う。

国鉄における「仮乗降場」とは、本邦にて最初の統一された鉄道の技術基準である「鉄道建設規程」(1900年8月10日逓信省令第33号)の第31条に規定された「地方ノ状況ニ依リ」特許を得て「設クルコトヲ得」る「簡易停車場」に端を発するものと思われる。

1907年に開設された札幌競馬場への観客輸送を図って、1908年8月8日から4日間のみ使用された北五条、それを引き継ぐ1913年7月19日付の競馬場前の道内初期の「仮乗降場」事例は、この規程に準拠したものであろう。当時に、これを「仮乗降場」と称したかは定かでない。ちなみに競馬場前は現在の桑園の前身にあたる。

続いての「仮乗降場」には、1926年7月1日開設の瀬越、1932年7月22日の新七重浜、そして1944年7月1日付での胆振縦貫鉄道の国有化に際して、地方鉄道建設規程に従っての停留場の内、駅に昇格されなかった尾路遠の例が在る。尾路遠は山中に存在した保線区所の官舎居住職員・家族のみの利用につき、駅とはしなかったものである。

これらは前回に「仮乗降場」の項を引用した『鉄道辞典』の編纂より前の鉄道省の時代なのだが、引用の前段での解説通りに本省予算にて設置し鉄道公報にて達の出され、鉄道局管理部がこの場合は通年開設としたものであろう。云うなれば正規の仮乗降場だったはずである。

(この項 電力所前仮乗降場 (士幌線) 1979 に続く)



元沢木は、斉藤治平の設置した一連の設備で1955年12月25日に開設されている。対して、彼の関わらない1948年に仮乗降場として置かれたのが栄丘である。設置当初の姿は知らぬのだが、この当時の土工のホームは、その海側に交換設備を予定したような用地も持っていた。ここは、元沢木の置かれた約1年後の56年9月20日に駅へ昇格した。これを含む1946年から1950年に開設された28場の仮乗降場については次回に述べる。

写真は、元沢木を発車して往く827D、雄武行き。

海沿いに散在するけれど酪農の集落である。板張りの乗降場は左に画角を外れたところにあった。

(文中敬称を略)


[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8   1/250sec@f8   Y48 filter   Tri-X(ISO320)   Edit by CaptureOne5 on Mac.

上越信号場-奥白滝 (石北本線) 1978

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オホーツク岸の湧別/網走を道央に連絡する道路は、1889年6月に着手し僅か60日ばかりで旭川湧別仮道路として一応の開通を見た。空知監獄の囚人37人を使役した突貫工事と云われているが、驚くべき短期間での開通は、そこに既存であったアイヌ民族による踏み分け道然の交易路を拡幅したものとも思える。この道路は野付牛(現北見)を経由する北見道路として翌1890年に本工事が着工され、1891年12月27日に完工と記録されている。

これは人馬の通行を前提としていたから北海道の中央山脈を湧別への最短距離となる北見峠で越えていた。


一方、1898年に旭川へ達した鉄道路線は、富良野へと南下し狩勝峠を越えて池田より北見、網走に至る網走本線が1912年12月5日に全通している。距離は延伸しても根室方面と中央山脈通過線を共用出来るのが、その事由と思われる。それの短縮も1921年10月5日に全通を果たした名寄線/湧別線経由が選ばれ、石狩と北見を隔てる山岳地帯の通過線は北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)第二条に規定の別表にすら記載されないものであった。

この峻険な峠に対して、当時の非力な機関車運転に求められる線形の実現に要する隧道延長とその工事の困難が予想されたゆえである。


1899年から建設の請願活動の行われたと云うその路線は、1920年に至ってようやく臨時第43帝国議会の協賛を得、1922年鉄道省告示第45号により北海道建設事務所の所管となり着工した。奥地での4000メートルを越える隧道掘削にも確信を得られる技術の発達も背景にあるだろう。同所による当初の現地調査では、その位置は北見峠と石北峠の双方が候補に挙げられていた。石北峠となれば武華原野への直行にて経由地から外れる白滝や遠軽地域が、これにどのように運動したものか、遠軽町百年史に記載はない。(読み漏らしかも知れぬ)

