走市街の西側に位置する網走湖は、それ自体には然したる特徴の無い風景が続く。地元においても観光資源としての認識は希薄と思われ、むしろ、それは周辺湿地帯の植物群落にあるようだ。

女満別以遠の石北本線は網走湖の東側を北上し、湖水に大きく迫り出した呼人半島付近では湖水線を正確にトレースするような線形を描く。

しかしながら、この区間で湖水と列車を取り込んでの撮影は、なかなかに困難だ。全区間で国道39号線が湖側を並走しているのに加え、両者を印象的にフレーミング出来る足場がほとんどないのである。

73年の再訪で、線路側に何とか取り付けそうな斜面を見いだし、苦労して登坂したものの、やはり国道のアスファルト舗装がなんとも邪魔であった。


85年頃のこと、都内で入手した観光パンフレットに、この湖面の俯瞰写真が掲載されており、仔細に見てみると湖岸に鉄道線路が確認出来た。ぜひとも、この地点に立ちたいものと、網走市の観光課や観光協会に問い合わせるも要領を得ず、最後には、ありがたいことに観光課のひとりの職員の方がご自分の休日を返上して探してくださった。

で、その結果だが、「地上ではない」らしいのだ。地上でないとは、すなわち、「ヘリからの空撮と思われる」との返答であった。

くやしいが、飛び道具は使えない。


写真は、早朝からロケハンするも良い撮影地点がみつからず、湖面をあきらめて足場優先で撮影したもの。

<大雪6号>崩れの1527列車である。

夏期繁忙期輸送に対応してオハネ12が1両増結されており、北見回転の普通車も2両に増強のはずだから、急行区間の札幌-北見間では13両の長大編成だった。隔世の感がある。


[Data] Nikon F+Nikkor5cm/F1.4     1/250-f5.6    Y48filter     NeopanSSS(ISO200)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

呼人-網走 (石北本線) 1969

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1969

previous    gateway    next

札幌 (函館本線) 1969

previous    gateway    next

明確に記憶の在る札幌駅は、駅本屋東側には国鉄バスのターミナル(バスセンターと呼んでいたと思う)とその奥に車庫が造られた頃からで、「この間まで貨物積卸場だった」とバス待ちの人に聞いた覚えが在る。車庫は札幌自動車営業所であり、後に札幌中央支所を経て取り壊され、今は創成通りに面した広い駐車場になっている。

駅前には森永キャラメルの地球儀型の広告塔が目立っていて、そして民衆駅として建てられた4代目駅本屋は増築前の4階建てであった。

北側には、まだ貨物施設の残されて、西5丁目陸橋を渡って往けば貯炭場跡の荒れ地と高架で引き込まれた北海道炭礦汽船専用線の残骸が見渡せ、駅裏の泥道の向こうにはトタン屋根の住宅街が広がっていた。もちろん、これがそのような施設であったとは後年に知ったことである。


ここは間もなく取り壊され空き地となったから、構内に在った札幌客貨車区の検修庫や客留線を間近に眺められた。札幌駅構内に現業機関としての客貨車区が置かれたのは1950年2月10日に至ってからだが、1885年の構内図には転車台に繋がる機関室とは別に汽車室なる施設が見て取れ、官営幌内鉄道の開通時より客車検査/収容設備は駅に付属して存在し続けたようだ。1937年に機関庫が苗穂に移転して施設を拡張したものだろう。1958年の資料によれば、配置74両に対して検修線-2線/客留線-3線/庫内線-2線とあり、それほどの規模ではない。函館線上には旭川に岩見沢、小樽と同規模の区所が存在して機能を分担していたのである。ただし、各線とも有効長が150から200メートル取られており、確かに子供の目には大きな区所に見えていた。

60年代の初めにはオロネ10やオロハネ10、ナハネ10にオハネ17などの軽量客車が配置され、その近代的な外観に眼を見張ったのを思い出す。それらは写真で見た九州特急に組成された車両と同じであったから、昼間に留置されていた<まりも>の札幌増結編成など、それを見るようなつもりで眺めたのだった。ただ、座席車だけは道内への配置は無く、夏季輸送用に本州の区所から貸し渡されるのを待つしかなかった。

