塩狩 (宗谷本線) 1974

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1974

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宗谷本線における塩狩峠は、塩狩の下り場内信号機手前の旭川起点28K130Mの施工基面高251メートルを最高標高として越えるもので、蘭留との標高差66メートル程、和寒とは111メートル余りである。双方とも最急勾配20パーミルが連続するものの、標高差の大きい和寒側で直線的に上ってしまうなど、さほどに山深い峠ではない。


けれど、塩狩駅は、国道40号線に近接し東側には農業施設が存在するにかかわらず、樹林帯にてそれらと隔絶され、山間の小駅のロケーションに在った。乗降場より一段高い位置にある駅本屋が、信号場としての出自を感じさせる。それでも、長い構内有効長と中線までも持っていた規模は、かつて樺太連絡の重要幹線にあって峠の頂上に位置した風格と言ってよかろう。

この日は、蘭留側に下った小半径曲線の連続する区間での撮影を予定していたものの、激しい降雪にそれを諦め、駅構内にて一日を過ごした。めったに乗客の来ない待合室で、ストーブの上に置かれた薬缶から上がる湯気の向こうに降雪を眺めるのは、それこそ至福の時に違いなかった。


写真は、塩狩を通過する303D<天北>である。

特急の設定の無い宗谷本線では最優等列車であり、<宗谷>と共に確かにその貫禄は備えていた。

連査閉塞が施行されて通票の授受はなくなっていたけれど、列車監視に立つ駅員の姿は運転扱い駅の証である。列車も速度を落とすこと無く、力行のまま構内を通過して行く。

上下線間からの撮影だが、この位置には使われなくなった中線が存在し、当時は撤去されていなかったと記憶する。


この頃、既にこの区間の蒸機運転は無くなっており、蘭留-和寒間での補機も一部貨物列車と編成の長い夜行<利尻>を除き廃止されていた。


[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5     1/500sec@f8     48filter     Tri-X(ISO400)     Edit by CaptureOne5 on Mac.

御影 (根室本線) 1974

1960年代以来撮り続ける北海道なのだが、1987年だけは一度も渡道していない。

その冬に釧網本線に向っているので年内と思っていたのだが、調べてみると年の明けた1月のことであった。


本業のほうが多忙だったこともあるけれど、86年11月改正において、道内夜行急行に宗谷方面の客車急行、釧網本線の貨物運行は維持されたものの、函館山線優等列車と客車列車の全廃、根室本線貨物列車の削減、石北本線貨物の臨時格下げ、稚内/網走への客車列車の気動車化、80系気動車の定期運用離脱など、ターゲットが激減してしまったことが大きい。早い話が、撮る気の失せていた訳である。

この国鉄民営化の年には、道内に替えて高山本線に通っていた。そこには客車列車の設定こそないけれど、80系気動車や名古屋鉄道8000系による特急にキハ58/28の気動車急行、加えてDD51牽引の貨物列車もある列車運行と、その線路や各駅の設備が一昔前の亜幹線を思わせ、以前より幾度か撮っていたのだった。東京からそう遠い距離でもなく、本業の合間を縫ってのスケジューリングも可能だったのである。大垣夜行で岐阜から入り、高山駅前のホテルをベースに二日程撮って富山から急行<能登>で帰京するパターンである。時には<能登>を早朝の高崎で捨て、八高線に立ち寄ることもあった。


亜幹線と言うのは、公式の線区種別ではないが、戦前から1960年代の輸送力増強第三次長期計画の頃までは国鉄部内でも使われていた区分である。例えば、C57形蒸気機関車は、亜幹線向け旅客用機関車として開発された。

明確な定義は存在しないけれど、幹線に次ぐ重要線区で優等列車の設定や貨物列車の運転頻度も高いものの、線路設備は当時の運輸省による建設規程で乙線ないし丙線、国鉄による線路管理規程では3級線に当たる線区と言って良かろう。電化/複線化前の羽越本線や信越本線に中央本線、西の山陰本線に九州島内なら長崎本線など、60年代まで地方幹線の大部分がこの範疇にあった。

趣味的に見れば、薄い道床厚に40Kgレイルの単線で勾配/曲線改良もままならず、通票閉塞に信号場と補機で輸送を支えていた、鉄道の魅力を存分に感じさせる線区なのだった。

その残り香を十分に保持していたのが高山本線だったのである。特に高山以北の区間にその感が強い。


道内では、室蘭本線の長万部-東室蘭間や釧路までの根室本線などは、確かに亜幹線の範疇にあったのだが、視点を87年戻してみてもそのイメージは薄れてしまい、そこは近代化された幹線であった。独立島内の線区であるゆえだろうか。長万部-小樽間を含む函館本線に宗谷本線は、もとより幹線の風格を備えていた。


