2011年度の日本酒(以下、単に酒と記す)消費量は、ほぼ四半世紀振りに前年度を上回ったと聞く。

それは、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれによる津波にて沿岸部のいくつかの酒造場が被災し、これに呼応した東北地方の蔵元の提唱をきっかけとした、日本名門酒会による「一合壱円プロジェクト」や取り次ぎ卸店/酒販店を中心に販売を通じた復興支援のなされた東北各県の酒が売上を伸ばした結果と言うものの、これにて現代の酒に初めて接した人々が存在し、やがて彼らは全国各地の地酒へと手を伸ばすに違いなく、取り敢えずは喜ばしいと言うべきであろう。


酒の消費量は、戦後に急激な伸びを示し1973年度にピークに達するものの、その後はバブル経済ただ中の1988年度に一度だけ上昇に転じたことがある他は、一貫して漸減傾向にあったのである。

これについては、様々な要因分析がなされ、主には生活様式の変化による低アルコール志向、健康志向によるワイン・焼酎への流出などが要因に上げられているのだが、それへの嗜好が世代間に伝えられていないゆえと言う気がしてならない。


それもそのはずで、戦後にその消費を押し上げた所謂団塊世代の呑んだ酒は決して美味しくは無かったのである。

当時の灘/伏見の大手蔵を中心とした酒造業界は、戦時中に戦費調達から酒税の増収目的で認められたアルコール添加や副原料を使用した増譲酒を、終戦直後には原料米不足を理由に、そしてその後は利益率の高さから長く造り続けたのだった。それは酒とは言えぬ紛い物ゆえ、やがて画一化した味は飽きられ、次の世代へと伝わらぬのも当然に思える。つまりは、自分で自分の首を絞めたことになる。

もちろん、米と米麹による本来の酒に拘り続けた心ある蔵元も在り、それに一部の流通側の努力が加わって70年代半ばの吟醸酒の再発見へ、そしてその後の地酒ブームへと繋がる。けれど、時既に遅しと言うべきか、酒とは不味いものとの定説が広まったのも、また70年代なのであった。

残念なことに、増譲酒は普通酒の名称にて未だに製造されている。大手蔵はその規模ゆえに、一部の中小蔵は低迷する消費動向から普通酒による収益構造より脱却出来ぬのである。

一方で地方の中小蔵には生産全量の純米化を達成した蔵も出現し、それを指向して途上にあるものも多い。戦後半世紀余りを経て、ようやく本来の造り酒屋に回帰しつつあると言って良い。その酒は、もちろん美味い。


私事にて恐縮だが、1969年に亡くなった母方の祖父は毎晩に晩酌を楽しむ酒呑みであった。祖父が戦後のそれしかない増譲酒をどのように思って呑んでいたものか、今となっては知る由もないけれど、同じく酒呑みとしては可哀想でならない。戦前の本来の酒の味を知っていたはずなだけに、である。


その蔵元=酒造場も1955年度の4000場あまりに対して近年では2000場を切るまでになっている。これは酒造免許のデータゆえ、それを保有していても休場中であったり自家醸造を止めてしまった蔵も含まれる。実際の稼働蔵は1000場に迫るのではなかろうか。ここ20年程は毎年50近い蔵元の廃業/免許返上が続いている。

2011酒造年度で北海道内で稼働している酒造場は13蔵を数えるのみである。

ここ、釧路には1919年創業になる福司酒造がある。酒銘は勿論「福司(ふくつかさ)」である。

年間の製造高1900石、おおよそ一升瓶で190000本あまりの出荷はそれなりの規模であろうか。それでも販売は地元向けが大半を占め、正しい地酒屋である。首都圏で見かけることは無く、現地に向わなければ呑めない。


写真は、釧路川橋梁(178M)上の混444列車である。この列車については度々書いており、付け加えることは無い。

この頃の旧釧路川左岸には漁港施設があり、何隻もの漁船が係留されて早朝には活気に満ちていた。その裏手には釧路臨港鉄道の軌道も健在だったのだが、既に列車運行はなかったと記憶する。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5   1/500sec@f4   Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

