遠軽 (石北本線) 1975

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1975

previous    gateway    next

1975年3月の渡道は散々だった。

その10日のダイヤ改正でも残るとされたオホーツク沿岸地域の蒸機を撮りに行ったのだけれど、東京で得ていた情報とは裏腹にDE10の入るスジがあったり、何より支線区の貨物は既に運休も多々あったのだった。


この日も、湧網線の貨物列車がウヤとなってしまい、他の線区への転戦も出来ない有り余る時間を、午後には遠軽へと出て過ごしていた。快晴で日射しの強い一日と覚えている。

石北本線は無煙化を終えていて、そのDD51やDE10の姿が目立つものの、扇形庫では9600が煙を上げてもいたのが、この時期の遠軽機関区だ。庫内には火を落としたD51の姿も見えた。

立寄りも考えたけれど、突然の訪問に躊躇して止めてしまった。


写真は、本屋に接する第一乗降場から構内を見ている。

幾千もの人々が行き交い歳月を経たホームは傷み、駅の歴史を感じさせていた。これは滑り止めを兼ねた装飾だったのだろうか。


この頃の遠軽には、機関区ばかりでなく、ついこの間までの「鉄道の当たり前」が揃っていた。

出札職員の白ワイシャツにアームバンド。乗車券函にダッチングマシン。

その背後で鳴る当務駅長の扱う閉塞器の電鈴。第一種連動のテコ制御盤。

改札口上に掲げられた電照式の駅時刻表。改札の案内札。改札鋏の小気味良い鋏音。

列車到着時の駅名連呼。列車暖房管から漏れ出る蒸気。

荷物窓口からホームをリヤカーで運ばれる小荷物。

側線に留置の白滝までの小運転に使われた客車編成。貨物扱い線には貨車の使用車なり停泊車。

背の高い構内照明塔。構内作業員の振るフライキにカンテラ。入換合図の汽笛。

非自動化区間運転列車の片側点灯の後部標識灯。

鉄道弘済会の売店。(キオスクなどとは決して言わなかった)

上下の夜行<大雪>でも営業していた集札口脇の駅蕎麦屋に岡村弁当店の立売り。


今は、必要最小限のものだけが残された感がある。輸送システムの変革で、ここに拠点を置く必要性が消滅し、それに従った結果なのだが、扇形庫や気動車検修庫の撤去された敷地にせよ、貨物施設跡の駐車場にせよ、0番線乗降場跡も、装置産業が衰退すれば空間として取り残されるゆえ、虚無感が募る。


[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2     1/250sec@f11    O56filter     Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

黒松内 (函館本線) 1975

通票閉塞の施行線区を運転する優等列車への運用車は、停車場内を通過する際に通票を受け取るためのタブレットキャッチャを装備していた。そこに設置の通票授器(さずけき)にセットされたタブレットキャリアを走行のまま、これに引っ掛けると言う原始的な手段である。バネのヒンジにて、確保したキャリアは落ちぬようになっていた。

けれど、ほとんどの機関士/運転士はこれを信頼していなかったように見える。大抵の場合は、所持していた通票をキャリアごと螺旋状の通票受けに投げ込むと、今度は運転台から身を乗り出して前途の通票を授器から自らの腕でキャッチしていた。蒸機機関車は勿論、二人乗務の運転なら、これは助士の仕事であった。

減速してのこととは言え、かなりの衝撃と思われ、キャリアを腕に通すと同時に身体をうしろに反らして、これを車体に当てて緩和していたようである。キャッチャはバネヒンジの固さなどで確保に失敗すること多々在って、信頼度の低かったのではなかろうか。取り損ねたり、落下させたりすれば、列車を停止させて拾いに往かねばならない。


写真は、黒松内での通票の授受を終えて再加速する11D<北海>。運転担当の当務駅長は、その一部始終を監視し、指差換呼にて列車を見送る。ついこの間まで、何処の駅でも見られた鉄道職員の基本動作である。

この当時、ここは特急通過駅であったのだが、81年10月改正での<宗谷>の格上げ特急化に際して、その停車駅を引き継ぎ、この11Dも停車に改められた。


CTC化の見送られた函館山線区間は、それでも本社からの合理化要求は強かったと見えて、80年代以降、運転要員を残しての駅の無人化や簡易委託化が進められた。運転関係の要員が完全に撤退するのは、86年11月改正における電子閉塞方式の施行によるものであった。その中に在って、ここ黒松内は北海道旅客鉄道への移管後も永く直営を保って来た。直営駅にもかかわらずマルス端末の設置が無く、硬券や出補/改補などの軟券の宝庫だったことも記憶に新しいものだが、惜しくも2006年度末を以て無人駅となり、山線の零落の、また一歩進んだ印象を持ったものだった。


