八雲に、八雲ローヤルホテルという「ホテル」があった。永く、函館から小樽までの間で唯一の「ホテル」だった。


もちろん長万部やニセコにも駅至近でホテルと名乗る宿泊施設は存在したが、それらは道内時刻表巻末の宿泊案内の料金欄に「一泊二食付き」とあるように実態は「旅館」である。

チェックインが遅かったり、アウトが異常に早朝だったりの撮影行では、食事や入浴に時間の制約のある旅館は使い勝手が悪く、この頃の、たまの地上泊(車上の反意語、つまり夜行列車ではない、と言う意)には「ホテル」が欠かせなかった。


八雲ローヤルホテルに初めて投宿したのは、71年夏の渡道時だった。

時刻表巻末に「一室」で料金が示され、ここは「ホテル」と確信して電話を入れたのだった。

駅から数分の徒歩で到着したそこは、「ホテル」に違いはないものの、つい最近まで「旅館」であったのを無理矢理に「ホテル」と云い包めた風情で、ついこの間までの和室にベッドが置かれ、その寝具はあきらかに所謂布団からの転用に違いなかった。

しかし、この転換は時代の先読みに違いなく、この「ホテル」はまもなく鉄筋のビルに立て替えられ、ビジネスホテルのみならずレストランやコンヴェンション施設も併設した、この地域で唯一の「シティホテル」として盛業を続けた。

その後も幾度か利用し、ここのフロントマン(支配人か)には大変良くしていただいたものだ。


しかし、駅前に本来の「ビジネスホテル」が進出し、浜松の八雲温泉に大規模な宴会場施設が開業するなどの影響か、たいへん残念なことに2008年7月をもって廃業してしまった。


この日は、落部の海沿い区間での撮影を予定していたものの天候が悪く、これを断念して八雲付近でのスナップに切り替えた。フロント(雰囲気は帳場と呼ぶべきものだったが)の親爺さんの「八雲に来たなら牛を撮れ」の助言(?)に従ったカットだ。

八雲町は道南では有数の酪農の町らしく、それこそ牛はそこらじゅうに居た。牧草地とは思えない草地にも牛は放牧されていた。


列車は、15D<おおとり>網走行き。編成は基本の7両のみの運用だった。後追いの撮影である。

小雨の中でも、牛は何も気にする風でなく草を食み続けていた。


[Data] NikomatFT+AutoNikkor105mm/F2.5     1/500-f5.6     Y48filter    Tri-X(ISO400)     Edit by PhotoshopLR on Mac.

八雲 (函館本線) 1971

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1971

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(函館本線) 1971

意識的に鉄道を撮り始めた60年代の後半には、札幌周辺でも大型蒸機は身近であったし、函館本線と言えば小樽以北でのC57急行や山線区間のC62やD51の重連に目を奪われていた。

本格的に海線の区間に向かうのは札幌を離れた70年以降で、それは内地からゆえ周遊券が使えたことも大きい。


内地と結ぶ貨物輸送は、戦中戦後を通じて工業都市室蘭を控え道東道北と直接に連絡する室蘭本線が中心であったが、この60年代には旅客輸送においても、その比重は移りつつあり、折からの経済成長による逼迫した需要に対して、このルートでは輸送力の増強が進められていた。

函館海線の森以北区間では、この71年夏までに石倉-野田生/山越-八雲間と北豊津信号場-長万部間の線増は完了し、本石倉信号場を含む石谷-石倉間の別線なども工事たけなわの状況であった。この撮影の翌月には桂川信号場-石谷間も、桂川トンネル(706M)の開通により湯ノ崎を回る旧線を切替えている。

しかしながら、ここ森から桂川信号場の間の複線化は、かなり遅れて79年9月27日の使用開始と記録にある。


森下り方のこの海沿い区間は、駅至近にて、それと駒ヶ岳を画角に収められる手頃なポイントとして以後も多々訪れている。多くの方々にも定番撮影地なのではなかろうか。


列車は、125列車札幌行き。函館を13時に出て砂原線/山線を経由、11時間をかけて深夜の札幌に至る列車であった。

この列車の30分程前には、ここをC62に牽かれた<ニセコ>の運転があったのだが、群がった撮影者たちは、それが通過すると潮の引くように去ってしまった。当時のSLブームとやらの底の薄さを見た思いがしたものだ。


[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F1.8   1/250sec@f8    Y48filter     Tri-X(ISO400)    Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