奥白滝 (石北本線) 1977

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1977

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当時は、現代と異なり地域の情報はなかなかに得難かった。

未訪問であった石北峠の区間の撮影を目論んだのは、77年の正月も過ぎた頃。峠の頂上近い上越が信号場に格下げされ、時刻表から消えたのは承知していたので、撮影のベースは必然的に奥白滝と決めていた。

遠軽からの一番列車に乗り遅れ、次の列車が白滝止りのため、ここからタクシーを手配して向かう算段であった。


行き先を聞いたドライバーは首を傾げながら走り、降ろされたのは、両側を背丈よりはるかに高い雪の壁に囲まれた国道上。そして、彼は、駅はこの向こうだ、と告げたのである。

ここで、始めて、この駅に乗降客のいないことを知った。


半ば凍り付いた雪壁をよじ登れば彼方に駅を認めるものの、カンジキの装備もなく、上り方の雪に埋もれた踏切をもがきながら突破して線路伝いに辿り着いた駅舎は、すっぽりと雪に埋もれ、ストーブを期待していた待合室は除雪用具の置き場と化していた。

詰めていた駅員達は、道路経由の訪問者におおいに驚き、駅務室に招き入れお茶をごちそうしてくれたのだった。

入場券を所望すると、冬期間に販売の望めないためか乗車券箱は金庫に格納されており、ここから大切そうに取り出してくれた。

さらに、この駅の売り上げに貢献したくなり、数日後に乗車予定であった札幌から釧路までの急行寝台券を申し込んで撮影に向かった。料金補充券の設備がなく、出札補充券で代用されたそれは、奥白滝駅発行の貴重な記録として今も手元にある。


肝心の撮影だが、石北トンネル出口までの区間。

あまりに山深く、かつ沿線の斜面は針葉樹が密生し、適当な足場を見つけることは出来なかった。

写真は、起点73K付近にあった列車監視台から撮っている。

列車は、522列車。この客車2両の後には荷物車郵便車が4両続く。


[Data] NikonF2+AiNikkor105mm/F2.5   1/250sec@f8   Y52filter   Tri-X(ISO320)   Edit by Capture One 5

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初山別 (羽幌線) 1977

羽幌線は、初山別から築堤で高度を上げながら左に旋回し、海岸段丘が海へと迫り出した区間を、この段丘面を切取ることなく海岸線との僅かな空間をラーメン構造の高架橋で通過していた。通称-金駒内(けんこまない)陸橋である。

この陸橋は、外観からは600メートル程に達するのだが、構造物上は3個部分からなっており、それぞれ上り方から順に『第一/第二/第三初山別陸橋』と命名されている。

このルート選定は、用地買収にかかわる経費上の結果と言うが、高架橋の採用も段丘への土工より有利であったからだろう。これは開通年次の新しいことを示している。


初山別と遠別の間が羽幌線の最後の区間として開業したのは、1958年10月18日のことであった。よって時代的に投下されている構造物の技術は東海道新幹線と同等である。

開業日には、札幌から直通の、ロザ車のみで組成の祝賀列車が運行され、遠別駅にて祝賀記念行事が行われた。


この話は、撮影を終えて引き上げた駅で駅務室へと迎え入れてくれた、初老の駅長氏から伺った。開通時には、遠別で駅員として働いていた由。

お茶をご馳走になり、帰り際に頂戴した名刺に、「日交観旭川支社」とあった。てっきり、国鉄の職員かと思っていたが、それを定年退職して故郷の駅に帰った方だったのだ。

この当時でさえ、既にこの駅が国鉄の合理化=駅務の簡素化に基づく業務委託駅だったのに少々驚いた記憶がある。ここが国鉄の直営であった期間は、おそらく開業から15年に満たぬのではなかろうか。そういえば、この最終開通区間の途中駅は最初から無人駅ばかりだった。


金駒内の陸橋は、車窓からの眺望であれ、撮影するにせよ、羽幌線最高のビューポイントに違いない。その存在は蒸機撮影の時代に全線をロケハンして承知していたけれど、蒸機列車がいつ走るや知れぬ臨時貨物1往復の設定とあっては訪問を躊躇せざるを得ず、それがなくなって、ようやく実現させた撮影行であった。

列車は、825D幌延行き。

背景はこじんまりとした初山別漁港である。

奥の海上に見える黒い部分では雪混じりのの風の吹いている。冬の羽幌線撮影では、これが曲者だった。


[Data] NokonF2A+AiNikkor180mm/F2.8ED  1/250sec@f8   Fuji SC48 filter   Tri-X(ISO320)    Edit by Capture One 5 on Mac.