[Data] NikonF PhotomicFTN+AiNikkor50mm/F1.8   1/500sec@f8    Y52filter     Tri-X(ISO400)     Edit by CaptuerOne5 on Mac.

previous    gateway    next

計根別 (標津線) 1975

アバレル大手のひとつに、株式会社キングがある。

戦後間もない1948年9月にキング染工芸社として京都市にて創業、1968年に自社ブランドPINORE(ビノーレ)を以て女性向けアパレルの製造販売事業に進出している。1978年の現社名への変更と染工業の流れを汲むテキスタイル事業分野の分社化を経て、現在では8銘柄のハウスブランドとふたつのライセンスブランド、それに三つのアクセサリーブランドを保持するに至ったアパレル事業分野にて、2012年3月期決算(グループ各社連結決算)で136億円あまりの売上を計上している。大手に違いない。


そのアパレル販売は、保有する幾つかのブランドを組み合わせた五つのチャンネル=店舗にて行われ、中核は、アパレルのPINORE・C'EST CHIC'A(セシカ)にアクセサリィのLUPYを扱うAVENUEを名乗る店舗である。全国で300店程と思われ、その面的な展開は同業他社の追随を許さぬものがある。もちろん全てが直営店舗ではなく、大半はフランチャイズ店、大手流通資本や地元資本と提携したテナント出店なりショッブインショッブの形態と推定されるのだが、それは大都市圏やその周辺のみならず、かなりの中小都市にまで及んでいるのである。

人口23000人余りの北海道標津郡中標津町にも、この店舗がある。


その出店先は地元資本である株式会社東武の運営する大型ショッピングモール東武サウスヒルズで、それは中標津市街地南側に隣接して立地している。このショッピングモールは、例えば首都圏近郊のそれと比較しても引けを取らない。1973年から市街地で営業していたショッピングセンターを、2005年に郊外へ移転開業したものと言う。服飾販売ではテナントの出店もあるのだが、ここでは東武直営の服飾売り場にAVENUEが存在する。ショッブインショッブ形態なのだろう。


Web上で1970年代の空中写真を検索し、現在の衛星写真と比較すれば明らかだが、その市街地は拡大している。旧市街地の周辺に新興住宅地と商業地が定着しているのである。特に国道272号線バイパス(中標津バイパス)の開通以降に、その沿線地区の開発が進んだ。東武サウスヒルズもその一角への進出である。

前にも書いたけれど(稚内 (宗谷本線) 1985)、それは周辺地域の広域における劇的な人口流失と表裏を成している。

既存市街地で、情報の速達化にともなう生活意識と様式の全国的平準化を背景とした都市化が進行し、一方で過疎を通り越した無人地帯が出現する。ここ中標津に限ったことでは無いこの現象は、それは都市が割拠する様相であり、もはやそこをルーラルエリアとは呼べるものではないだろう。ルーラルエリアを線で結んでいた鉄道の衰退するのは道理なのである。


なにより、中標津町は勿論のこと、隣接する別海町や標茶町/弟子屈町のみならず同種商業施設のない根室方面をも商圏とする東武サウスヒルズは、縦横に整備された国道/道道と自家用車の保有を前提に成立している。AVENUEで販売されるブランドを欲しているのは、そのような「都市生活者」なのである。


計根別から開栄仮乗降場に向かって、ほぼ直線の線路伝いに歩いて往くと原野の中から忽然と放牧地が現れる。夏ならば緑の空間なのだろうが、冬と在っては原野よりもそこが「空間」であるだけに寂しい光景だ。

列車は、327D中標津行き。

中標津町計根別の市街地は、この当時より明らかに縮小している。


[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4   1/30sec-f2.8   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

previous    gateway    next

北浜 (釧網本線) 1975

北見の停車時間を削って、いささか遅れを取り戻した<大雪5号>崩れの1527列車から、急かされるように釧路行きに乗継ぐ。網走トンネルを抜けて車窓から眺めるオホーツクは、白く沸き立つ波涛からの飛沫とも吹雪とも云えぬツブテがその窓を叩き、海岸段丘の草木は、まるでクシで撫で付けたように斜面に伏して、降り立った北浜では早々に待合室へと逃げ込まざるを得なかった。

