鬼鹿 (羽幌線) 1973

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1973

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鬼鹿は、風の記憶だ。

記録を辿ってみると、幾度かの訪問は全て冬だった。

海も鉛色の記憶しかない。

ここに初めて降り立った時も、小高い段丘上にあった古い駅舎は、遮るものの無い日本海からの強風に窓や引き戸がやかましい程に音を立てていたものだ。

ここ鬼鹿に限らず、羽幌線沿線の家々は背の高い板囲いをぐるりと巡らして強風への盾としていた。今でいえば玄関先の風除室が家全体を囲っているようなもので、その内では石炭ストーブが一冬の間絶えること無く燃やされ、内地よりもはるかに暖かい生活があるのだ。

いつか、急行<きたぐに>が、まだ青森まで通じていた頃、羽越本線の海沿い区間を走行中の車内で、関西かららしい二人連れが車窓を眺めつつ、こんなところには住めないと話していたが、風景と裏腹な室内の暖かさには、思いもよらぬのだろう。

板囲いの集落は、独特の景観だ。


この日も、三脚を立てていられないくらいの強風で、それを一脚のように使って撮影した。

富岡仮乗降場方、旧花田番屋裏手付近である。

列車は、僅かな吹雪の合間にやって来た823D。この頃は、日中時間帯にもかかわらず4両編成があったのだ。

海上には、次の吹雪の接近が見てとれる。


[Data] NikonF2A+AiNikkor35mm/F2     1/500sec-f5.6+2/3     Y48filter     Tri-X(ISO400)     Edit by Photoshop CS3 on Mac.

北母子里 (深名線) 1973

朱鞠内湖の湖畔には、湖水から垂直に高く突き出した伐採木が連立する異様な光景を見ることがある。

聞けば、ダムサイトの水没予定林の伐採を雪中にて行ったゆえと言う。

なるほど、積雪期ならばこんもりと雪を冠った切り株として現れる訳だ。


朱鞠内-名寄間の深名線は、早くから貨物列車の設定がなくなり、昼間の一往復のキハ22の単行列車が1両か2両の貨車を牽引して、これの代替をしていた。

しかし、積雪による走行抵抗が加わる冬期間には、名雨峠の連続25パーミル勾配にDMH17型機関では出力不足となり、蒸機の出番だった。


列車は、その混合9944列車朱鞠内行き。昼間の気動車運転1往復を運休して臨貨のスジにて運転され、客車は名寄客貨車区に配置のスハニ62が専用された。

座席定員は僅かに56名。この当時からそれで十分な輸送量だったのだろう。

貨車が前位連結定位のため独立した客室暖房を要し、釧網本線の同車と同じく軽油燃焼式の温気暖房機(所謂Webast Heater)を備えていた。


湖畔の伐採林跡を踏み越えて広大な雪原と化した湖面上から撮影している。積雪期だけのポイントだ。

この冬は暖冬傾向で、湖の氷結も緩いと地元の人に聞かされただけに、足下にしみ出す水を気にした記憶がある。


[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.8   1/250sec@f11   Y48filter     Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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女満別 (石北本線) 1973

ここでは「駅寝」に失敗した、と言うか断られたのである。

例によって遅い列車で到着し、駅員に「機関車を撮りに来たゆえ、待合室で寝かせて欲しい」と頼み込んだのだが、頑として断られたのだった。

後で考えると、中間小駅ならば宿直駅員の裁量で融通を効かせて貰えたのだろうが、急行停車駅程度の規模で深夜帯の待合室閉鎖が原則となれば無理な注文であった訳だ。

駅員氏は、その傍若無人な要求者を疎んじるでなく、「近くの旅館に泊まれ」と勧める。旅館に覚えもなく、女満別と言えば温泉地のそれに宿代からも躊躇していると、電話を取り自ら宿賃も交渉してくれ、「素泊まり500円でどうか」と告げた。

当時としても破格の値ではあったが、その頃の貧乏旅行からすれば出費には違いない。けれど、9月の終わりで冷たい雨の夜でもあり、諦めて(?)その晩は宿泊まりにしたものだった。


記憶が定かでないが、確か『湖畔荘』と言ったその旅館は、古いけれどこじんまりとして小奇麗な宿で、今なら好んで泊まりたくなるようなところだった。炬燵に入って雪見酒でも呑めば極楽の宿に違いない。