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平糸-春別 (標津線) 1977

根釧台地上に敷設された標津線は、落葉樹林の原野とそれを切り開いた酪農地帯とが交錯して、似たような車窓がどこまでも続く。

厚床線と通称された中標津から厚床に向かう路線に、その感が強い。

それは、沿線の何処に立っても同じような写真の撮れることであり、事実そうなのだった。

しかし、この沿線を特徴づけるサイロのある風景を放牧地越しに、引きの在る画角で捉えようとすれば、それは在る程度限定された。


列車からのロケハンで「あたり」をつけて五万図にプロットし、最寄り駅にて下車、その地点を目指すのだが、放牧地への農道が地図に全て記載されるでなく、当てずっぽうに入り込んでは歩き回るしか無かった。

ここは、「あたり」の場所に辿り着けぬうちに、偶然達したポイントである。

夕闇の迫る光景は、それを待った訳ではなく、日中の列車をその間に逃してしまったからに他ならない。


この翌年の再訪で、この場所への再到達を目指したけれど叶わなかった。その農道もまた、何処も似たような風景なのだった。


列車は、355D中標津行き。

キハ22の2両編成は、この当時でもここでの最長組成である。


[Data] NikonF2A+AINikkor50mm/F1.4   1/60sec-f1.4   Non filter   Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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末広町 (函館市交通局・本線) 1977

札幌市交通局の軌道線、所謂札幌市電は撮っていないのである。あまりに身近だったせいもあろうが、新参の撮影者には国鉄線上の蒸機の方が遥かに魅力的だった訳だ。それは、1971年10月には廃止が始まってしまい、内地から北海道通いをするようになってからの74年までは、一番魅力的に思っていた鉄北線が残っていたものの、札幌は道内各地を転戦する中継地で駅から外へ出ることも無く、結局撮らず仕舞いだった。今思えば惜しいことをしたものだ。


対して函館市のそれは、渡道初日や最終日に立ち寄って度々撮っていた。新設軌道(俗に言う専用軌道)の区間がある訳で無し、道路の中央を往くのは各地の路面電車と変わらぬのだけれど、本線の函館山麓となる元町/末広町付近や宮前線沿線、宝来・谷地頭線の急坂区間には、この街ならではのロケーションが散在していたからである。


この末広町から大町にかけての一帯は、函館西部地区観光の核心地域で歴史的建造物や観光施設が集積している。

写真は、八幡坂と基坂の間をひとつ市電通りから上った通り(弁天末広通り)を歩きながらのカットだ。背後は、旧英国領事館で、その坂上には旧函館区公会堂が建つ。

観光客が闊歩するそんなロケーションの中にも、らしからぬ光景があって、かつて金融街として栄えたこの地の実務的な残滓なのだろう。正面の建物は、旧日本銀行函館支店である。

2012年の現在、ここにはマンション用地となり、隣接地には函館市の運営する立体式の駐車場が建てられている。観光資源とマンションも、やはり相容れない。


全線が健在であった頃だから、通過する電車は3系統湯の川行きか、4系統の五稜郭駅前行き。主力であった500形の、これは510である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8   1/250sec@f11    Non filter    Tri-X(ISO320)     Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1977

街中のマンション住いで、ひと夏蚊の一匹も見かけぬのだが、蜘蛛は同居している。油断すると天井の隅や書架の裏側に小さな蜘蛛の巣を架けられてしまう。室内ゆえ、それでエサの捕獲出来るはずもなかろうと思うのだが本能なのだろう。それが架けられるのだから棲息しているに違いないけれど、その個体を見ることは滅多に無い。部屋の壁を散歩しているのに遭遇したのは一度きりだし、夏の朝にベランダのサッシを開けるとそそくさとその隙き間に逃げ込むのを何度か目撃したくらいだ。