この日、低気圧がオホーツク海を発達しながら東進して、内陸には風雪を沿岸へは強風をもたらしており、予定していた止別を取りやめて、駅至近にポイントのあるここへと下車したのである。


上りの時間が近づき、覚悟を決めて鉄橋の見える背後の段丘へと上ったものの、撮影方向が風上を向いて、レンズには瞬く間に飛沫が張り付いてしまうのだった。

こうなれば諦めもついて、その日を休養日と決める。市街地の商店で食料を仕入れ、ストーブのやかんからの湯気を眺めて、風音と海鳴りを聴きながら至福の時間を過ごした。これも旅の楽しみに違いなく、無人駅ばかりの昨今では出来ぬ芸当であろう。

前の年に無煙化が達成されていて、列車発着の際の地元の利用者以外には、誰も訪れることの無い待合室であった。


夕刻も間近の頃、フィルムを入替えてISO1600に設定、さらにNDフィルタを装着して駅の網走方に立った。

強風は衰えず、海上は飛沫で霞んで見えた。


列車は、混合635列車である。

このフィルムは、増感の上に24℃での高温現像にかけた。この頃、皆がやっていた手法である。さらに印画に焼く際にも手を加えるのだが、ここでは、それをディジタルでシミュレイトするしか無い。それも、かなり遠慮気味にしている。

便利なようだけれど、印画紙によっても異なった仕上がりとは違っていて、表現は根本的に別モノである。


[Data] NikonFphotomicTN+P-AutoNikkor105mm/F2.5   1/30sec@f8   ND8filter    Tri-X(ISO1600)

Edit by PhotoshopCS3&LR3   Compiled by CaptureOne5 on Mac.

previous    gateway    next

音別-古瀬信号場 (根室本線) 1975

撮影や移動の都合上、夜行急行からの深夜の下車や、宿舎泊まりなら未明の起床は必須であった。まして、夜行列車の上下を乗継いで出発地に舞い戻るなら、それは必然的に午前2時前後になった。

緊張感からだろうか、連日の疲労が重なっても起きられたものである。下車時刻の30分程前になると不思議と目の覚めた。

不覚にも、の寝坊は二度ある。覚えているくらいだから、この2回だけである。

一度は、翌朝の下り<利尻>を撮るつもりで2時起きのはずだった南稚内のホテル。目覚まし時計に記憶が無い。これに懲りて、次回からは駅近くの呑み屋で仕舞いまで粘ることにした。

もう一度は、士幌線に向かうべく小樽から乗車した釧路行きの<からまつ>だった。1両に10人程の乗車で静かな車内だったのだが、深夜に赤平から芦別まで乗った酔い客に起こされてしまい富良野あたりまで寝付けなかったのである。目覚めるとすっかり夜は明け、停車した駅の名は新吉野と読めた。


致し方なく、この日降りたのが音別だったのである。予期せぬ初訪問ゆえ地形図の準備も無く、車窓に記憶の在った下り方の海沿い区間へと歩いた。ロケハンのつもりでいたのだけれど、そんな時に限って好天に恵まれるものである。太平洋岸の秋空の痛快なまでの空気感を良く覚えている。

夕刻、駅へ戻るまで海岸を歩き、また幾つかの段丘に上り下りしたが、遠くに国道を見た以外に、誰一人にも出会わぬ一日なのだった。


列車は、425列車。滝川を早朝に出ての釧路行きである。

この頃ここでは、昼間に3往復の客車列車の撮影が可能であった。これらは、貨物の運休や臨時の運転が在れば、機関車の送込みや引抜き回送にも使われ、重連運転が多々行われていた。


[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2   1/500sec@f8   Y52filter    Tri-X(ISO320)   Edit by CaptuerOne5 on Mac.

previous    gateway    next

小沢 (函館本線) 1975

1960年代には、両親の故郷である水戸と札幌を家族で何度か帰省旅行していた。日着は困難で行路の何処かが夜行とならざるを得ない当時のダイヤでは、乗車距離の長い常磐/東北線内をそれに充てることが多かった。青函の深夜便は子供連れでの深夜・早暁の乗下船を避けたものだろうし、水戸が午前着、帰路には夜の出発で良いのは時間的にも好都合だったのだろう。この本州連絡チャンネルなら、行き帰りとも道内は<まりも>の乗車となった。