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小沢 (函館本線) 1971

同好者に会わぬことはなかったが、70年冬までの山線はまだ静かなほうだった。

それこそ、かき分けねばならない深雪の斜面に、そこで出会った鉄道屋同士が協業してラッセルしポイントを確保するのは日常であり、それは、画角に移り込む雪面を無闇に荒らさないための暗黙の了解でもあった。

様相は、その雪解けの頃から変わり始め、週末の上目名など目名側に下った斜面と云い、第一白井川トンネル近くと云い、さながら集会場の様相を呈し始め、夏を迎える前には罵声の飛び交う地と成り果てた。

長万部、蕨岱、倶知安、小沢に銀山、塩谷と、状況はどこも同じだった。

鉄道趣味とは大人の趣味だ、とその師匠でもある親父から教えられた身としては、堪えられぬ現場であり、何よりも「撮りたい画角ではもう撮れない」と判断して4年間通った山線からの撤退を決め、7月18日をはじめに三度実行された三重連運転のお祭り騒ぎもテレビニュースで眺めながら、夏の撮影では海線でC62急行を見送り、内地からゆえ使えるようになった周遊券にて、より奥地へと遠征したものだった。


「撮りたい画角で撮れない」のは鉄道屋にとって致命的であり、それが叶わぬならば、撮影を諦めるか状況を受け入れるしかない。罵声を発してまで実現させたところで、それはそこに集った多くの人々と大差ない撮影結果だろう。そういう現場なのであるから。

鉄道撮影には、公共財である鉄道を鉄道用地なり私有地から「撮らせてもらっている」という謙虚さが必要だ。


71年の12月、永い喧噪の去った小沢で撮りたかった絵を撮った。後追いのバルブなので他に撮影者のいる環境では難しい。

列車は、勿論103列車<ニセコ>である。

発車を見送った後、しばしその場に佇むものの、重連総括制御のDD51とあっては山間にこだまする汽笛は聞こえず、静寂の支配するのみだった。


[Data] NikonF+P-AutoNikkor105mm/F2.5   Bulb(Multiple Exposure)@f8    Non filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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厚岸 (根室本線) 1971

厚岸周辺は、釧網本線の細岡や塘路と並んで道東での定番の撮影地だった。

前にも書かせていただいた門静方の厚岸湾沿いの区間に、糸魚沢方へ向かっての厚岸湖岸から別寒辺牛湿原に至る区間など魅力ある風景が展開する。ただし、湖水や湿原とあっては足場の限定されるのが難点ではあったけれど。


厚岸湖は幅400m程の水路で厚岸湾に開口しており、当然ながら汽水湖に区分されるが、汐の干満差が大きく実質的には海である。牡蠣の養殖事業もそれゆえであり、事実、漁業法下では内水面でなく海面として扱われている。

厚岸の構内を抜けた根室本線はR300の曲線で左に曲がると、その湖岸線に出る。ここには牡蠣漁業に使われるものなのか小舟の船溜まりがあって、ここでの撮影では前景や点景に取り込ませてもらった。ただ、それが干潮時にあたると遠浅の底が露出して、泥の中に小舟の埋まる光景となるのが困りものではあった。


写真は丁度その干潮時の巡り合わせで、ならば満潮なら撮れないアングルを、と露出した石混じりの泥の中に三脚を据えたカットである。

列車は、混合441列車。この日は貨物の財源は持たずにやって来た。根室本線の混合列車は、釧網本線と異なり蒸機暖房を使用するため旅客車前位の組成を定位としていた。


この当時、釧路-根室間には混合列車1往復の他に貨物列車3往復の設定があって、全て釧路機関区のC58の仕業であった。同区へは68年度からDE10の12両の配置があったけれど、釧網本線の補機仕業に優先投入され、ここへの入線は72年の夏からである。


8月というのに朝から肌寒い日で、午後に向けて気温はさらに低下し、厚岸駅ではストーブが焚かれていたのが印象に残る。


[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F1.4   1/250sec@f8-11    Y48filter     NeopanSSS      Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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八雲 (函館本線) 1971

Tri-X pan フィルムのこと、そしてコニドールファインのことを書かねばならない。


はじまりは、ご多分に漏れず富士フィルムのNeopanSSである。この頃のNeopanSSは赤に感色性を置いたスーパーパンクロマティックで、小西六の KonipanUSSはパンクロマテイックだったけれど、赤外線領域に至る感色性での遠景描写から選択していた。もっとも、それをはっきりと認識していた訳でなく写真雑誌の受け売りである。