越冬している様子は無く、代々棲息している訳でもなさそうだから、それは時期になると飛来しているとしか思えない。

そう、小型の蜘蛛は糸を出して、それで気流に乗って旅するのである。


その大群での飛翔に二度ばかり出会ったことがある。一度は、陸羽東線の宮城/山形県境で、もう一度は北海道狩勝でのことだった。

8月も終わりの狩勝は晩夏と秋の交錯する季節で、午後の突然の驟雨の後にそれは始まった。衣服に細い糸が降り始めて、自分の身長より高い空中に異変の起きていることは感じられたけれど、空を背景にする限り何も分からなかった。振り返って樹林帯の手前に見てみれば、弱い光に反射しながら浮遊する無数の糸があって、その先端には小さな粒が見えた。そのひとつひとつが蜘蛛と気がつくには多少の時間を要したものだった。

彼らの生態には疎くて、せいぜい昆虫の仲間でないことを知っているくらいだ。それが、このようにして空中を移動するなど、この時に初めて知ったのだった。

越冬地を求めての移動だったのか、ある方向の、ある風速の風を感じて一斉に飛び立ったのだろう。その光景にはしばし見蕩れていた。


狩勝新線の建設以前からこの地に開かれていた種畜牧場は広大で、ここでのポイント間の移動にはひたすら歩くことになる。この日は広内信号場の上り方から通称-東山の林道への移動に手間取り、421列車を、東山からの俯瞰を予定していたはずの谷間川陸橋下で迎えることになってしまった。

この当時の421列車は、滝川を5時台に出て釧路まで9時間あまりをかけて走っていた。現在のダイヤで、このスジは帯広で乗換えとなる2421Dから2423Dに引き継がれているが、その所要時分は7時間7分となっている。これは偏に荷物扱いによる停車時間の差分である。


蜘蛛の飛翔を目撃するのは、この後林道の入口あたりでのことだ。


[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8   1/250sec@f8   Y52filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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釧路 (根室本線) 1977

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美葉牛 (富良野線) 1977

蒸機末期の富良野線には、9600の牽く貨物列車3往復(内1往復は夜間)が設定されていたけれど、道央の地味な線区とあって、これは撮らずに終わってしまった。

この線へ向かうのは1970年代も後半になってからで、富良野を舞台としたテレビシリーズの放映開始前にて、まだまだ静かな沿線であった。当時は情報も少なく、車窓からのロケハンでは、富良野盆地の田園地帯に直線区間の続く中富良野付近や、線路両側の防雪林が美しい美馬牛周辺が印象に残っていた。


美馬牛は、施工基面高が283M50で富良野線のサミット付近に位置して、富良野方に19.6パーミル、旭川方に20.0パーミルの標準勾配がある。(後年に高名となる、高低差は30メートル近くに達する「すり鉢」状の縦断面線形は、サミットから旭川方へ28.6パーミルで下った富良野起点25K757Mにその底部が所在する)

この付近は、その勾配に延々と続く防雪林で車窓から山間を往くような感覚だったのだが、下車してみると小さな集落のある駅前も開けていて、実際には緩やかに起伏する丘陵地でその外側は酪農/畑作地帯と知った。

この防雪林と周辺に見える山々を背景にコンテを考えていたものの、その区間は意外な程に足場がなく、それは用地確保のために起伏地を造成したであろう駅付近に見いだせた。駅場内は丘となった造成前の元地形の樹林帯に囲まれるように存在していたのである。


写真は、ここを発車しようとしている633D旭川行き。上下乗降場の連絡通路からの撮影で左後方に上り乗降場が在る。昼過ぎのカットだが、冬の低い太陽が強烈な逆光線となって早朝のようなイメージだった。