蒸気機関車の珍しい時代ではないが、それでも道内にここしかいない大型機C62の2台運転列車に乗るのは誇らしく、ブラストの連続したような走行音に驚きもした。レギュレタ全開でカットオフを50%に伸ばした山線独特の高速走行と牽引力を両立させる運転法によるものとは、当然ながら後年に知る。

下りの渡島大野から後部に機関車が連結されるのにも興味を惹かれ、後補機と云う存在を知るのはこれが最初と記憶する。五稜郭へのD52の投入以前ゆえ、それはD51だったはずである。

スハ45/スハフ44は、近代化改造工事の施工前とは云えスハ32やオハ35とは明確に区別されていて、急行列車にしか運用されぬ時代である。子供の眼にもそれは上等の客車と映ったものだった。下りの夕食、上りの昼食に食堂車へ行くのは楽しみであり、マシ35車内の造作も日本食堂の従業員のエンジ色の制服も良く覚えている。時期的にはスハシ38も体験していると思うのだが、それと明確な記憶がない。

65年には、このチャンネルに<北斗><ゆうづる>が設定される。けれど、特急など未だ高嶺の花の時代で、家族は引き続き<ていね>の乗客であった。


道内撮影に東京から通い始めれば、<ていね>改め<ニセコ>は「乗る」でなく「撮る」対象だったけれど、スロ62の組成を除けば普通列車とさほど変わらぬ姿で、森の海沿い区間で最後のC62を見送った後には、あまり撮ることもなくなっていた。

写真は、小沢に停車する103列車<ニセコ2号>。

列車としての魅力は乏しくなっていたけれど、本州連絡の重要列車に違いは無く、曇った車窓越しに見る車内の華やかさは急行列車のそれであった。


[Data] NikonF2+Nikkor35mm/F2   Bulb@f8   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

previous    gateway    next

富良野 (根室本線) 1975

富良野へ日中に降りた記憶は無い。富良野線とか落合に鹿越あたりで撮り終えてからの中継地として夜間に立ち寄るばかりだった。それでも、想い出すことはふたつある。主要駅らしく2面の乗降場を長く覆っていた木造上屋と、その下で営業していた竹内待合所の弁当販売所である。

切妻で傾斜のある大きく深い屋根は数多くの柱に支えられ、加えて、ここでは積雪に対応して軒に向けて長い腕木が付加されており、それの立ち並ぶ様は壮観と云っても良かった。近年までの名寄に稚内も失われ,残っているのは北見と釧路のそれぞれ第二乗降場くらいではなかろうか。木造の跨線橋とともに駅の存在感を強く印象付ける構造物ではあった。北海道型と云われる駅舎の保存すら聞かれない現状では、まして上屋をなど夢のまた夢だろう。


まつや竹内待合所がここに開業したのは1937年とある。(林順信氏の資料による-国鉄の旅 : 保育社1985年) 根室本線用の第一乗降場中程には、その当時からと云われても納得するような古めかしい竹内売店が置かれ、立食いそばの営業と駅弁当の販売が行われていた。それは木造の上屋に違和感無く溶込む、好ましい佇まいであった。富良野線の第二乗降場にも小さなの円形の販売所があり、売り子の老人がストーブを抱えるように座っていたのを思い出す。

竹内待合所は特殊弁当を調整していたでなく、幕の内弁当が用意されただけであったが、それを蒸篭で暖めながらの販売で、手に取れば水気を吸って撓った経木から温かさの伝わったのだった。冬ならば、しばれるホームで曇った窓と漏れ来る湯気に引き寄せられた。深夜、上下<からまつ>の時間帯でも灯りの点いていた記憶が在る。


写真は、2番ホームから発車して往く5D<おおぞら3号>。函館を出て6時間余り、終着まではまだ4時間の行程である。

この位置後方に在った運転詰所に断りを入れて撮っている。


2本の乗降場に変わりはないが、今では上屋は何の変哲も無い平屋根に架け替えられ、林立した柱も深い軒もなくなれば、そこに旅情も無い。

優等列車の減って80年代半ばには竹内待合所も撤退して、時刻表から弁当マークの消えていた富良野だが、近年に至ってそれが復活している。けれど、観光グルメとやらに便乗する免罪符的販売に過ぎず、深夜/早朝に買えぬのでは、もはや鉄道旅行者のものとは云えない。