けれど、すぐに1/500秒では絞り開放ばかりで被写界深度の取れないと分かり、感度ASA200のNeopanSSSと併用するようになった。

これを、親父から譲り受けた玄光社刊行の‘最新写真処方集’(*1)を参考書に、コダック社の普通微粒子現像液D-76を自家調合し、パターソンタンクで処理していた。

SS、SSSともに実効感度は低めと感ぜられ、22℃現像で、SSでは4分30秒、SSSなら6分を標準にしていた。

液温の22℃を選択したのは、温水=湯による液温調節が夏期の氷ないし冷水によるものより容易かったに他ならない。

偉そうなことを言っても、この当時の現像技術は未熟もいいところで、現像が行き過ぎて粒子を荒らしていたり、撹拌の過不足により現像ムラを生じたりしている。ただ、「水洗だけは確実に行え」との教えを忠実に守ったためか、40年余りを経た現在でも変色もなく健全なネガである。


この頃既にTri-Xは、幾度かの改良を経てKodak Tri-X pan Filmとして感度ASA400を実現して販売されていたけれど、それは国産フィルムに比して大変高価で、先輩諸氏は100フィートの長巻をディロールで使用済みパトローネに装填して使うと聞いていた。なにより、当時の札幌のカメラ店では、夜間専用の特殊フィルム扱いで店頭に在庫されず特注商品であった。


それでも、鉄道と言う高速で移動する動体の撮影で、なおかつ絞り込みたいと希望する身にあってはASA400の感度は魅力であり、内地に移り住んだ1971年に、新宿東口に在ったサクラ屋カメラ(*2)で36枚撮り個包装400円(だったと思う。記憶は定かでない。国産のSS級は100円程度)を見つけて1本だけ買い込み、その夏の道内撮影で使った。


前置きが長くなり過ぎた。この項は続ける。


(*1) - 奥付に昭和27年1月25日初版発行とある。玄光社は、コマーシャルフォトなど写真関係刊行物の版元として現存する。

(*2) - 後の「カメラのさくらや」新宿1号店である。価格競争に破れ2010年2月28日をもって惜しくも閉店。


写真は、Kodak Tri-X pan Film 最初のロールからのカットである。

夏の強い光線に助けられてではあるけれど、1/500秒でf11まで絞り込めて135mmレンズながら編成後部までを深度内に収めることが出来た。ブリントを上げて、さすがに感度400と感激した覚えが在る。現像はへたくその一言。


列車は1354列車。レム車を連ねた編成は桑園始発の本州への鮮魚列車であった。伊達紋別の側線がレムで埋め尽くされていたのを思い出す。


[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8   1/500sec@f11   Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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深川 (函館/留萌本線) 1971

丸の内の国鉄本社ビル1階ロビーに『国鉄PRコーナー』なるスペースがあった。それがいつ頃開設されたものか知り得ないが、1970年の秋には既に存在していた。

同様のコーナーは、東北支社、後に仙台駐在理事室の管轄にて仙台市の国鉄ビルにも開かれ、全国で2例のみと聞く。

いったい、どのような層を対象に、如何なる意図で設置されたものか、まさかファンサーヴィスとも思えぬが、ここには国鉄を広報するパネル展示がなされ、様々なパンフレット類やPR誌が置かれていたばかりでなく、鉄道公報を始めとして全国の列車運行図表や車両配置表に運用表、優等列車編成順序表などの資料、さらには部内/現場向けに刊行された車両の解説書などの図書類が備えられ、カウンターに申し込めば閲覧が可能であった。


この当時の撮影の情報源と言えば、“ピクトリアル/ファン/ジャーナル”の三大鉄道誌は存在したものの、肝心の列車ダイヤや機関車運用となるとキネマ旬報社が刊行していた『蒸気機関車』誌に特集記事に合わせて折り込まれる程度であり、現在の『鉄道ダイヤ情報』誌の前身となる『SLダイヤ情報』の創刊も72年10月を待たねばならず、これとて年刊のレヴェルであった。


その状況下で、『国鉄PRコーナー』の存在は、まさに宝の山に違いなく、閲覧は出来ても複写は許可されなかった列車ダイヤの転記に、方眼紙持参にて足繁く通ったのは言うまでもない。