写真は、御影に到着する445列車、新得からの釧路行きである。帯広までのこの区間では朝の通勤通学輸送を担っており、客車の後部3両は池田で解放される。

この線区が、辛うじて亜幹線のイメージを保持していた頃である。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8   1/250sec@f8-11    Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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遠軽 (石北/名寄本線) 1974

戦後に、公共企業体として再発足した日本国有鉄道は「国民の足」を標榜しただけあって、そのサーヴィスは至れり尽くせりであった。近年の民営会社のごとくに、4両組成の客車列車を、ほぼ定員が同じだからと2両のロングシート電車に置替えたり、地方線区の線路保守費の低減を理由に最高運転速度を抑制して、結果到達時分の延伸を招いたりはしなかったのである。まして、石北本線で事例の在ったような、単行気動車による運行で変則下校時の高校生を積み残すような失態は考えられぬのであった。


その石北本線では、白滝方面から遠軽への朝夕の通勤通学輸送に(勿論、現在より乗客は遥かに多かったのではあるけれど)、この区間での増結を施行していた程である。

1973年10月1日改正ダイヤで、朝方に白滝6時41分発の混合523列車と夕刻18時26分に遠軽を出る混合532列車がそれにあたり、要員区とされていた遠軽客貨車区に常駐した旭川客貨車区のオハ/オハフ62の2両が上川-遠軽間の編成に増結されていた。532で白滝へと向かった編成は、30分近い停車時間に解放されて牽引機(この当時はD51形蒸機であった)により側線に押し込まれて滞泊(*)、翌朝に523の牽引機(これもD51である)に引き出されて編成前位に連結、遠軽へと戻る運用であった。

これを気動車でなく客車編成でやっていたところが「至れり尽くせり」に思える。

(*) - 余談だが、この頃ここでの駅寝の際に、この滞泊車で寝せてくれ、と頼み込んで見事断られたことがある。まあ、当然ではある。


北見方でも、朝に北見からの522列車に遠軽まで、北見客貨車区のオハ62が1両増結されて、これは昼の貨物列車に連結されて北見へと戻っていた。もちろん、これにも乗車可能で、「貨物列車」による旅客営業は道内では歴史的に珍しい事例ではない。


写真は、夕方の運用に向けて遠軽で昼寝中の白滝回転運用車である。このオハ62 43は、UF12型台枠を持つ木製車オハユニ25420を1952年に旭川工場にて鋼体化したもので、以来四半世紀あまりを生き延びて1980年11月に用途廃止とされている。

ところで、床下に「温気暖房器」と表記された収納箱が見える。これこそ、客車暖房としての石炭ストーブを追放した機器であり、その搭載は石北本線運用車の特徴であった。この機器については Reference に詳述している。


[Data] NikonF2A+Ainikkor105mm/F2.5   1/250sec@f8   Non filter    Tri-X(ISO320)     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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豊浦 (室蘭本線) 1974

鮭の遡上する川、貫気別川である。


この秋の渡道は天候に恵まれずにいて、この日降り立った豊浦も背後の低い山々は雨層雲下層の霧雲に巻かれ、せっかくの噴火湾だけれど、海や空を画角にすれば白く飛んでしまうゆえ、ポイントは高岡のカーブに決めていた。市街地を抜けて、通りかかった貫気別川の橋から川面を見れば、遡上する鮭の姿があった。

群れと云う程では無い。時折上流方向へと泳ぎ去る大きな魚影を鮭と理解するまで、些か時を要した。噴火湾の最奥部に位置する河川とは言え、もうそれの始まる季節だったのである。前日来の降雨にて多少水嵩の増した流れを上る姿にしばし見とれていた。


ところで、鮭の回帰する母川の条件とは何か。水量とか流域延長などは関係するのだろうか。と云うのも、はるか以前にオホーツク沿岸の、それこそ小川以下の流水で鮭の姿を見かけたことがあるのだ。シロザケ/カラフトマスの仲間は回帰性が多少弱く、母川の確認に付近の幾つかの河口に一旦泳ぎ入ると聞くゆえ、その行動だったのだろうか。


PLfilter にて水面を覗き込まねば、それは捉えられず、まして列車との組合せなど困難だけれど、その流れだけでも撮ろうと河口側へ向かうと、細いロープひとつで流れに抗がう小舟があった。


列車は、4D<おおぞら2号>。

旭川からと釧路からの編成を滝川で併結した堂々の13両組成である。釧路編成は食堂車を含む7両だが、運用上は付属編成となり根室本線内では4004Dを名乗っていた。

この道内での80系気動車の2編成併結による最長編成は、1964年10月1日改正で設定(急行格上げ)の函館-釧路・網走間<おおとり>にて実現し、70年10月1日改正による網走<おおとり>の分離にて一旦消滅するも、72年3月15日改正での旭川発着<北斗>に釧路編成を増発しての<おおぞら>への列車名変更に際して再登場した。写真の旭川編成が旧<北斗>の後身である。