対して、さすがに木造車はいなくなっていたけれども、オヤ31やオル31と云った17メートル鋼製車から格下げ改造車も健在で、これもかつての大陸連絡特急列車用とも聞いて興味を惹かれたものだった。


やがて、手稲駅西方に札幌運転区(現運転所)が開設されると、配置車の大半は同区に配転となった。65年9月1日のことである。スエ30と31の2両が残されたが、これとて元来苗穂支区配置でそれの廃止後も苗穂機関区に常駐していたものであった。札幌客貨車区の実車の配置は無くなったものの、他区所からの入込車に対する仕業/交番検査業務区所として86年11月1日まで存続し、同日付にて札幌貨物ターミナル駅に移転して白石運転区に組織を改正された。現在の日本貨物鉄道札幌機関区の前身である。施設自体は75年度までに撤去され、高架新駅の用地に転用された。


駅には1963年に北口が開設され、東跨線橋に繋がる長い連絡跨線橋からは客貨車区構内を見下ろせた。南側の駅本屋は、62年に一部のみ施工されていた5階部分の増築工事が65年10月10日に完成した。

写真は北口に繋がっていた東跨線橋と、凄まじい排気とともに4番線を出て往くのは401D<狩勝1号>である。

この迫力ある気動車の発車の様は、子供の頃から飽かずと眺めていた光景だった。


[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2   1/125sec@f4    NeopanSS    Y48filter    Edit by CaptureOne5 on Mac.

previous    gateway    next

植苗 (千歳線) 1969

千歳線の沼ノ端から植苗に至る区間も、これまで取り上げさせていただいた北広島や七飯と同じく、ここ数十年での撮影地を取り巻く環境の変化が著しい。

ここでは、都市化といった急激な変貌ではなく、もっと緩慢な変化が進行している。

湿原の乾燥化である。


今、この区間の車窓風景を湿原と見る人は少ないのではなかろうか。

ここを初めて訪れた66年当時は、千歳線/室蘭線の路盤以外は全てウトナイ湖につながる湿原。足を踏み入れれば水のしみ出す湿原だったのである。

忘れもしないのだけれど、そこは絶好の住処と見えて、湿原は至る所ヘビだらけなのだった。

思い出すだけでも背筋の寒くなり、そこに蒸気機関車さえやって来なければ絶対に足を踏み入れぬ場所である。

想像してほしい。軌道内で昼寝するヘビどもが列車の振動を感ずると、一斉に湿原内へと逃げ出すのだ。それをファインダー越しに見ざるを得ない有様を。

これには懲りて、以後しばらくは冬限定の撮影地にした。


湿原であるから見通しは極めて良く、冬期間であれば湿原内へと入り込むことも出来た。

千歳線と室蘭本線との交差部からの俯瞰や千歳線上り線(下り運転線)築堤の遠望は、良く知られたカットである。

いつの頃からか、まばらだった灌木が疎林となり、やがて樹林へと成長していった。樹木の生育は土壌の乾燥が条件である。

湿原の乾燥化は避け得ぬ自然のサイクルではあるが、それにしても早過ぎる。ここではウトナイ湖周辺で進められた土地開発が影響しているように思える。その意味では、これも都市化による変化と見ることも出来そうだ。


列車は1793列車。苫小牧操車場から白石までの区間貨物である。苗穂起点57K付近の踏切から撮っている。


この区間での最近の撮影は、一昨年の10月。勇払川の橋梁へ行ってみたけれど、河川敷は整地され湿原は姿を消していた。これではヘビも棲めない。


[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8   1/500sec-f5.6   Y48filter   NeopanSSS    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

previous    gateway    next

様似 (日高本線) 1969

日高本線の苫小牧から様似までの140キロ余りは奥が深く、静内までならまだしも、それ以遠へとなれば撮影チャンスから現地での宿泊を要し、なかなか撮り難い線区ではあった。