もちろん転記はそればかりでなく、当時ここで得た様々な資料は、その後の鉄道研究の出発点であり、一次資料として現在も活用させてもらっている。

(この項 小平 (羽幌線) 1972 に続く)


写真は、5787列車。芦別から留萠への運炭列車である。

ここで閲覧した運用表で、留萠本線の後補機付き列車は深夜帯のみと知り、深川での撮影を試みたものだ。

同じく配線図から函館本線の中線より下り線を横断して留萠本線への転線と推定して、本務機の煙も後補機の右奥で十分にラインライトに浮かぶと予想したのだが、凄まじいドレーンの蒸気で見事に裏切られたカットである。(なお、1972年3月改正にて昼間の5783列車も後補機付きとなった)


余談だが、カウンターを担当されていた女性の方には、このコーナーが閉じられて文書課に移られてからも部内の情報源を紹介いただくなど随分とお世話になった。後年の寿退社の際には結婚披露宴にご招待にも預かった。今、ご子息も鉃道にお勤めと聞いている。


[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5   1/30sec-f2.5    Non filter    NeopanSSS(ISO200)   Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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大沼公園 (函館本線) 1971

鉄道事業にとって通勤通学や用務利用客ばかりで無く、観光に娯楽や休養目的と云った旅客の誘致は、戦前期より必須であった。私設鉄道においては、寺社仏閣や静養地/保養地への到達を目的に敷設されたものも少なく無く、沿線に観光地の無ければ自らが遊園地や劇場等の娯楽施設を運営し、集客を図って来た。ターミナル駅へのデパートの開設も、その延長上にある。

鉄道院/鉄道省の時代からの国鉄も同様で、直営の施設運営こそないものの(*)近郊の沿線観光地を駅頭にて宣伝し割引乗車券の発売などを通じて誘客に務めたのである。国鉄は全国ネットワークであるから、各地の有名観光地も対象となり、周遊券の起源となる「遊覧券」制度は1925年に制定され、北海道や九州と云った観光地の集合体である地域を対象とした自由乗降型の北海道遊覧券に九州遊覧券も1933年には発売されていた。

戦後も、それは輸送事情の落ち着いた1955年に周遊旅客運賃割引規定に基づく「周遊割引乗車券」として復活し、翌年には最初の均一周遊券として北海道周遊券が登場している。


(*) - 例外として、「国鉄山の家」「国鉄海の家」があった。どちらも国鉄直営によるスキー客/海水浴客向けの宿泊施設である。道内には、1937年開設の「ニセコ山の家」が存在して2000年代初めまで営業していた。


1960年代の高度成長期に至ると、折からのレジャーブームにより観光旅行は主婦や中高年層をも巻き込み、国鉄はより一層の旅客誘致策を投入することになる。ここに登場したのが、特定の観光地に対して国鉄運賃/料金のみならず、2次交通や宿泊施設までも割引料金にて加えたクーポン式の特殊割引乗車券であった。現在では、旅客/貨物鉄道各社による旅行業は、あまりに一般化しているのだが、それまであくまでも利用運輸機関として旅客誘致に携わった国鉄が、「旅行商品」そのものを企画し販売した最初の事例となった。そして迎えるのが1970年に大阪千里丘陵にて開催された万国博覧会である。


1964年に初めて単年度の赤字に陥った国鉄は、66年3月に運賃/料金の引上げを行うのだが、これは増収どころか、輸送人員の減少をもたらしていた。その意味でも、大きな輸送需要の発生が予想された万国博覧会は、起死回生の機会でもあったのである。

東海道新幹線電車の16両編成化や波動用12系客車の投入などの輸送力増強を背景に、万国博の見物旅行には全国各地を発駅とする特殊割引乗車券が設定され、販売に際しては大手旅行業者との提携の元、電波/紙媒体ほかのマスコミを最大限に利用した一大キャンペーンを展開する一方、全国主要駅に万博コーナー(専用カウンター)を設置してのきめ細かな誘客業務も行われて、国鉄は万博全入場者の約34%を輸送する実績を確保したのだった。


この万博輸送に整備された輸送力を有効活用し、それの閉幕後の需要確保を目的としたのが、1970年10月1日からの『DISCOVER JAPAN』と題された誘客キャンペーンであった。(この項続く)