このことを思い出して調べてみたけれども、現在『湖畔荘』なる宿は見当たらず、とっくに廃業してしまったようだ。

温泉を楽しみ、その晩は久しぶりで手足を伸ばして眠った。


まだ小雨模様の残る翌朝、西女満別方へロケハンをしたものの良いポイントは見つからず、小さな切り通しになった樹林帯のカーブで列車を待った。

ほどなく軽やかなブラストが聞こえ、やって来たのは急行<大雪>崩れの網走への通勤列車1527列車。


この当時、60年代末期に始まる国鉄の生産性向上運動(マル生運動)に端を発する、その推進方法を間違えた国鉄当局とこれに順法闘争で対抗する国労/動労との対立が政治を巻き込んで先鋭化しつつあり、これが72年の春闘を激化させ、上尾暴動を誘発して、75年の十日間に渡って国鉄を麻痺させた「スト権スト」の交通ゼネストへと繋がって行く。

組合側は、その「マル生粉砕」などのスローガンを車体にペンキで大書きして走らせ、これをアジ演説ならぬ「アジ列車」と呼んでいた。

写真でも機関車のテンダとグリーン車スロ54に、それが見て取れる。

多少なりとも学内闘争にも参画した身としては労組の主張を理解するものの、鉄道写真屋の立場なら困ったものではあった。

今にしてみれば、時代の記録である。


[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2   1/500sec@f8   Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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北見 (石北本線) 1973

北見駅ならば、やはりかつての駅本屋が思い起こされる。

寄せ棟だが、マンサードではなかったと記憶する赤い大屋根に、小さな時計台と意匠のある煙突が印象的で、北海道国鉄駅に共通した三角ファサードを持った堂々とした駅舎であった。

ここに限ったことではないけれど、夜行で到着すると待合室の駅そば屋が既に営業していて、それは濃い口で真っ黒の北海道の汁だった。


その夜行<大雪>には、1980年10月の改正まで北見回転車があって、上りへの乗車で網走での改札前整列に間に合わない時など、北見へ先行してこれの乗車口に並んだ。北見では乗降場での整列が黙認されていたのである。

ただし、考えることは皆同じで、多客期など地北線用の切欠ホームの在る2番線の旭川方、そのホーム幅の狭いところだけに異様に乗客が集合している光景がみられたものだった。→網走 (石北/釧網本線) 1972

この回転車は北見客貨車区の運用で、これにスハフ44/スハ45各2両の配置が在った。所定では2両だが夏場の旅行シーズンなど多客期には3両に増結され、それには札幌運転区のスハ45が使われた。


駅本屋の改築は1983年10月のことであった。その三角形をシンボルにしたデザインは、旧駅舎の三角ファサードをイメージしたものである。一方で乗降場の上屋などには手が加えられず、近代建築の駅舎と対照を成していた。

北海道旅客鉄道への承継後の現在、乗降場の南側の7番から15番までの側線に、大きなラウンドハウスを持つ北見機関区と、それに隣接していた北見客貨車区、さらには付帯した回転線に仕業線など、その全てが撤去されて小さな構内となってしまった。上下本線間(1番線と2番線の間)に存在した中線も外されて、何やら空虚な感覚を受ける。


前にも書いたのだけれど、かつての駅構内は照明されて夜でも明るかった。

ここのような拠点駅ならなおさらで、背の高い照明塔が設備され、構内を煌煌と照らし出していた。ナイトゲームの行われる球場並みとは行かないが、それでも新聞が十分に読める明度ではあった。

これにTri-X Pan Filmを以てすれば、とりたてて増感を行わずとも走行シーンの撮影が可能だったのである。それは、出発や停車目前で運転速度の遅いこともあり、また適度のブレも動感の表現であったからだ。

特に構内照明をバックライトにした蒸気機関車の煙やドレーンは夜目にも美しく、好んで撮っていた被写体だ。


写真は、北見を発車する1529列車。北見からは夕方の帰宅時間帯にあたっていた。

旭川からのこの列車は、この当時、遠軽までをDD51、北見までをD51に牽かれ、そして網走までがC58の牽引であった。


[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.8   1/60sec-f1.8   Non filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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北浜 (釧網本線) 1973