この頃1D・2D<おおぞら1・3号>も函館-札幌間にて札幌回転車3両を含む13両組成であった。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f8  Y48filter  Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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七飯 (函館本線) 1974

函館市の北に位置する七飯町の人口は、1975年から2000年までに1万人程の増加をみている。この間、北海道のそれも50万人ばかり増えているのだが、85年以降は横ばい状態の続き、道外からの札幌都市圏への流入が全道からの流出を上回った過ぎない数字である。

七飯町の増加は、同期間に3万人を減じた函館市からの転移が大半と見て良いだろう。70年代にも市内電車の走る道道83号線沿いを堀川町から本町、杉並町と移動していた函館市の人口重心は、80年代以降には五稜郭公園東側に至り、市域の東側から北側への市街地/住宅地の進出が見て取れる。それは、当然のごとくに行政区域を越えて七飯町域に及んだのである。

今、函館/大野平野東側の丘陵中腹を往く函館新道からそこを見遣れば、国道5号線沿いに住宅地が七飯市街地まで途切れること無く続いている。


そこでの宅地開発は80年代から本格化したと思われ、この頃までは、小規模な屋敷林を伴った数軒の農家の他は畑作地に果樹林の広がるばかりだった、七飯からの函館本線下り列車線-通称藤城線の七飯高架橋周辺も90年代に入れば住宅の建ち並んで、鉄道を撮るには不向きなロケーションと化してしまった。

宅地は、藤城線が丘陵地に取り付く辺りの斜面にも開かれるのだが、造成中のそこは逆に、函館新道の開通にて城岱牧場への旧道が付け替えられるまで高架橋を見渡す絶好のポイントでもあった。


写真は、高架橋の10パーミル勾配を上る5D<おおぞら3号>釧路行き。

1961年10月改正にて設定の釧路・網走・稚内行き多層建て気動車急行が、70年10月改正でそれぞれ単独運行とされ、この後に15D<おおとり>、そして305D<宗谷>と5分間隔で雁行する、昼のゴールデンタイムである。


この農地は今や一面の住宅街である。例え同一地点を探し出してそこに立ったところで、軒に遮られ高架橋は望めないだろう。


[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F1.8   1/500sec@f8    Y48filter     Tri-X(ISO400)    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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倶知安 (函館本線) 1974

青函を深夜便で渡れば、函館からは101D<ニセコ1号>である。

接続列車には<おおぞら><北海>の特急も在ったけれど、均一周遊券で乗れたのは急行自由席までだったから選択肢はこれしか無い。特急の走り去った後を追う、函館5時05分発は1980年10月改正での列車廃止まで不変で、札幌方面へと急ぐ客は特急に乗るゆえ、11便の25分後の1便で着いても空席のあるのも有り難かった。例えば1972年3月改正時点での所定8両編成は、キロ26-1両を含む4両が座席指定車でもあり、本州連絡急行の貫禄十分であった。

札幌まで小樽経由だったから、この場合の渡道一日目は大抵函館山線の何処かを撮ることになる。幾度も乗った列車だが、確かに札幌までの5時間を乗り通した記憶はない。


この急行は、1961年10月改正における<おおぞら>の新設に際して、運転区間を函館-札幌間に短縮した11・12<大雪>の後身であった。この大雪山の麓まで往かなくなった<大雪>は、1963年6月1日を以てキハ56/27系列の気動車編成に置替られ、この際、列車名も11D・12D<ライラック>と改めている。さらに、1966年10月改正で翌年春に設定予定の函館山線特急に列車番号を譲って101D・102Dとなり、1968年10月での列車名統合にて<ていね>と共に<ニセコ>を名乗のったのである。

余談だが、<ニセコ>の愛称はそれまで倶知安-札幌間の地域内準急に使われたもので、こちらは<らいでん>と改称された。


下りは終始札幌行きであったのだが、趣味的に興味深いのは上りである。

1968年10月改正での<ニセコ>への改称時に、それまでも運用上車両の直通していた根室-札幌間<阿寒>と統合され、根室-函館間1414D-404D<ニセコ3号>となったのである。遥か東端から根室本線を運行する列車に<ニセコ>の名称も奇異だけれど、札幌以南も根室線系統の400番台の列車番号を通したところも珍しい。しかも根室-釧路間での1414Dはキロ26をキハ27が挟み込む3両組成(キハ56/27の5両は釧路回転車)に、普通車の座席指定車-1両を含んでいて、3種の座席種別設定を持つ最短編成列車であった。