道内向けのキハ40は、この年の春に旭川機関区に10両、苗穂機関区に6両が配置されたのみの最新鋭車であり、旭川区配置車は、ほぼ富良野線運用に専用されていた。この時点では、キハ47を含めても全国に32両のみの稀少車でもあった。その首都圏色と呼ばれた朱5号の単色塗色が新鮮だったものの、未だ首都圏区所への配置は無くて、全国への大量増備の開始されるのは78年夏以降である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/500sec@f8   Y52filter   Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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倶知安 (函館本線) 1977

国税庁の告示する「清酒の製法品質表示基準」(1989年11月国税庁告示第8号/2003年10月31日一部改正)では、大吟醸酒とは、精米歩合50%以下の原料米にて吟醸造りを行って、固有の香味を持ち、色沢良好な清酒と定められている。

実際の現場では、大吟醸と云えば、その蔵元の旗艦商品であるゆえ、酒造好適米を35%程度まで磨き、洗米に細心の注意を払い、秒単位の限定浸漬を経て、昔ながらの甑による抜けがけ法にて蒸きょうし、これも同様に麹蓋での製麹に至る。酒母こそ速醸酛ではあるが、優良な吟醸酵母を大量に添加して育成し、醪は当然ながら長期低温発酵に管理され、搾りも袋吊りか槽が用いられる。その行程すべてに、杜氏の持てる技術と経験のつぎ込まれ、手作業ないしそれに近い製法が貫かれた少量生産品なのである。


その酒が美味く無い訳がなく、その蔵元における最上でなければならない。大吟醸とはそういう酒なのである。

これを視点を変えてみると、それは杜氏と彼に率いられた酒造集団の使命であり、誇りでもあるから、その造りには自ずと慎重になり、努めて保守的とならざるを得ない。すなわち、冒険を冒すことはなくなるのである。


では、冒険は何処に在るのか。

実際の製造で50から60%の精米歩合の原料米による吟醸酒か、2003年の国税庁告示の一部改正にて製法品質の要件から「精米歩合70%以下」が削除された純米酒が面白いのは、そこである。

この大吟醸に次ぐ製品群には、近年各県で育種の盛んな新品種の酒造好適米や開発/培養の進む新酵母から精米の新技術や酒母/醪管理の新手法など、それらの最初に取り入れられ、実験的なものも含めて多様な芳香や香味を楽しめる。そこからは、その蔵が基準とするであろう酒の有り様や、進もうとしている方向までも読み取れるのである。

価格帯も手頃であり、この製品群からは目が離せない。


倶知安駅からもほど近い丘陵上に所在する「ニ世古酒造」にも、この製品帯に原料米の品種の異なる商品アイテムが揃えられ、多くがこの蔵の拘りでもある原酒である。原酒の商品化自体は珍しくは無いけれど、それを中核に据える蔵は多くは無い。加えて、ここは蔵元自らが製造を手掛ける蔵でもある。

現在の「ニ世古酒造」は、不動産業を営む現蔵元の父君が、売りに出されていた蔵を酒造免許ごと買い取ったのが始まりと云う。廃業もしくはその寸前の蔵であったろうから、その規模からも再生に当たって、新たに高額の報酬にて杜氏(と率いられた酒造集団)を雇い入れる余裕もなかったものであろう。

この蔵とその酒を知った時には、その原酒への拘りと、2000石程と思われる規模の蔵にしては、大吟醸から普通酒に至るまで実に多種な商品アイテムに、失礼な言い方にはなるが「素人臭さ」を感じた。けれど、この素人感覚がここの真骨頂なのである。その経緯は蔵元へのインタビューに詳しい。

その醸す酒は一献の価値はある。


写真は、豪雪の倶知安構内である。

蔵はこの豪雪に埋もれて、寒造りに最適の環境になる。

2番ホームに停車中の列車は122列車。函館本線全線を14時間をかけて走っていた。12時51分着の倶知安は、そのほぼ中間地点になる。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4   1/125sec@f8   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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厚床 (根室本線) 1977