かつては、稚内から網走方面へと、途中をバスで繋ぐ区間があるにせよ鉄道でオホーツク沿岸の旅を楽しめた。オホーツクの海を間近に望む区間はその一部に過ぎなかったけれど、今、それが可能なのが釧網本線の知床斜里から網走の間しか残されていないことに軽い衝撃を覚える。


北浜は「オホーツクに一番近い駅」なのだそうだ。確かに配線の整理されるまでの貨物側線は海浜に接していたし、その前後区間の路盤もそうである。

これを背後の海岸段丘に上ればオホーツク海を背景に撮れるのだが、国道もまた、そこを通過しているのである。石北本線の網走湖沿い区間も同様で、網走周辺の鉄道は、海面なり湖面なりと捉えようとすると画角にアスファルトの路面が入り込んでしまうのが難点ではあった。


これは処理のしようがない。受け入れるしかないのである。

真鶴トンネルの上部から東海道本線の俯瞰をすると国道135号線の新道が並行しているけれど、ここで東京へ向かう寝台特急群を撮るならば道路に自動車のひしめく様が似合うと思っていた。しかし、北浜で蒸機列車となれば、それの一台も走らぬ方が良い。


機材を乗せた重い三脚を押さえ込まねばならぬ程の強風下、10月も末でそれは冷たい雨混じりだった。北浜を発車した上り列車の通り過ぎるまで、自動車の並走せぬことを祈りながらシャッタを切っている。


列車は、混合634列車 網走行き。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2   1/250sec@f4   Non filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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花石 (瀬棚線) 1973

瀬棚線は、C11の牽く貨物列車の走る道南の地味な線区ではあった。

けれど、後志利別川の貫流している今金町大字花石の風景は、例えようも無く美しかったのである。雪解けに蝦夷山桜が咲いて新緑へと遷り往く季節なぞ桃源郷と表しても良いくらいに。

周囲を渡島半島脊梁の低くなだらかな山容に囲まれ、屈曲する利別川の谷が高低差のある河岸段丘を創り出す立体感の在る地形に、その清流そのものの美しさゆえだろうか。

サクラマスを筆頭にウグイ、アメマスの回遊魚にヤマメの魚影もあって、シーズンには多くの釣り人を見かけた。


瀬棚線は、国縫側から山瀬トンネル(786M)で美利河峠を越えて、ここに至り、花石駅前後で利別川を渡河すること三度(第一から第三後志利別川橋梁)にて小金トンネルを抜け、瀬棚方向へと下っていた。ここは、段丘面が盆地の底面を構成していて、花石の集落も駅も、その広く緩やかな段丘面に在った。

それゆえ、花石を挟んで移動すれば上下とも力行する姿を撮れたのだが、気に入っていたのは137Mと最も延長のあった上り方近傍の第二後志利別川橋梁で、その風景を凝縮した核心部分に思えていた。


けれど、この線に蒸機の健在な頃、写真の技術は未熟で、とてもそれを写し撮れるだけの技量はなかったのである。

73年秋の函館本線の無煙化後も蒸機運転は残ったものの、それも翌年春にはDD16に置替られ、結局のところ満足の往くカットは撮れず仕舞いだった。


写真は、蒸機最期の冬、第二後志利別川橋梁上の1992列車である。

貨物列車は2往復の設定が在ったが、昼間に撮影可能な上りはこの列車に限られていた。

この頃の旅客列車には、キハ22に混じってキハ21の姿もみられたはずなのに、1カットも撮っていない。

蒸機目当ての撮影とはそんなものだったのかも知れない。


[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2   1/250sec@f11   Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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留萠 (留萠本線/羽幌線) 1973

かつて、この駅の深川方に存在した東留萠信号場が良くわからない。

1927年10月25日の留萠線支線の大椴までの開通に際し、その分岐点として留萠から1.3キロ深川方に設けられた信号場なのだが、何よりその位置が分からない。北海道鉄道百年史にも詳細の記述はなく、過去の線路略図でも図式化された配線の記されるのみで実際の線形は知り得ない。

極単純に、後年の羽幌線の留萠構内寄りへの移設後の羽幌線運転列車と留萠本線列車の振分け分岐器位置が、かつての構内西端との記述を以て、現留萌本線沿いに東側位置とする文献も在るのだが、それは1.3キロの駅間に満たない。加えて蒸気機関車の時代ゆえ留萠発着列車に対して、当然に機回しの設備を持っていたはずである。列車の対向もあるとすれば待避線も要し、用地規模は必然的に大きくなる。けれど、それらしい用地の痕跡は見当たらないのである。