貨物列車のなくなった84年以降には、ますます足が遠のいてしまい、そのバス用部品多用の小型車体に魅力を感じなかったゆえであろうが、88年秋からのキハ130の時代には一度も撮っていないくらいだ。


それだけをターゲットにしていた蒸機の時代でも静内-様似間の区間貨物列車の設定もあって、札幌起点の日帰りでの撮影チャンスは少なかった。

それでも苫小牧操車場を5時前に出る様似行き貨物1893列車は、この区間を9時間程かけて走り、ポイントさえ上手に組み合わせれば気動車で追い抜きつつ、最大3回の撮影が可能で、これに絞った撮影に何度か出かけた。


この当時は、DISCOVER JAPANキャンペーンの前夜とはいえ、夏のシーズンにはえりも岬へと向かう「カニ族」と呼ばれた旅行者で列車は満員の状態で、様似の駅も接続の国鉄バスへの乗り継ぎ客でごった返していた。現在では想像もつかない光景である。

ここでは駅前の渡辺食堂(渡辺弁当店)調製の駅弁も売られていて、100円で購入した鮭(あきあじ)弁当の掛紙が手元に残っている。

駅前も活気があり、土産物屋の並んでいた。とは言え、様似のメインストリートは漁港に面する本町側と教えられた。


列車は、1893の牽引機が折り返しとなる1896列車。静内までの区間列車である。

この当時の日高本線の運転業務は、静内に所在の札幌鉄道管理局日高線管理所の管轄であったが、C11形機関車については同局室蘭機関区静内車両分所に8両の配置となっていた。(気動車は主にキハ21で、同局苗穂機関区苫小牧支区配置)

今、北海道旅客鉄道に所属し、観光列車や展示運転に使用のC11207も当時の静内区のメンバーであった。


写真の様似川橋梁の俯瞰は、民家裏手の斜面をよじ登ったものだったが、後年そこには道路が開削されている。

街越しに海面を望めるポイントなのに、風向のせいで煙にて隠されてしまった。なかなか上手くは行かない。


[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2  1/250sec@f11  Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

previous    gateway    next

京極 (胆振線) 1969

噴火湾岸から洞爺湖の東を北上し、真狩山(羊蹄山)を回り込むように室蘭本線と函館本線を連絡していた鉄道が存在していたとは、今では信じられない気がする。

もっとも、胆振線はこの連絡のために建設されたものでは無く、脇方鉱山の鉄鉱石の搬出を図った鐵道院による軽便線と沿線の林産資源の開発を目的としていた私設鉄道の戦時買収にて成立した線区である。資源の枯渇すれば、衰退は免れ得なかったと見るべきだろう。


この線区は往復を乗ったけれども車窓からは気に入ったポイントを見つけられず、蒸機時代に間隔を置いて二回、延べ二日間撮っただけで終わってしまった。それも函館山線撮影の「ついでに」のレヴェルである。

左右のデフレクタのステーに2灯の前照灯を乗せた倶知安機関区の9600にしても、岩内線への運用を小沢や倶知安峠で何度も撮っていたし、貨物の一往復の運転しかない胆振線行きは効率の面からも躊躇していたのである。


最初の訪問が、この1969年の冬で、区間列車もあって入り易かった京極まで出向いた。そこにポイントの当てが在った訳でなく、上りの<ニセコ>を見送った後に転戦可能な範囲からの選択に過ぎない。


写真は、京極の北岡方に外れた畑作地らしき地点(積雪の下で分からぬのだ)からのカットである。真狩山を画角に捉えたいところだが、午後から悪化した天候で中腹まで雲に覆われてしまっていた。

列車は、1890列車東室蘭操車場行き。山麓の傾斜地だけに場内直前まで力行している。この列車、京極に約1時間停車するゆえ南京極方に移動してカットを稼げるところなのだが、冬至も近いこの時期に在っては、それは日没間際となってしまうのだった。