厚床へ降り立つのは、いつも標津線への乗継ぎばかりだった。

夜行の<狩勝4号>で着いた釧路からは、座席車にそのまま座っていれば30分弱の停車にて根室行き441列車に直通し、これでも標津線接続は間に合うのだけれど、この日はそれを厚床で撮ろうと急行<ノサップ>にて先回りしたのだった。その時刻には、根室からの1462列車も到着して構内での貨車入換えに忙しいはずだし、遥かに函館を目指す急行<ニセコ2号>を見送ることも出来るのである。


この頃までの厚床は、当然ながら運転扱いの駅で、根室本線の上下本線に加えて、主に標津線列車に使用されていた中線を持ち、上り本線外側には3本の側線とそこから分岐しての転車台と給炭台/給水塔の名残の在る標茶機関区厚床派出所(当時)が在り、本屋下り寄りに貨物扱い線が存在していた。その上り寄りは、鉄道官舎が幾棟も立ち並び、これらの構内施設は厚岸を凌いで釧路以東区間での運転上の拠点駅だったのである。

待合室には弘済会の売店も開かれ、なにより拠点駅らしく駅前所在の田中屋調製の「ほたて弁当」の立売りが健在であり、この頃の掛紙を探してみれば定価400円とあった。


またも酒の話で恐縮だが、ここを含む根室半島一帯は、根室市街地に所在する日本最東端の酒蔵「碓氷勝三郎商店」の醸す「北の勝」が圧倒的な販売シェアを維持している。それは、地産地消を旨とする造り酒屋の本来の姿と云える。年間の醸造量で二千石程と推定される小蔵ではあるが、それの大半が根室管内にて消費される。

この蔵元は、創業から百年を越える老舗ながら、その組織はともあれ法人登記のされていない個人商店を通している。善かれ悪しかれ、現場を取り仕切る番頭以下の従業員が店主に寄り添う家族的経営を維持し、これも昔ながらの造り酒屋の形態である。根室市内に多くを所有する不動産資産を背景とした安定経営があって、取引先を周辺地域のみに限る身の丈経営に徹し、この地域の飲食店や酒販店には例外無く「北の勝」が置かれて、地元もまたそれに応える(かつてはそれが当たり前であったはずの)理想的な地域と酒蔵の関係が残されているのである。

ここの主力酒は、あくまで「大海」や「鳳凰」に代表される普通酒であり、吟醸や純米は年間に数回、少量が出荷されるに過ぎない事実が、それを物語っている。

付記すれば、ここの普通酒は2006年醸造年度以降、糖類・酸味料添加の所謂「三増酒」を脱している。

77年に、厚床の駅前食堂を兼ねた田中屋で目にしたのも、当然ながら「北の勝-大海」の一升瓶であった。


写真は、厚床下り本線に到着する混合441列車。

当務駅長がタブレットキャリアをいち早く受け取るべく、腕を掲げている。まもなく、中線に到着する(上り本線には1492列車が停車中)104D<ニセコ2号>にそれをいち早く手渡すためである。

その後方では、青森運転所[盛航21]運用のオユ10から郵袋を受取る郵便局職員がリヤカーと共に待機している。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/250sec@f8   Y52filter   Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

落部 (函館本線) 1977

内地に祖父祖母を訪ねて、幾度か乗っていた1960年代の函館海線だけれど、森を過ぎての噴火湾沿い区間は集落も疎らで侘しい風景が続いていた。急行の停まる森や八雲は在ったものの、低い軒の家並みは、連絡船に乗継ぐ内地の車窓を見慣れた眼には、その落差も感じられ、列車が小樽なり東室蘭に着けばほっとした覚えがある。札幌へと帰る身でさえそうであったから、北に活路を求めて函館線の客となった人々なら如何許りかと察する。1954年に小樽勤務を命ぜられた父にそれを問うと、やはり寂寥感を持ったと言う(*1)。この区間の風景はそれほどのものだった。今、振り子特急で通過する車窓とは隔世の感がある。


その中間駅の落部には、ここが集落と離れて設置されたせいか、車窓の記憶がない。初めて下車するのは、内地から通うようになってからである。もちろん、前後区間に在る撮影地へのベースとしてであった。