廃止されたのが戦前のことゆえ、それも当然かも知れぬのだが、気になるのは占領軍が戦後の1948年に撮影した空中写真である。そこには、その分岐点付近から北側に、その曲線から鉄道と推定される路盤跡らしきものが確認出来る。それを辿ると本線と交差して水路と思われるものと重なるのだけれど、少なくとも交差位置までは水路では無い。

果たして、実際の東留萠信号場とは、この線形をも含むものではなかったのだろうか。これが東側交差位置で本線に接していなければ、それはまさにスゥイッチバック式停車場と言うことになる。

この辺りの事情にお詳しい研究者がおいでであれば、ぜひご教授を願いたいと思っている。


写真は、留萠駅に到着する735D、増毛行きである。

このカットのことなど、その撮影位置ともどもすっかり忘れていた。

留萠駅の上り方の構内を遠望していて、肉眼では画角外のその右に広いヤードから遠く機関区までが見えていたはずである。

その撮影方向と画角を、公開されている国土地理院の空中写真で検討してみれば、どうやら留萌川対岸の国道沿いの法面上部まで登っているようなのだが、明確な記憶はない。

おそらくは登坂に手間をかけ、まだ蒸機列車の在った時期なのに、ここでのカットはキハ22編成のこれだけなのである。念のために能ったオリジナルのネガも当時の撮影メモもそれを裏付けている。

時刻から推定して、この列車の前、14時過ぎの1492列車を待ったはずなのだけれど、それの運休して悔し紛れのカットと思える。逆光側にフェイズの生じていたせいか、市街地越しに広がる海面が飛んでしまっている。


さて、そして現在である。この駅の持っていた広大な構内全てが、パークゴルフ場やグラウンドとなっている事実には愕然とする。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8  1/250sec-f5.6    Y48 filter     NeopanSSS      Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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朱鞠内 (深名線) 1973

222である。2222も、22222も居たけれど、やはり桁の少ない方が鉄道車両なら初期車ゆえ有り難味の在りそうだ。

このキハ22の最初のロットの1両は、1958年10月30日に帝国車輛にて落成し旭川機関区に新製配置された。1962年度には名寄機関区へ転じて、宗谷本線やこの深名線に運用されていたのである。


キハ22は、本来はキハ21の後継車としてルーラル線区での運用を想定した形式であったにかかわらず、キハ55/26系列に酷寒地向け形式の用意されなかったから、その投入当初には寒地対応で客扉を車端に寄せ出入台を設けた構造を逆手に、積極的に準急列車に投入されたのだった。当時の道内主要線区における優等列車の無煙化と到達時分の短縮要求は、それだけ強かったのである。その頃には、デッキ構造を持たないキハ21が使われた程であるから、客車並みのキハ22なら上出来とも云えたけれど、キハ55/26が準急用の内地に比べれば格落ちには違いなかった。

それでも、1959年9月22日改正における函館線<かむい>や室蘭/千歳線<ちとせ>の設定は、キハ22の配備を前提にしており、現在の道央都市間連絡特急の原点であったことは記憶されて然るべきである。道内のみの翌1960年7月1日改正では、札幌-網走/稚内間に設定の<オホーツク/宗谷>にも、これの5両編成が充てられ、気動車による長距離都市間輸送もこれに始まることも忘れてはなるまい。

ただ、同改正では水戸機関区から苗穂に転入したキハ55/26系列による<すずらん>が、特急のなかった道内でそれに匹敵する全車座席指定の急行列車として函館-札幌間に運転を開始しており、優等列車らしい大きな窓に整った姿を札幌駅で眺めれば、その格差は一目瞭然で、それが冬期にキハ22編成に置替られると子供心にも無理を感じたものではあった。

これら優等列車運用も、1960年度末から配備の開始されたキハ56/27系列に取って替わられて往くのだが、その絶対数不足と運用区所の関連で永くそれに残存して、やがては「遜色急行」の名を頂くのはご承知のとおりである。