写真は、大沼と小沼の接続水路である通称-セバットを往く、D52牽引の4181列車桑園行きである。

この付近の風景は約40年を隔てた今もさほど変わっていない。迫渡橋梁(21M)のスルーガーダーは、水面交通の桁下高の確保によるもので、遊覧船も引き続きこのサイズに限定される。ただ、線路周囲の樹木は生長して、それに覆われるようになってしまい、写真は少々撮り難い。

北海道周遊券の発売は、カニ族と呼ばれた横長のキスリングを背負った一群の旅行者を呼び寄せたのだが、離島や秘境など奥地を目指した彼らに、既成観光地のこの大沼地域は魅力的では無いらしく、離道に際して帰りがけに立ち寄ることが多かったようだ。札幌からの夜行<すずらん>は、シーズンには満員で季節停車する大沼で多くのカニ族が下車していたものである。(上りの砂原線運転に付き大沼公園は経由しない)


[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2    1/500sec-f5.6    Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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女満別 (石北本線) 1971

網走に駅ネした翌朝のこと。1往復だけとは云え急行も停車した女満別町の中心駅なのに、早朝の札幌行き急行から降り立った駅前は農業倉庫ばかりだったことに戸惑った覚えがある。それは駅前の狭い広場を取り囲むように何棟も建てられて視界を阻むのだった。市街地はそれを回り込んで到達する国道39号線の向こう側に在った。その国道沿いの駅寄り側にも倉庫は建ち並んでいて、周辺農業地帯の中心的集荷駅だったのだろう。側線には多くの貨車が押し込められ、駅裏側にはカントリエレヴェイタまでも設備されていたのである。


今、ここには駅ビルのごとき三階建てビルが建てられるのに驚く。1990年に改築されたそれは、女満別町(現大空町)の施設(図書館)との合築駅舎と云うが、駅設備(待合室)はその一角に間借りするに過ぎない。近年に、ここへ降りたことはないけれど、通り過ぎる列車から見れば、ビル裏手にひっそりと発着する様相である。

ここに上下の乗降場を結ぶ跨線橋設備は、かつても現在も無い。一部に、1974年に設置との情報があるけれど、それは駅前と網走湖畔の温泉を結ぶ人道跨線橋を指している。この当時には、それも無かったから73年にここでの駅ネを断られて、国道を遠回りしての湖畔の宿まではずいぶんと遠かった。→女満別 (石北本線) 1973


写真は522列車。旭川から832列車となって小樽まで直通していた。その所要時分は13時間である。

夜行急行とともに石北本線内の荷物輸送列車で、それの全廃まで気動車化されることは無かった。

ここで列車交換となって下り本線に停車しているのは、夏季輸送期多客臨の8519列車<大雪52号>、斜里行き。蒸機急行だけれど外観は普通列車と何ら変わらない。


[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8    1/250sec@f8    Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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常紋信号場 (石北本線) 1971

ここ常紋信号場は、1914年10月5日に湧別軽便線の常紋信号所として開業している。

広義の鉄道用語において、永年に指摘されながらも相変わらず混同/誤用の多いのが、この「信号場」と「信号所」である。


国内における最初の統一された鉄道の技術基準は、1900年8月10日逓信省令第33号の鉄道建設規程である。その第16条に「連絡所」「信号所」の規定がある。直接的に定義のなされるでないが、閉塞施行の停車場間を区分する地点には信号所を要する、と条文後段にあり、それは現行の信号場に相当する設備と解せられる。

連絡所なる施設名は、この規程の他には見られない名称で、それは停車場外において複数の線路が分岐/合流する地点であり、そこには常置信号機を設置するよう規定されて閉塞の境界に違いは無く、実際には上述の条文にて信号所と同等に扱われたものと思われる。


この規程は、その後に政界を二分した「鉄道改軌論」の論争を経て、1921年10月14日鉄道省令第2号の国有鉄道建設規程に全面的な改定が行われた。ここで、第4条に停車場のひとつとして「信号場」が定義され、それは「驛ニ非ズシテ列車ノ行違又ハ待合セヲ為ス為設ケラレタル場所」とされた。現在まで引き継がれる定義である。これに従い、ここ常紋信号場を含む国有鉄道上の「信号所」施設の多くは、翌1922年4月1日を以て一斉に「信号場」へと改称されたのだった。以降現在まで、これらは「信号場」である。