閉塞は自動化されていたが、上下の待避線も備えた運転駅で、良く知られている通り、アジア太平洋戦争末期に内地への海運によっていた石炭ほかの戦略物資の青函航路への振向け(*2)による勾配改良と複線化に際して、既設線を下り線とした上りの別線上の駅として開業し、この時に将来の既設線廃止が前提であったから、緩い曲線上の構内は大きく、既設駅と同等もしくは上回る規模で建設されたと思われる。本屋の函館方には2線の貨物扱線にその荷役施設を持っていた。

函館-長万部間では、森/八雲に次ぐ乗車人員の在り(*3)、1982年11月15日改正からそれの廃止される84年2月1日改正前まで函館-長万部間の<せたな>が停まる急行停車駅だったこともある。これは、現在でも、それの後身である上りの快速<アイリス>に引き継がれている。

86年11月の改正にて要員は引上げられてしまうのだが、その利用により引続き簡易委託駅とされ、営業時間の短縮されるものの現在でも同様である。


(*1) - その風景の先に、小樽のような街が存在するとは信じ難かった由。

(*2) - 近海の制海権を米軍に奪われたことによる。陸運転換と称した。

(*3) -1981年度で197人-青函局統計による


写真は、駅員の配置されていた頃の落部駅。

小雨の中、DD51に牽かれた3081列車の通過を当務駅長はホームに出て見送る。列車監視と通過時刻の採時は運転扱駅の職務である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/8sec-f1.8   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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奥白滝 (石北本線) 1977

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石北本線の上川-遠軽間は、北海道鉄道敷設法に依らず、道内幹線網の最後の区間として1930年代と云う遅い時期に開通している。それは、それまで池田からの網走本線、もしくは名寄から紋別を回る名寄本線/湧別線経由に頼っていた北見・網走方面の道央への短絡を目的に建設されたものである。

石狩と北見の往来を阻んでいた石北峠区間は、それゆえに元来人口の希薄な地域であり、現代ならば石勝線のごとくに信号場の連続にて通過したであろう。駅の設けられたのは、当時存在した開拓地への便を図ったものであり、それの消滅したり、或は鉄道以外の交通手段の登場すれば、停車場自体や客扱いの廃止は自明の理でもある。


それを理解しても、古い鉄道屋の眼には時刻表の当該ペイジを開いて、上川の隣駅の上白滝は衝撃に写る。CTC施行後の、そして定期貨物列車運行の撤廃以後の措置にて、天幕の廃止は避けれなかったものの、中越/上越/奥白滝の閉塞区間は維持されて、これらは信号場に戻ったものと見ることも出来る。けれど、かつての本屋が窓に板を打ち付けられて廃屋同然に朽ち往くのには虚無感の募るばかりだ。

興味を引くのは、この際には駅として存続した上白滝の存在である。列車運行も引き続き朝夕の2本のみに変わりない。早くに交換設備の撤去されて、その旧下り本線跡の自然に還り、残された乗降場も荒れるに任されたこの駅は、駅周辺に民家の残って潜在利用者と見なされた数家族が、おそらくは鉄道に頼らずとも済むであろう彼らが、その命運を握っている。それは無責任に過ぎる戯言と承知しているけれど、鉄道屋としては、一度その立場に立ってみたいとも思ってしまう。


写真は、名称は失念したが奥白滝から国道333号線を越えた先の短い隧道を抜ける16D<おおとり>である。

ポータルにまで積雪の付着して雪洞のように見える。

特急向け設備の重い車体にDMH17系列機関は、それでもフルノッチなのである。この25パーミル勾配を実にゆっくりとした速度で上って往った。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5   1/500sec@f4   Y48filter   Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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五稜郭駅前 (函館市交通局・本線) 1977

早い時期に無くなってしまったから、函館市民と云えど五稜郭駅前まで市内電車の来ていたことを知る人は少なくなったことだろう。函館市交通局軌道線の本線の北側末端にあたるガス会社前-五稜郭駅前間の廃線は、1978年11月1日のことであった。