その在籍期間に存在した線区/区間で、キハ22の運転のなかったのは石勝線の楓-上落合信号場間だけであったから(これも記憶に値する)、沿線に立てばその運用列車は必ずやって来た。しかしながら、それを積極的に撮ったのは、組成の長い急行運用のあった釧網本線の標茶以南区間くらいだろうか。幹線筋の短編成の普通列車なら本番前の画角確認の程度であり、シャッタを切らずにやり過ごしたことも多い。加えて、蒸機がいなくなってそれしか運用の無くなった線区には、あまり出向かなくなっていたゆえ、これの写ったカットは思いのほか少ないのである。

けれど、撮影地点への移動には必然で、排気管のあるところの座席か縦型機関にて床に点検蓋のある近くを選んで乗り、アイドリングではカランコロンとあくまで軽く、勾配にかかれば重た過ぎる程のDMH17系列の機関音を楽しんだものだった。

防腐剤の染み込んだ木製の床材、初期車に残っていた白熱灯照明に、点検蓋から漏れ来る油臭さと車内に撒かれた消毒液の入り交じった匂いがキハ22の記憶である。


このキハ22 2は、永く名寄機関区に在籍した後に1985年3月改正にて運用を離脱、同時に旭川機関区に転ずるも休車の続いて、1986年3月末日付にて用途廃止が公示された。


写真は、深川からの921Dで朱鞠内に終着したキハ22 2。9時30分発の926Dで折返して往く。

眩しい程の雪晴れの朝であった。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4   1/500sec@f8   Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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倶知安機関区 (函館本線) 1973

1964年度に単年度赤字に転落して以降悪化する国鉄財政に対し、政府/与党は国鉄財政再建推進会議に対して再建策を諮問、その68年11月1日の運輸大臣への答申を受けて、69年5月に日本国有鉄道財政再建促進特別措置法を成立させた。これにより国鉄当局は財政再建基本計画を策定し、70年2月19日に運輸大臣承認受けて1969年度を初年度とする運用を開始した。

時に内閣を組織していたのは、かつて国鉄幹部であった佐藤栄作である。佐藤は69年5月26日付で退任した国鉄総裁石田礼助の後任に、国鉄生え抜きの官僚である磯崎叡を送込んでおり、その指揮の下に開始されたのが、かの悪名高き生産性向上運動、国鉄における通称「マル生運動」なのである。

財政再建基本計画に基づく生産性向上とは聞こえは良いが、それの実体は前記の再建推進会議答申に含まれていた国鉄職員16万人の合理化を推進する手段として策定/発動されたものであった。必然的に国労/動労など組合側との鋭い対峙の予想されたこの施策は、当局側においてもこれに異を唱える幹部が磯崎総裁により事前に更迭され、推進派が主導権を握り半ば強引に推進されて往くことになる。

そこには、70年の安保改定を迎える佐藤政権が、国鉄の財政再建を名目とした合理化にて、労働側の弱体化を意図していた構図が透けて見える。この「マル生運動」は当初より明確な政治的背景を持っていたと云わざるを得ない。


この運動の経過と顛末をここに詳述する余裕はないのだけれど、極めて政治的であったが故の、労働者ばかりでなく家族をも巻き込んでの中間管理職による執拗で露骨な組合脱退勧誘、脱退者には昇進/昇級が約束され、管理職には賞金まで用意されたと云うそれは、相次ぐ職場での乱闘騒ぎに幾人もの自殺者までをも出した末の71年10月に至って、公労委が国労申し立ての不当労働行為救済申請を認定して国鉄当局に謝罪を命令し、当局側から組合に対して10月12日に「不当労働行為の根絶」が、29日に「生産性教育の中止」が言明されたものの、国鉄労使間に深い不信感と亀裂を産んで、その後の永い合理化反対闘争を規定することとなった。順法闘争で対抗する組合と当局との対立は、政治上の代理戦争の様相も帯びて72年の春闘を激化させ、73年/74年と続く交通ゼネストを経て、公労協によるスト権奪還闘争へと先鋭化し、75年の十日間に渡って国鉄を麻痺させた「スト権奪還スト」への導火線ともなるのである。

そればかりでなく、戦後復活した保守支配体制による民衆管理の一面であるこの動きは、管理職にも疲弊と厭職をもたらして70年代国鉄のモラル低下を招き、それを逆手に取った政権側がその後の分割・民営化を方向付けた点においても、政治に絡めとられた国鉄を象徴するものであった。さらには、それを越えて現在に至るまでの労働運動全般に影を落としていることも忘れるべきでない。