ところが、この規程では、第5条に「信号所」の呼称も生き残る。「停車場ニ非ズシテ手動又ハ半自動ノ常置信号機ヲ取扱フ為設ケラレタル場所ヲ謂フ」がその条文全てである。


これの解釈に混乱の在ったものか、この国有鉄道建設規程(旧)を改定した1929年7月15日鉄道省令第2号の国有鉄道建設規程では、その第6条に条文を引き継ぎながら、わざわざ、信号場は構内を有するけれど、それを持たないのが信号所、との注釈が付けられた。すなわち、旧鉄道建設規程の「連絡所」を引き継いで、停車場間の本線上での本線同士の分岐地点に設置の施設を区分したものであり、閉塞境界にて常置信号機(掩護信号機)を要するけれど、単純な分岐につき場内や出発信号機は設置されず、構内(=場内)は存在しないものとされたのである。ただし、ここで分岐双方の本線への折返し運転を行うのであれば、出発信号機を要して信号場に区分される。

道内での例を知らないのだが、奥羽本線の津軽新城から東北本線浦町間に1926年10月25日に開通した貨物支線の実際の分岐点や、1931年8月10日の米坂線(当時は米坂東線)の今泉から手ノ子延長に際しての長井線との共用区間からの分岐点などは、これに従いそれぞれ「滝内信号所」「白川信号所」と呼ばれた。当時は勿論有人施設である。


こうして、戦前期には「信号場」と「信号所」が並立していた。それぞれ役割の異なる施設なのだが、その形態からは判別の付け難い施設も在り(特に信号所)、当時に鉄道は軍事機密であったことも手伝って正確な情報の伝わらぬままに混同が始まったものであろう。

(この項、姫川信号場 (函館本線) 1982 に続く)


写真は、常紋信号場着発2番線に停車する1532列車上川行き。夏とは云え、もう西陽も傾く頃である。

この当時、ここを運転する全ての普通列車が停車し客扱いしていた。もっとも、乗降するのは鉄道写真屋の他には皆無であったろう。古い記録を見ると、着発線の双方に短い乗降台の設備された様子が伺えるのだが、この時点でそれは見当たらない。

後方に植林地が見え、ここからのカットも発表されている。当時には何分に初心者ゆえ、そこに登ることなど思いつきもしなかったのが悔やまれてならない。蒸機の無くなり、信号場から喧噪の消えた3年後にそこへ向かうのだけれど、既に樹木の生長してままならなかった。


[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2    1/250sec@f4   Y48filter    NeopanSSS     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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中越 (石北本線) 1971

まだ子供時分の頃だ。何処とも知れない漆黒の闇を往く夜行列車の車窓に、やがて通り過ぎる駅の灯りには安堵したものだった。

ほの暗い駅名標を確認し、列車を見送る職員の姿を認めれば頼もしさすら覚えた。


通票閉塞は勿論、連査閉塞や連動閉塞であれ現場での運転扱いを要したから、深夜でも列車設定があれば本屋には煌煌と電燈が点され、当務駅長が列車との応接に忙しかった。ついこの間までの当たり前の鉄道風景である。小駅においても家族と共にそこに暮らす、不眠不休の職場は基幹輸送機関としての鉄道を印象付ける光景でもあった。

まして、そこが峠越えを控えた深山の駅ともなれば、灯りに浮かび上がる構内に補機解結の構内掛りもまた、黙々と立ち働いていた。


札幌への移動に乗った518列車<大雪6号>はD51に牽かれて夜半の遠軽を出ると、やがて白滝に停まりここで後部に補機DD51を連結する。

この頃、旭川区には同機 6両の配置があり、宗谷本線塩狩越えの全てとここ北見峠の補機の大半を無煙化していた。それらはボンネット上部に砂箱を増設し蒸気暖房を使用停止した補機専用仕様機だった。本務機に先駆けてのそれは、蒸機の正向定位による煩雑な転向を避け、合わせて地上要員の削減を図ったものだろう。

ここでの補機運用は、中越-白滝間が基本で下り後位、上り前位を定位としていた。勿論例外も在り、この518もそのひとつであった。中越での解放時間短縮と、そのまま下り方に引上げて517列車<大雪6号>を待ち、それの前位補機にて遠軽まで戻る運用からの措置だったのだろう。


1分程の停車で補機との連結器とブレーキ管の切られた列車は、駅長のカンテラの合図にゆっくりと動き出す。

空いた車内に窓を開け身を乗り出せば、サミットからの惰行運転で冷えたシリンダに盛んに切られるドレインが見えた。本務機もDD51に置替られる二ヶ月程前の夜である。


[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2   1/15sec@f2    Non filter    NeopanSSS     Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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七飯 (函館本線) 1971