[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4    Bulb@f8    Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

previous    gateway    next

黄金 (室蘭本線) 1975

室蘭本線の黄金から陣屋町を経て本輪西までの区間の複線化に際しては、かつての海岸線をトレースしていた線路を放棄して別線が建設された。この内、内陸に迂回していた黄金-崎守町仮乗降場間は新線の経路選定上から別線の選ばれたものとして良い。もっとも、これにて黄金下り方の左回り曲線がR600に緩和されてはいる。複線運転開始は黄金-陣屋町間が先行して、それは1968年9月19日のことであった。この際、旧線の崎守町仮乗降場は廃止され新線上に正駅として崎守が開設された。

旧線の迂回は海岸線に迫り出した標高60メートル程の丘陵の断崖下の通過を避けた線形で、新旧線ともこれを同名の元室蘭トンネルにて越えている。余談だが、その名のとおりトンネル出口は元室蘭と呼ばれる地区に在り、アイヌ民族により「小径を下る所」の意であるMo-rueraniと命名されたところである。小径の存在したのが、この丘陵なのだろう。このモルエラニが室蘭の原名ゆえに崎守町周辺が元室蘭なのである。


黄金の稀府方は続いて1968年11月15日に複線化され、これは既設線海側への腹付け線増であった。複線区間の中間駅となっても、黄金の上下本線に中線を持つ配線は維持されたのだが、78年10月2日改正を以て中線の使用を停止し岩見沢方のみを本線接続とした保線線に転用された。84年2月改正を待たないこれは、室蘭本線各駅では最初の事例となった。80年5月15日のRC制御の導入により要員も引上げられ、以後無人駅である。


この76年当時でも乗車人員の100人に満たない小駅だったにもかかわらず、ここの木造駅本屋の待合室には鉄道弘済会の売店が開かれていた。それは、無人駅化後の乗車券類の簡易委託販売受諾先ともなって、だいぶ後まで存続していた記憶がある。商店のない駅周辺には、今でこそ国道沿いに2軒のコンヴィニエンスストアが開店しているけれど、そのような業態の無い時代には駅売店がそれに近い役割を担っていたのである。このような事例は全国に幾らでも在った。


写真は、黄金に停車する224列車、岩見沢からの長万部行き。この頃でも室蘭本線の全線を走破する唯一の列車であった。

今黄金跨線橋の架けられる市道は建設途中で、その盛土から駅方向を眺めた。背景は伊達市から豊浦町の海岸線に有珠岳である。この角度だと昭和新山に真狩山は画角外になる。


[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4   1/250sec@f8   Y48 filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

previous    gateway    next

previous    gateway    next

張碓-銭函 (函館本線) 1975

夜行急行を宿代わりに行き来していると、深夜の上下乗換えのとんぼ返りでも無い限り、二日に一日は道央地域の何処かで撮ることに成る。早暁の深川や滝川への下車もしたけれど、大抵は札幌まで乗ってそこからの始発で南を目指すことが多かった。それでも、当日に再び下り夜行に乗ることも考えれば、行動時間から函館線なら倶知安、千歳/室蘭線を辿るなら室蘭あたり、足を延ばしても長万部が限界だった。なので、札幌から近い函館山線の海区間と云える銭函の海岸には幾度も立つことになった。

苦手な電化区間ではあったけれど、1980年代の半ばまでなら電気車両ばかりでなく気動車に機関車列車も多く通過していたし、小樽の富岡町の丘に住んでいた子供の頃に「御粧し」して札幌のデパートへ汽車に乗って「お出掛け」した懐かしい風景でもあった。


銭函から恵比寿岩の向こうまで歩き、そこから上の国道へエスケイプしてバスで戻るか、その逆がいつものことで、画角の限定されてしまうのに難はあったものの、行き交う列車を背に護岸に腰掛けて海を眺めるのも悪くなかったのである。

そこは石の浜で、夏休みには祖父母の暮らす水戸に帰省して大洗や阿字ケ浦などで泳いでいた身には、俄に信じ難いけれど夏場の海水浴場なのだった。決して広くは無い海岸にかなりの人出のあったことを何度も目撃していたここは、石狩浜側に施設の整備された今には閉鎖も無理は無い。