倶知安機関区は、胆振線/岩内線用9600と本線用D51に気動車の配置があり、乗務員運用は、函館線の長万部-小樽築港間に胆振線を介して室蘭線の室蘭にまで及ぶ山線の中核区所であった。ここでは、合理化の一環として無煙化とともにそれらの長万部と小樽築港への統合/集約が計画され、それは機関区の全廃を意味したから反対闘争は激烈であった。

長引く混乱を受けての磯崎総裁の引責辞任直後となる73年9月23日のこの日、機関区では数人の全動労組合員が集会を持ちサボタージュに入っていた。その最中にもかかわらず、遠来の撮影者には火室に石炭を投込んで煙の演出をしてくれるのだった。管理職による妨害も無く、彼らの表情は穏やかと記憶する。


文中のデータは『国鉄労働組合40年史』労働旬報社 1986 による。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2   1/250sec-f5.6   Non filter     NeopanSSS     Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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端野 (石北本線) 1973

1973年秋の二度の道内行きは、スケジュールの立てようのない旅になった。

前の倶知安機関区 (函館本線) 1973 の記事にも書いたけれど、「マル生運動」の顛末とその後の長引く混乱に対する引責による、9月23日の磯崎総裁辞任に意気上がる全動労が合理化阻止の順法闘争を、そして処分覚悟の運転区所を指定した波状ストを展開していたからである。遅延しながらも長距離の優等列車は走っていたものの、普通列車や貨物には少なからず運休や運用変更などの影響が現れていた。

73年当時だから、二日先は読めぬ旅のターゲットは勿論蒸機である。まだ道央から道北道東の各線区にその姿が見られた頃だが、支線区の貨物列車は運休し本線系でも間引き運転が常態で、必然的に旅客列車を牽いていた室蘭本線と宗谷本線、石北本線系統を夜行急行で行き来することにはなった。それでも、区間運休なども生じていて駅で鉄道電話を借りては情報を仕入れ、撮れそうなところへ移動する毎日だった。


この日も釧網本線の網走-斜里間が平常運行との情報に<大雪6号>で網走へ向う折り、長時間停車の北見にて網走-北見間で区間運休と聞いていた522列車が運転と知って、それを撮ると決めたのだけれど、1527列車とは美幌交換とあって緋牛内への小さな峠越えとは行かずに、ここ端野に降りたのである。

降りてみれば、駅前に商店のひとつも無く、石造りに煉瓦造りの農業倉庫群の建ち並ぶ様に農業地帯の集散駅と知るのだった。駅本屋旭川方の貨物扱線にも下り乗降場向こうの側線にも貨車が溢れんばかりに留置されていたのは、運転の滞っていたこともあるだろうが、自動車輸送に浸食されつつあったとは云え農産物出荷に鉄道が活用されていた時代の証と取れる。


平坦区間だから発車して速度の乗らない内でないと煙は期待出来ない。上り方の構内外れで見つけた小さな踏切で列車を待ったのだった。今は、北見市街地外縁に呑み込まれて、この1キロ程先に愛し野駅がある。

遮断棹はもちろん警報機さえ無い第四種踏切を渡って往くのは、おそらく加工場にでも出勤する近所の人だろう。その細道を辿った先の車道(現道道1024号線)を駅方向に戻れば、それの道沿い、倉庫群を迂回した外側に市街地が続いていた。確かに貨物優先の駅だったのである。


[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2   1/250sec-f5.6    Y52filter     Tri-X(ISO400)     Edit by CaptureOne5 on Mac.

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網走 (石北本線) 1973

75年の秋だったと思う。網走駅から電話で当日のホテルを探したのだが、駅前では何処も満室で断られ、開業して間もないと云う「網走セントラルホテル」に空室を見つけたことがある。駅から市街地方向へ1キロばかりを辿り着いてみれば、その位置から旧浜網走駅の跡地に建てられたものと知れた。そのせいか、周辺には倉庫然とした建物の多く夜には寂しい一角ではあった。