( 七飯 (函館本線) 2012 から続く )


この戦前の計画は、七飯停車場構内にて分岐し、当時には畑作地の広がるばかりだった現本町地区をほぼ直線で通過して藤城地区の斜面に取り付き、七飯方から第一/第二藤城、第一/第二観音に久根別の5本トンネルを経て峠下地区上方山腹に至るものであった。ここでは極めて自然な経路選定なのだが、ここに鉄道を開業した北海道鉄道(初代)も、当初にはこの経路を予定したのだが地元農民の鉄道忌避により断念し、やむなく木地挽山裾野斜面の仁山地区経由を選んだものと云う。(史書はこう書くが、路線の速成のため張出す尾根筋にいくつもの隧道掘削を避け、敢えて急勾配とはなるものの直線的に等高線を交わす、この経路を選んだとの見方も出来よう。ここは1901年着工、1903年の開通である)


これらトンネル群と、七飯での國道4号(大沼街道-現国道5号線)との交差部から久根別トンネル出口方までの路盤工事をほぼ終えたところで敗戦を迎えてしまい、工事は中断されたのである。

着工時点では開通の急がれたためか、既設線への接続は暫定的に峠下トンネル手前とされ、後の新峠下トンネルは含まれていない。それは戦後の峠下トンネルの変状をともなう老朽化による代替として着手され、工事中断中の新線路盤延長上に貫通して、1956年12月15日に既設線のこれへの経路変更が行われた。これ以降、この別線は七飯からの市街地通過区間を残すのみにて、ほぼ完成していたことになる。

なお、この未着工区間の設計の詳細は明らかに出来なかった。工期から七飯構内での分岐は単純な右分岐、路盤構造は戦争末期の資材不足から盛土構造だったと推定する。


以来20年近くを山中に眠った施設は前回に記述のような背景からの線増計画に活用が決まり、1963年11月に工事が再開されたのである。

その際に、未着工であった七飯から国道5号線交差部までは、停車場内での平面交差回避と、都市計画で住居地区とされた本町地区を迂回する設計変更がなされ、ここの鉄道景観を決定付けることになった延長913メートルに及ぶ高架橋が出現した。工事用側道を含めても買収用地幅を最小とする設計の結果と思われる。

余談になるが、この変更により放棄された路盤用地跡が、桜町2丁目の国道5号線沿いの洋菓子店ピーターパン横から町営桜町団地下へと続く現線路の外周を巻く道路、町道桜町8号線の一部に転用されて残っている。とりもなおさず、それは高架橋の俯瞰撮影に通った道であり、この事実を知った時には些か驚きもしたものだった。

なお、そこから国道を越えての七飯方へ100メートルばかりも着工されたようだが、こちらの痕跡は消滅している。


新線は、桟橋起点23キロ付近にて熊の湯信号場からの既設線に替えて新峠下トンネルに繋がり、1962年7月25日に開通していた軍川(現大沼)までの線増線と併せ、七飯-軍川間の下り列車専用線として1966年9月30日に運用を開始した。これにて、戦時下に開業していた函館-桔梗間、大沼-森間の砂原回り線、1962年9月4日に使用開始の桔梗-七飯間と合わせて函館-森間線増が完了した。


高架橋を登る列車は1191列車、五稜郭操車場からの長万部行き。

この間に残存していた貨物扱い駅で貨車を解結する区間貨物列車である。鹿部での扱いのため砂原線を下る唯一の貨物列車でもあった。

2003年の確認では、この樹木は大きく育って現存していた。


=参考文献・資料= (前回記事と共通)

北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981

札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977

新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968

七飯町史 : 七飯町編 1976

七飯町都市計画課・土木課へのレファレンス依頼による回答


[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2   1/250@f8   Y48filter    Tri-X(ISO400)     Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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恵比島-峠下 (留萠本線) 1971

ここに降り立った1972年は、政府の第4次石炭政策の下、生産からの「なだらか」な閉山による漸次的撤退が進展した時代で、沿線の昭和、浅野、太刀別の各礦は既に無く、出炭をここへ運んだ留萌鉄道も2年の休止を経て前年に姿を消していた。構内の設備は早くも撤去され、列車の発着した3番線に錆びたレールの残るのみだった。