けれど、1923年9月1日に発生した大正関東地震からの復興予算に関連しての工事凍結に対して「かぼちゃ団体」と全国紙に報道されたような陳情団を長期中央に派遣し、強力な抵抗運動を展開したのはこの両地域の住民であった。


工事は白滝を境界として上川方を西工区、遠軽方を東工区と分け、石北トンネルから白滝に至る区間は西3、西4と西5工区に当たる。隧道内の最高点を新旭川起点67K473Mの施行基面高644M10に置いて、これより白滝方を15.2パーミルの下り込みとして出口の起点69K669M地点の施行基面高を611Mまで下げるのだが、そこから奥白滝構内直前の起点73K521Mまでの高低差100メートル余りには急峻な地形が続き、湧別川の本支流の横断に多数の架橋を要する難工事と記録にある。

この区間の路盤開削は、まずは石北隧道工事への資材運搬路として行われ、それには遠軽の業者が導入したフォード社製の貨物自動車が使われた。余談ながら、これが白滝村に現れた最初の自動車と村史にある。


西4と西5工区であったこの区間は、確かに山深くて狭い谷に撮影の足場は見つからなかった。

列車は、522列車。この頃、石北本線を通す唯一の普通列車だった。(下りは北見で521-1521と列番が変わる)


=参考文献=

北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981

鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972

北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992

北海道道路史 3 路線史編 : 北海道道路史調査会編 1989

遠軽町百年史 : 遠軽町編 1998

白滝村史 : 白滝村編 1971


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5  1/250sec@f5.6   Y48filter   Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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倶知安 (函館本線) 1978

クッチャン原野への入植は1892年の47戸に始まると記録されている。以来10年程の間に、ここには村が開かれ戸長役場も置かれて、駅逓に郵便局も設置され原野の各所に尋常小学校の開設も進んだとあるから、入植人口も順調に増加したものであろう。現在位置に小規模ながら市街地も形成されていた様子である。


北海道鉄道(初代)による倶知安駅は歌棄(現熱郛)-小沢間開業にともない、その市街地の西側クトサン川沿いに1904年10月15日に開駅した。なお、北海道鉄道線はこれにて函館-小樽中央(現小樽)間が全通している。

ここには黒松内に続いて機関庫が設けられ、山岳線用マレー式B+B型タンク機関車D1形(11号機関車)などの配属されたものと思う。この機関庫は国有化後の1913年6月2日付にて駅から独立した現業機関-倶知安機関庫(後に機関区)となった。運転区所としては、客車配置の小樽築港客貨車区倶知安支区に駅から分離の倶知安車掌区も置かれて、長万部-小樽間の運転上の拠点化が進められたのだった。こればかりでなく、ここへは、保線区に信号通信区、建築区、電務区などの現業機関の出先に、宿泊所や物資部の配給所なども置かれることとなった。山線区間のほぼ中間に位置する地理的条件に加えて、それに従事する大量の職員を受け入れるだけの都市機能も、既に備えていた訳である。

駅の貨物扱いも多かった当時には駅の拡張も進められ、広大な構内を擁するまでになっていたのである。


写真には、ここの拠点機能を維持していた、その末期の構内全景が見える。

左端の機関区には機関車の配置は無くなっていたけれど、キハ22の10両が居て岩内線と胆振線に運用を持っていたし、奥の客貨車支区の庫には機関区に常駐のスエ30が収められていた。右の貨物積卸線には停泊車の姿があり、コンテナも積み上げられている。但し、これは日本通運のデポに利用されたもので、コンテナ貨物の扱いが在ったのではない。

胆振線の本線に多数の側線も健在であるし、夜間にも入換えの有る構内は照明に煌煌と照らし出されるのだった。

出発して往くのは、荷42列車函館行き。


今、構内西側は、駐泊庫として使用のかつての客車庫を残して建ち並んでいた鉄道官舎も全て取り払われ、スポーツ施設に公園と化した。駅本屋側の官舎も無くなり貨物施設跡ともども駐車場に転用の空間が目立つ。持て余し気味の二階建て本屋は、1960年7月の改築に際して、ここに在った多くの現業機関事務所を収容するものであった。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4   1/8sec.@f2.8   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

 
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