この旧浜網走駅は、1912年10月5日に網走線が野付牛(現北見)からここまでを開通した際に設けられた網走駅である。既存市街地に近い常呂川沿いに置かれたものだったが、続いての1924年11月15日に開通の北浜までの延長線は、市街地を南に迂回する線形が選ばれたから構内西端で池田方に向いて接続とせざるを得ず、列車着発時に後退運転を生ずることとなった。これが1931年9月20日に釧網線として釧路と結ばれると列車回数も増大し直通列車にも機関車交換を要して、1.3キロ池田寄りのクルマトマナイ地区に施設を移転、ここを新たな網走駅とした。1932年12月1日のことである。この際に旧構内も貨物扱施設として残され浜網走を名乗ったのである。なお、網走-浜網走間の営業キロ程は0.8キロとされた。(これの告示期日不明。同日から日本国有鉄道発足までの間である)


戦前戦後と網走地域からの鮮魚や農産物の発送拠点であったここは、60年代に至り常呂川を越えて市街地が北に拡大すると、その中央部に位置することとなり、網走市当局は1964年に移転促進特別委員会を設置して国鉄に現地からの移転を要請、1969年3月27日にそれを市内白樺町の旧引揚者住宅跡地とすることで合意に達して、6月に着工、同年10月4日に新施設の使用を開始した。

呼人-網走間の新旭川起点232K700M付近への設置なのだが、現地で本線への接続が無く、それは網走から連絡によっていたから国鉄はこれを移転とせず、11月1日付での網走-浜網走間貨物支線営業キロ程の1.3キロへの改正を公示するのみであった。駅の新設/廃止にかかわる手続きを省略したものであろう。それゆえ、浜網走は駅の地位を保ち、石北本線にも貨物支線が残存したのではあるが、もとより現業機関としての駅で無く、実体は網走からの構内側線で結ばれたそこの貨物扱い施設であった。これは移転前の浜網走も同様ではある。

この(新)浜網走駅も1984年2月1日改正の貨物輸送のシステムチェンジにともない廃止された。


常呂川沿いに存在した(旧)浜網走駅の構内は、現在の網走中央公園から北東東方向へ現中央通まで伸びていた。現在の南中央通(道道23号網走停車場線)は、その南東端から北西端へと旧構内を縦貫している。→1948年空中写真 その途中に1972年に現旧館を開業した網走セントラルホテルは、駅移転直後に用地を取得して着工したものであろう。


写真は、網走を後にする混合637列車、弟子屈行き。C58の牽引は斜里までで、以遠は補機用のDE10が牽いていた。

列車の前方、街灯りの方向が旧浜網走駅所在地になる。


(注) 空中写真へのリンクは最初に検索画面が呼び出されるが、もう一度クリックすれば写真画面となる。

=参考文献=

北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981

鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972

新網走小史/新網走市年表 : (網走小史編纂委員会編) 網走市 1987


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網走 (石北本線) 1973

1972年10月2日のダイヤ改正において、同改正での<いなほ><ひたち>の電車化による捻出車を転用して、それまでの501・506D急行<大雪2・4号>の特急格上げにより、1031・1032D<オホーツク>が札幌-網走間に設定された。函館を起点とした道内の特急設定に在って、札幌発着の最初の例となった。

札幌運転区の<北斗>運用と編成を共通化して、編成南側のキハ82を4号車、北側を10号車に付番の7両組成の運転であった。

また、この改正では、函館運転所運用の11・12D<北海>に対して編成増強(7両基本編成南側に3両を増結する10両化)も行われ、そして多客期には8011・8012Dとして旭川-網走間の延長運転も設定された。

道内では、石北本線の特急輸送体系の整備された改正だったのである。


この<北海>の網走延長運転は、延長区間の運転に約4時間を要し、その往復に旭川での運用間合いが不足することから、1031・1032D<オホーツク>と共通運用を組むことで編成の所要増を抑えていた。

すなわち、この網走延長時のみ、"函館11D旭川(8011D)網走1032D札幌 / 札幌1031D網走(8012D)旭川12D函館" と運用する、函館所持ちの臨時運用が組まれた。


車両の所要増なしに石北線の波動輸送に対応する施策であったのだが、この臨運用ではいくつかの興味深い事象が見られた。

まず、札幌区に配置された80系気動車は、室蘭/千歳線経由で運転の<おおぞら><北斗>と札幌駅在姿での編成方向を合わせ、編成南側を旭川方としていて、函館所とは逆編成になっていたのである。

ところが、函館山線を運転する<北海>は札幌駅に編成南側を函館方とした正方向で入線する。つまり、<北海>と<オホーツク>では札幌以北での編成方向が異なる訳である。

これを共通運用とすると、この臨運用の期間中、これらの上下4個列車は、それぞれ一日毎に編成の向きが異ならざるを得ず、函館所/札幌区への所定方向での帰区は隔日となってしまう。