かつては賑わったであろう集落は櫛の欠けるように疎らで、名残の駅前旅館が印象に残っている。


国有鉄道における線路名称制定(1909年10月12日鉄道院告示第54号)の直後に深川-留萠間を開通したこの線区には、当初より独立した系統名が起こされ、留萠線部に属する留萠線の名称が付与された。函館線の支線に含まれなかったのは、空知炭田からの出炭を留萌港へ移送する重要幹線と位置づけられたからに他ならない。また、それまで移出手段のなかった留萌炭田や沿線林産資源の開発に資するものとされたのだった。ここから峠下への小さな峠越えが、積車の上りに対して9.1パーミル、空車の下りに対してもふたつの迂回曲線を挿入してまで最大10.5パーミルに抑えられたのも運炭線としての設計である。

それゆえ、それらが斜陽化すれば零落は避け得ない宿命であろう。


それでも、ビルド礦とされた赤平、茂尻、芦別からの出炭に、まだ4往復(臨貨含む)の運炭列車の設定のあったのが、この頃である。ただし、それらは1往復を除いて深夜から早朝の運転で撮影対象にはならず、辛うじて夜間の深川で後補機付き運転の出発を捉えている。深川 (函館/留萠本線) 1971

余談になるけれど、運炭列車は機関車の交換や途上での給水を除外すれば山元の発駅から積出港の着駅まで原則的に無停車運転であった。それは石炭定数と呼ばれた独自の牽引定数により経路上各停車場の本線有効長を越えて貨車を組成するからである。同組成で戻る返空列車も含めて列車交換に停車することの無い「殿様列車」が専用貨物列車A(72年3月改正時呼称)に指定の石炭列車なのだった。根室本線に特急列車の設定されてからは、それと中間小駅でバッティングしないことが至上命題とされ、スジ屋を悩ませた。それでも特急の遅延等でやむを得ないことがあり、それを待たせての堂々の通過を、その乗客として経験している。


写真は、恵比寿トンネルを出る776列車。前述の昼間1往復にあたる石炭車編成の返空回送列車で、これも深川まで無停車運転である。返空だけれど長い組成にD51の後補機が付いていた。

当時の未熟な技術で、このロールは現像過多である。温度管理に失敗したものと思う。


[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8   1/250sec@f4   Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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生田原 (石北本線) 1971

北見から普通列車となり、C58に牽かれて網走を目指した517-1527列車<大雪6号>は、誌上やWeb上で見かけるし、ここの記事でも取り上げている。

けれど、遠軽からのD51牽引の姿や、まして9600の補機を従えて常紋を往くカットには、たまたまかも知れないがお目にかかったことはなく、かく言う本人も撮っていない。

それは生田原を4時46分だったから夏の時期であれば十分に撮れたはずである。近年に本州連絡の下り寝台特急を海峡線内や函館近郊で捉えるならば、午前3時には行動を開始すると云うのに、この当時にそれを考えもしなかったのが不思議でならない。深山の常紋信号場での夜明かしを避けたのだろうか。とは云え、そこは当時に有人の停車場だったし、トンネルの徒歩通過に内部照明を点灯してもくれた時代でもある。

結局のところ、昼間に被写体は豊富だったから、夜行急行は宿代わりであって撮るものではないとの認識だったのだろう。実に惜しいことをしたものと思う。


この頃の夜行<大雪>は、マ級-1両/ス級-9両/オ級-2両の12両組成で列車重量は500tを超えており、当然ながら常紋越えには補機を要していた。上下とも連結区間は生田原-留辺蘂間であった。

それは、機関車が本務機-DD51に補機-DE10の組合せに変わってからも続いたのだが、いつまで施行された仕業なのか、手元に資料が無い。運行図表上には客車編成が減車も伴って14系に置替えられ重量の軽くなった83年度以降にも認められ、85年3月改正でのDD51の補機による(上川-)遠軽-北見間の通し運用化を経て86年11月改正ダイヤで消えている。しかし、85年の秋に乗車した際に補機の使用されないのを目撃しており、所定編成が7両となったこの春の改正以降は多客期などでの増結以外には省略されていたものと推定する。


写真は、これしか手元に無い<大雪6号>の補機を務める9600である。

生田原でこの列車を降りて補機の連結を眺め、その出発をスナップしたものだ。長い編成に後部は遥かホームを外れて停車した。


[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8   1/250sec@f4    Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

 
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