戦時中の1943年に道南電気軌道から譲渡を受けて函館市交通局の発足した時点では、ガス会社前が本線の終点で、1954年11月20日に鉄道工場前までの1K260Mが、翌1955年11月27日にさらに五稜郭駅前への390Mが延伸されて、弁天(現函館どつく前)からの本線が全通している。この戦後の開通区間が最初の廃止区間なのである。

その国道5号線沿線には低い軒の住宅が張付いていたけれど、商業地の形成されたで無く、このガス会社こと北海道瓦斯函館工場や鉄道工場こと国鉄五稜郭工場に加えて小規模な工場や物流倉庫の点在する準工業地区であり、観光地としての函館とは無縁であった。


写真は、五稜郭駅前停留所に進入する古豪500型の513。

ここでは複線の合流する分岐器手前の安全地帯の無い路面で下車扱いが行われ、その後に電停まで進んで乗車扱いとなっていた。系統番号の10は、五駅前と駒場車庫前間を函館駅前-十字街-宝来町-松風町と回る系統で、1976年12月にそれまでの循環系統である1系統を五駅前で分割したものであった。

画角右上は、今は立体駐車場に転用されている五稜郭の貨物扱い所である。駅前の数軒の商店も今は全てが失われている。

前方に見える道道347号線との立体交差下には、高名な北海道瓦斯の専用線との平面交差が存在したが、この時期には既に撤去されていた。


余談めくけれど、この専用線は、北海道鉄道の手になる1902年12月10日の開業から1911年8月29日の新線開通による経路変更までここに存在した、かつての函館本線のルートを継承していた。五稜郭構内から直進して国道を斜めに横断していた線形はそのためであり、現在線の函館方に存在するR400曲線は、この変更時に新線の取付けにて生じたのである。

この経路上の函館駅は現在の西警察署敷地と云われており、今でもそこから北海道ガス工場跡までの、すなわち前記専用線終端部までの路盤跡も明瞭に辿れるにもかかわらず、廃線跡探訪的な記事を見かけたことはない。ルートは明確でも、100年を経てそこに在るのは単なる生活道路に過ぎず、確かに「探訪」するには物足りない。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4   1/250sec@f8    Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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銭函 (函館本線) 1977

石狩浜が南に尽きるところが銭函である。そして、ここから積丹半島へと続く岩礁海岸が始まっている。駅から線路沿いに張碓方へ歩けば、そこはもう石の海岸になる。函館本線の函館桟橋起点280K100M付近までは線路両側に浜番屋が続き、線路が漁師達の通路になっていた。これは、官営幌内鉄道が既設の交通路を路盤に敷設された歴史的経緯に起因していて、漁民の既得権を100年以上も認めて来たのである。特異な浜番屋の立地でもあり、ここへは幾度か通っていた。そこを通り過ぎて、さらに進むと前海に向いてそれの建ち並ぶ区画に至る。

ここに限らず何処でもそうなのだけれど、海沿いの鉄道であるから、それと浜番屋は必ず海岸線方向に並列することになって、共に画角へ収めようとすれば俯瞰でもない限り凡庸な景観になるばかりだった。この頃、それで通った留萌本線の増毛や日高本線浦河に根室本線門静から厚岸の海岸線でも満足の往くカットは撮れず仕舞いでいる。黄金 (室蘭本線) 1979


ここには船溜りは無く、漁船は浜に引上げられる。これは現在でも変わらない。全て小舟ばかりだから前浜に限られるはずの漁獲を知らずにいたのだけれど、小樽市漁協に聞けば、ウニ、アワビにホッキ貝の捕獲とシャコの刺し網漁、そしてニシンやサケ漁に出ることもあると云う。特にシャコは近年に漁協が水揚げ直後の釜茹でを開発しブランド化を進めている。漁獲自体は昔から在ったと思われ、いつか小樽の寿司屋で勧められた、通常より倍程に大きかったのがそれだったと気がついた。


石の浜の番屋の向こうを往くのは、306D<宗谷>。稚内から函館まで682.5キロを12時間弱で走る堂々の長距離急行であった。昼行の半日乗車など、もう乗りたくても乗れない。

所定8両組成の函館方2両は旭川回転車である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/250sec@f4    Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

 
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