さらには、1972年3月改正にて釧路-札幌間のみが6404Dとして季節列車化されてしまうのである。即ち、これの運転されない期間には、根室-釧路間と札幌-函館間にて一日に2本の上り<ニセコ3号>の運転されることとなった。

以後、暫くこの状態が続くのだが、さすがに国鉄も最東端の列車に<ニセコ>は無いと思い直したものか、78年10月改正で、札幌にて系統分割し以北区間を<狩勝>に編入、変則運行は終了した。

なお、根室から函館までの829.4キロ(砂原線経由)は、ついぞ破られることのなかった気動車急行列車運行距離の最長不倒である。


写真は、後方羊蹄山(しりべしやま)からの雪晴れの朝日に倶知安峠へと向かう101D<ニセコ1号>。

この季節ならば長万部を過ぎて、ようやく車窓に雪原が青く浮上して来る。青森/函館と深夜に乗継いだ乗客の大半は眠っていて、いつも夜行列車の続きのような朝だった。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor105mm/F2.5   1/500sec@f8-11    Y48 filter     Tri-X(ISO400)     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1974

失われた鉄道景観のひとつに保線小屋がある。

それに類する建物は、保線管理室やら保線センターなどと名前を変えた現在でも、その事務所なり詰所として拠点駅の構内に所在するが、一部を除く小駅構内や停車場間の線路際にそれを見ることは無くなった。

正式には、鉄道管理局の現業機関である保線区の担当区間延長を幾つかの線路分区に分割し、これをさらに細分した線路班とされる業務遂行の最小組織の作業拠点としての詰所、それの事務室や休憩室、用具用品庫を収容した建築物である。

主には線路班担当区域の駅構内に置かれたのだが、駅間が長大距離の場合など区域内の適当な地点に駅が位置しなければ、それを駅間に設置して、これは中間線路班と区別された。また、これらに付属して休憩所兼用具用品のデポ施設が駅間に設置されることもあり、正式名称は知らぬが、これも保線小屋である。

古い鉄道写真屋ならば、ロケハンに線路を歩いた折にでも、そこへと招き入れられて茶なぞ馳走になった経験もあるだろう。寧ろこれを保線小屋と認識する向きが多いかもしれない。一例として、宗谷本線の旭川起点252K500Mに在ったそれは、鉄道屋には馴染みの深い。放棄された後のそこで夜を明かした経験をお持ちの方も多いはずである。


時期に依っても異なるであろう、この線路班が道内にどれほど存在していたかは知り得ない。停車場間の長いここにおいては中間線路班も多くを数えたものと思われる。

胆振線の新大滝-御園間に所在した尾路遠線路班や根室本線札内-止若(現幕別)間の稲士別線路班のように官舎も併設されて、職員・家族が居住した大規模な例もあった。そこには、家族の利便を図って乗降台が設備されて列車が停車していた。関係者のみの利用に付き道内時刻表にも記載の無かったのはご存知のことと思う。類推すれば石炭輸送の幹線-歌志内線砂川-文殊間の焼山線路班、池北線の上利別-大誉地間の笹森線路班、室蘭本線大岸-礼文間の豊住線路班に幌別-登別間の富浦線路班も同様と思われるのだが、確証は無い。これらは周辺に集落も存在したのだろう。早い時期に乗降施設は駅とされていた。他に、一時的にせよ信号所として列車停車に対応した例は、函館本線銭函-手稲間の星置線路班、滝川-砂川間の空知太線路班、室蘭本線苫小牧-沼ノ端間の一本松線路班がある。

職住近接が原則であった国鉄現業機関において、交通手段が鉄道に限られた時代ならば何れの中間線路班も官舎を伴っていたとも考えられる。線路班の構成人員は5名から15名程度とされていたから、それなりの用地を要したことだろう。


保線作業最小単位としての線路班は、大型機械の導入を伴う集約等により1970年代には廃止・統合が始まり、放棄された建物施設自体もやがて解体されて姿を消していった。駅のみならず駅間にもこのような不休の職場の在ったことは、永く記憶に残したい。


写真は、ウトナイ湖畔の湿原区間を往く223列車、岩見沢行き。

画角左端に見えるのが、ここに在った東植苗線路班の詰所である。石炭輸送の最重要幹線上にて軟弱地盤での凍上や路盤沈下などに前記の一本松線路班ともども苦労した区所であったろう。この74年当時、既に常駐は無く間もなく廃止されたものと思う。


=参考文献・資料=

北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981

デゴイチ保線野郎 : 藻岩三麓 札幌北書房 1972


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8   1/125sec@f11    Y48filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

 
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