函館山線を経由する特急<北海>の設定は1967年4月1日のことで、青函夜行便に接続して特急券の入手難の続く<おおぞら>の救済に同列車の旭川編成を独立させたものであった。5分間隔で雁行するセクショントレインも検討された模様だが、この際に地元からの要望の強かった小樽・倶知安回りとしたのである。この当時に室蘭/千歳線も現在のような高速運転とは往かずに札幌への所要時分も勾配区間に15分を延伸するだけだったから、直通客への利便低下も無視出来る範囲との判断であろう。このため、函館機関区には1966年度本予算にて80系気動車-9両が増備され、<北海>に同系列基本組成の7両編成を充当、<おおぞら>は旧旭川編成の5両中2両を釧路編成に移してこれを増強、3両は札幌回転とした。旭川へ1車分(と食堂サーヴィス)、釧路へ2車分、札幌へは6車分の輸送力増強であった。なお、この新製が同系列の最終増備となり、ベネシャンブラインドを試行したキシ8037はこれによる製作である。

これの10両組成化は1972年10月改正からのことで、同改正にて485系電車に置替られた羽越線/常磐線特急<いなほ><ひたち>運用からの捻出によっていた。(秋田から向日町での車両差替を含み4両が函館に転入)

北海道連絡のメインである"1"系統の列車であり乗車効率は高かったのだが、<おおぞら>に知名度で劣るせいか、最混雑期でも最初から<北海>を指名しておけば特急券は比較的容易に確保出来たものだった。


<北海>は、この後も1981年10月改正まで大きな変化無く運転された。1972年の夏臨期より施行の網走への延長運転については、網走 (石北本線) 1973 に書いている。


[Data] NikonF2+Nikkor35mm/F2   1/250sec@f8   Y48 filter    Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

previous    gateway    next

中湧別 (名寄本線) 1975

キハ23/45を鉄道雑誌の新車記事に見た時、そのパノラミックウィンドウを採用した前頭形状に強く惹かれた。やはり紙面に見ていた153系や111系電車のスマートなそれに比して、見慣れたキハ22やそれを高運転台化しただけのキハ27/56の気動車然とした平面顔を歯痒く思っていた身には溜飲の下がる想いだったのである。

その3扉の近郊型電車を2扉にアレンジした車体構造に両開き扉の採用にも気動車の地位向上を感じていた。同時に紹介されていた道内向けキハ24/46は、キハ22の構造を踏襲したものだったけれど、整然と並ぶ客窓が1.3メートル延長された車体長と相俟って好ましい印象を与えていた。


キハ28/58を受け継いだ機関と走り装置に目新しいものは無く、機械式気動車の淘汰も一巡した時期の新製により総数で179両に終わった地味な車両群ではあったけれど、近郊型を標榜した接客設備の車体構造に幅広の乗降扉は、そのプロトタイブとして417系電車やキハ40/47に、道内向けのそれは711系電車にオハ/オハフ50(51)にまで及び、この点においてはもっと評価されて良いだろう。その精悍で端正な前頭形状もキハ58(56)/28(27)の66年度本予算車以降に引き継がれている。


心待ちにしていた配置は、1966年12月に苗穂機関区へのキハ46の4両だった。宣伝も考慮したものか、当初にはこの形式だけでの組成にて函館/千歳線に運用されたのを思い出す。増備されるものと期待していたのだが、結局のところキハ46-6両に翌年4月のキハ24-10両に終わってしまい、道内では極めて少数派であった。特に、キハ24は函館に旭川と釧路の配置で札幌周辺で見ることは出来なかった。

キハ22の初期車とでも8年程度の経年差だったせいか、80年代の列車キロ削減やルーラル線区の廃止による気動車の余剰と云う事態に、それと運命を共にして95年度までに全廃されてしまった。


この名寄本線や石北本線に運用されていたのは、旭川機関区に配置のキハ24-2両であった。その特徴在るパノラミックウィンドウを間近に見る。

列車は、625D遠軽行き。

余談だけれど、同じくパノラミックウィンドウを採用しながらデザインに失敗しているのがキハ40と思える。それは高々運転台となったことで貫通扉窓の高さ方向寸法と位置が運転台窓と揃わない点に起因するのは明らかだ。


[Data] NikonF2+AutoNikkor50mm/F1.4   1/500sec@f8   O56 filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

 
inserted by FC2 system