倶知安機関区によるこの仕業は、伊達紋別から室蘭本線を東室蘭操車場まで直通しており、その区間で見られる唯一の9600であった。


[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8   1/250sec-f5.6    Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

臼谷 (羽幌線) 1969

内地に出て来て、ここでの海水浴と道内のそれとは「お作法」がだいぶ異なるのに気がつかされた。

湘南とか房総半島の浜で、テントを見ることはまず無い。ジンギスカンでなくともバーナーを持ち込んで料理する人々もいない。第一、焚き火なんてあり得ない。それは、例え夏場の海浜で行ったとしても、ここでは「キャンプ」の範疇、今時なら「アウトドア」行動に区分され、決してそれを「海水浴に往く」とは言わない。

各地の海水浴事情の見聞を多とするでないので、これは首都圏に限ったことかも知れず、青森県西海岸の五能線沿線ではテントを見かけたし、福岡市在住の友人は「海水浴にはバーベキュー」と言っていた。

道内の「海水浴」スタイルは、海の家や更衣室/シャワーなどが整備されない時代の、それの名残なのだろうか。


札幌周辺からの海水浴場といえば、近年では「あそびーち石狩浜」や「おたるドリームビーチ」が人気と聞くが、かつては銭函や張碓、蘭島と相場が決まっていた。旭川からであれば、瀬越や臼谷/小平/鬼鹿の海岸と言うことになる。

国鉄もシーズンには、これら海水浴場最寄り駅への臨時列車を運行していたのである。

旭川からの運転は、代々「かもめ号」の愛称を付与された快速列車で、羽幌線の羽幌までの設定であった。滝川-旭川間の電化まではヘッドマークを掲げた旭川機関区のC55が留萌まで直通で牽引していたが、以降は深川から深川機関区もしくは同区留萌支区のD51ないし9600となっていた。客車は旭川客貨車区の予備車と思われる8〜12両で、羽幌線各駅の有効長の関係から留萌での解結があったと記憶する。


写真は、臼谷付近での<かもめ号>。この日はD61の運用との事前情報を得ていたのだが、それは留萌までのことだったらしく、ファインダに現れた9600に動揺した覚えがある。


[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2   1/250sec-f5.6   NeopanSS     Y48filter     Edit by CaptureOne5 on Mac.

previous    gateway    next

previous    gateway    next

白老 (室蘭本線) 1969

東日本旅客鉃道では、観光用の巡航列車向けながらHB-E300系列として実用化の域に到達した電気併用のハイブリッド動力式内燃動車であるが、モータアシスト方式と呼称するパラレル方式の一種を採用した北海道旅客鉄道のそれは、2007年に開発成功の発表のあったものの、実用化への動きは滞っている。

言うなれば、電気式内燃車に蓄電池を追加しただけの東日本会社のシリーズ方式ハイブリッド駆動に対して、軽量化とエネルギー効率で遥かに優るけれど、機構/制御の複雑化するパラレル方式にあっては技術開発のみならず投資効率など実用化への壁のあるのであろうか。


その開発当初には札沼線への投入を想定し、次世代の特急形気動車をも視野とするアナウンスがなされていただけに、2009年の同線の電化計画公表は唐突に感じられた。

寒冷地における冬期間の電車線路設備への保守を考慮すれば、それの設備されぬに越したことは無く、同線への投入計画は理に叶っていたからである。

周辺線区が全て電化線であり、動力統一化にもメリットは存在し、国の定めた鉄道整備助成制度の利用も可能となっての選択であろうが、東日本旅客鉃道が将来の抜本的運転経費低減策として駅間の電車線路設備の省略を可能とする蓄電池式電気車両の実証試験をも行う中にあっては、やや違和感を覚えたのだった。


北海道旅客鉄道は当該工事の完成した2012年10月ダイヤ改正において、札沼線の全面電車化にて捻出のキハ143を室蘭本線の苫小牧-室蘭間に転用し、同区間にある普通列車の電車運用を代替とした。これにて、この区間の電化設備は、5往復設定の特急<すずらん>が専用することになった。