函館所では、12Dで午前0時過ぎに帰区の編成を同4時には11Dとして出区させることになり、その検修作業はタイトなスケジュールと想像に難くない。また、旅客現場では、乗車口案内など複雑な業務の生ずるであろう。


この煩雑を回避するため、札幌区では、この臨運用施行期間中のみ<オホーツク>充当編成を<北斗>運用と分離の上で方転させ、函館所の<北海>と方向を揃え、運用も委ねていたのである。

その都度行われた方転作業は、苗穂の転車台使用とも思えるが、その手間から手稲-苫小牧-岩見沢-手稲の三角線に方転列車を運行したと推定している。

さらに、この両特急列車は所定の編成両数が異なるが、臨運用に際して<北海>は編成南側の付属編成-3両を旭川回転として、石北本線内では<オホーツク>と同じく7両組成運転としていた。

但し、輸送量のピーク時には10両組成で網走まで運行され、この場合には当然ながら<オホーツク>も10両運転であり、これは北見-網走間での特急の10両運転の最初の事例となった。

<おおとり>における北見回転車の存在は、網走での夜間滞泊に対応した施設上の事由であるから、滞泊のない運用であれば10両運行に問題はないのである。ただし、美幌/女満別では乗降場の有効長が不足した。


写真は、網走駅頭での<オホーツク>。所定編成を編成の南側から見ている。

この日は、動労の順法闘争にて1031Dの到着が大幅に遅れ、1番線に据付けのまま1032Dへの折返し整備が行われていた。食堂車では食材/器材の積卸に慌ただしい。



<北海>の列車名が消えて久しく、ましてそれが石北線を走ったことをご記憶の方も、もう少ないのではなかろうか。

根室発の<ニセコ>の愛称には違和感があったけれど、網走行きの<北海>ならオホーツクを目指す列車に相応しいと思える。

なお、上記文中の編成方向にかかわる「南側」「北側」表記については、Referenceの記事を御参照いただきたい。


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七飯-大沼 (函館本線) 1973

七飯で分岐する下り列車専用に勾配を緩和した増設線、通称-藤城線に位置する新峠下トンネルは、この線増線の開通に先駆けて1956年12月15日より使用を開始している。仁山回りの既設線上の峠下トンネルが経年による覆工剥落や変状を生じていたため防災工事として先行し、この日函館桟橋起点22K700M付近からの3.1キロを新峠下トンネルを含む新線に切替えたものである。


この時点で、新設区間が単線運転の函館本線となり、その線上に距離標が移設されたのだが、注目すべきは起点23K000Mの甲号標である。その建植位置は、新峠下トンネル手前の切通し区間となっていた。

その後、上記防災工事にて放棄された旧峠下トンネルには曲線改良をともなう改築工事が行われ、新線へ切替えた22K700M地点に熊の湯信号場を置いて、軍川との間でこの復活旧線を上り線とする複線運転が1962年7月25日より開始された。

これにより下り線となった新峠下トンネル経由線は、予ての計画どおり1966年9月30日に藤城線が開通するとその一部となり、同日を以て熊の湯信号場から藤城線との接続点までは廃止されたのだが、どうしたことか、その地点より軍川寄りに位置した前記の23K000M甲号標は、そのまま存置されたのである。勾配緩和の迂回によりやや距離の伸びた藤城線上にも久根別トンネル出口方に23K000M甲号標は存在し、同線上には2箇所の同距離標が併存する事態となっていた。このような事例を他には知らない。


写真は、藤城線の久根別トンネルを抜けた1191列車。五稜郭操車場からの砂原回り長万部行き区間貨物列車である。

手前側に藤城線の23K000M甲号標が見える。対して、存置された熊の湯信号場経由線上の同標は、七飯-大沼 (函館本線) 1981 に見て取れる。その間350メートル程の間隔である。それを84年頃までは車窓に確認した覚えがあり、少なくとも20年程に渡ってこの状態が続いていたことになる。その事由はわからない。付記すれば、この23K000M甲号標をはさんで藤城線本来の同標基準の23K300Mと400Mの丙号標が建植されているのだが、その間隔はせいぜい50メートルである。これは現在も変わっておらず、どうにも謎の多い地点である。


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