その開業時期が鉄道輸送、主には貨物輸送の衰退期にあたってしまい、また産業構造の変化による室蘭地域の経済的縮小もあって十分に活用されぬままの電化設備なのだが、ここに極まれりの感が在る。

北海道旅客鉄道は、近い将来にこの区間の電化設備の廃止/内燃動力化を提案するのではなかろうか。5往復の特急電車だけならば架空電車線の更新頻度は極端に低下するに違いないが、ここでは冬期間の電車線路設備への保守問題どころでなく、その設備自体の維持/更新が問われるゆえである。

室蘭市をはじめ沿線自治体からは当然に反発のあるだろうが、気動車特急にて十二分に代替可能であり、それの東室蘭での<北斗>系統への分併による増発などで手が打たれるのではないか。なにより、ここでの電車列車は電車線路による速度制限を受け、それは軌道設備により130km/hを許容される気動車列車より抑えられるのである。(同様の事例は常磐線のいわき-岩沼間にも見られる)


写真は、非電化時代の白老を発車した223列車岩見沢行き。

鉄道屋とすれば、電化設備の廃止は歓迎すべきかも知れぬが、架線は撤去されても電化柱の片側は通信線柱として残り、もう一方もすぐに抜去されるでなかろうから、このようなすっきりした構内風景が戻る訳では無い。むしろ吊架設備のみが永く残り撮影には不適となる可能性が高い。


[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2   1/250sec@f4    NeopanSS    Y48filter     Edit by CaptureOne5 on Mac.

(函館本線) 1969

防波壁に遮られて本屋側から直接に海面を見ることのないせいか、ついそれを忘れてしまうのだが、ここは海浜に接した駅である。

そして、かつては海陸の連絡駅でもあったのである。


札幌への開拓使庁の設置が決まると、そこへの連絡路として、それまでの徒歩交通路に代えて砂利敷による洋式の長距離馬車道、即ち「道路」の建設が計画された。「札幌本道」である。これは、箱館出張所-森村間/室蘭トキカラモイ-札幌本庁間に道路を切り開き、この間を噴火湾上の海路で連絡するものであった。

これにより、1872年に函館から森までの道路の通じた際、現在の森駅構内函館方付近に桟橋が設けられ、室蘭までの定期航路が開かれたのだった。

この航路は、後に函館-室蘭間となって一旦廃されるのだが、ここへの鉄道開通(1903年6月28日)後の1904年に再開される(1908年との記述もある)。これは、構内に取り込まれた旧桟橋を利用した実質的な鉄道連絡船とも云え、未開通であった長万部-室蘭間鉄道を代替するものであった。この際には、桟橋は改築され、本屋側からの連絡通路と待合室も置かれたと云う。航路は、同区間の長輪線の全通する1928年まで存続した。

函館-室蘭間の航路も存在しただろうが、恵山岬を回ることになり、この間を鉄道利用が速達であるから需要の在ったものと思われる。


民間の経営ゆえ国鉄部内に記録は残らず、室蘭市史や森町史の記述に頼るのみで、詳細の不明である。しかしながら、研究者は必ずおいでのはずで論文も既出と思われるのだが、探索し得なかった。

現在、そこには海面への突起として桟橋の遺構が見られる。


1キロ程下り方の海沿い区間は、ここでの定番撮影ポイントである。下り列車ならば海面を左に市街地越しに駒ヶ岳を遠望する画角が得られるけれど、上りにはそうも往かない。

島崎川の橋梁から、一面に昆布の干されたその小さな砂州に降りると島崎稲荷神社のこんもりとした森が見えた。

この区間が単線運転の頃である。


列車は、154列車。桑園始発の冷蔵車主体の組成列車であった。これが70年10月改正にてそれの専用化されて1354列車となる。→八雲 (函館本線) 1971


島崎神社の鎮守の森は今でも変わらない。


[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8   1/250sec@f4    NeopanSS    Y48filter    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

previous    gateway    next

 
inserted by FC2 system