瀬棚線には、茶屋川-美利河-花石と響きの奇麗な駅名が並ぶ。

そして、ここは美利河をサミットとする渡島半島の低い分水嶺越えの区間でもある。

本線の大型蒸機を差し置いての瀬棚線は、この駅名に誘われてのことだ。


実際に、山間の小さな盆地を思わせる美利河と花石の間は美しいところで、蛇行する後志利別川を二度渡る(橋梁名は第一第二の渡島利別川橋梁)花石寄りも気持ちの良い風景だったし、R300やR400曲線の連続する美利河近くの、道南らしい落葉樹の山越えも捨て難かった。

美利河の赤い三角屋根の小さな駅舎も、多分に駅名を意識して建替えたのであろうが、好ましく思えたもの。この当時は簡易委託駅で、駅舎内に乗車券の販売所が設けられていた。

当然貨物扱いなど無い、乗降場も一面のみの棒線駅にもかかわらず、この頃二往復設定されていた貨物列車の内の下り1本が10数分間停車するダイヤだった。この列車、次駅の花石で上り旅客列車との交換になるのだが、列車運行図表を読む限り花石へ直行しても何の支障もないと思われ、今もって謎の停車である。


列車は、1992列車。長万部までの線内貨物である。

当時、長万部機関区には3両のC11の配置があり、瀬棚線のほか函館線の黒松内までの旅客列車の仕業も存在した。

こちらは残念ながら撮っていない。


[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.4     1/250-f5.6-8    Y48filter     NeopanSSS    Edit by CaptureOne5 on Mac.

美利河(瀬棚線) 1970

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1970

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七飯-渡島大野 (函館本線) 1970

寒冷地の撮影で手を焼いたのが、フィルムベースの硬化により生ずるプレッシャプレート(厚板)内での浮き上がりに起因する部分ボケであった。

ご経験の方も多いことと思う。

列車を待って、カメラを長時間三脚上に搭載する機会の多い鉄道屋ならなおさらだ。


アドヴァンスにしたがってパトローネから半分引き出された状態にて低温に晒されたコマでの発生確率が高いゆえ、手動巻上げのカメラでは巻き戻しハンドルでテンションをかけ、モータードライブなら前コマの露光直後にアドヴァンスしておく、あるいは本番露光直前に2コマを空送りするか、その程度しか対策はなかった。

抜本的には、ライカの一部に搭載されたエア吸着機構が最良と思えたが、何故かこれにはニコンもキャノンも熱心でなく、おそらくはパテントの問題が存在したのだろう。

ただ、これはニコンも十分に認識していたようで、発生確率の高かったF4では、希望すればパトローネ室に送りローラーを追加してもらえた。


この部分ボケは氷点に達しない環境下でも生じたけれど、マイナス10度程度ともなると巻上げ時にパーフォレイションを壊してしまうことがあった。

こうなると送りは勿論、巻き戻してもパトローネに収納不能の場合もあって、目についた民家に頼み込んでダークルーム替わりの押し入れを借りたことがある。突然玄関に現れた見知らぬ者をよくぞ押し入れまで招き入れてくれたと思う。さぞかし驚いたことだろう。

これに懲りて、以後冬期の撮影ではダークバッグを持ち歩き、何度か使った記憶がある。

モータードライブのカメラではアドヴァンスのテンションが均等にかかるせいか、この種の事故は経験しなくなった。


このサイズでは目立たないが、このカットにも左端の一部に部分ボケがある。油断したと言うことだ。

列車は、室蘭始発の函館行き240列車。既に稀少となっていたD52牽引の旅客列車であった。

40年後の現在、カーブ内側の畑作地では新幹線車両基地の建設工事が進み、渡島大野では駅部も着工された。


[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2     1/250sec@f8     Y48filter     NeopanSSS    Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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南稚内 (宗谷本線) 1970

南稚内からの宗谷本線は、R402の曲線で右に回って天北線と別れ、クマザサに覆われた宗谷丘陵に分け入って往く。R302の比較的大きな曲線を左右に繰り返しながら10パーミル勾配を上り、旭川起点251K096Mで海岸段丘上のサミットに達し、この付近が車窓に海上の利尻島を見る地点となる。

クマザサの低い丘陵が続く独特の景観は、度重なった火災により樹木を喪失したものと言われ、この区間に限ればそれは1911年5月15日に出火した山林火災に端を発する「明治44年稚内大火」によるらしい。

当時の報道には、この山火事の出火地点の記載はない(*)けれど、一旦鎮火したものが17日午前11時頃に再び出火し、猛烈な南風にて山林原野を焼失の後に、午後1時半に至って市街地に延焼して全てを焼き払い、午後5時に市街地北端の漁場に到達して鎮火したとある。焼失戸数は全市街の700戸あまりに及んだと言う。更喜苫内(サラキトマナイ)原野の西縁部に宗谷本線が開通するのは、それから十数年後の1924年6月25日のことであった。

(*) - 増幌原野が全焼、更喜苫内原野半焼との記述はある。南風に煽られたとすれば、声問方向増幌原野内から出火と読めないことも無い。


樹木を失った丘陵地帯を犬師駒内(エノシコマナイ)川の谷沿いに線路の敷設されたこの区間では、見通しが効くゆえにどの丘に登っても同じようなカットが撮れそうではあったが(事実積雪期はそのとおりである)、丘陵下の湿地帯の存在とクマザサの深いことでポイントは限られていた。南稚内からそう遠くはない起点254K付近の送電線の丘、ニコニコポイントこと252K500M付近の利尻を画角に捉えられる丘、そして利尻を望むサミット付近であろうか。


写真は、宗谷湾を望めた送電線の丘からの撮影になる。ここには、その保守用と思われる草道が湿地を渡って通じており、それを伝って到達出来た。盛夏だけれど、海風の心地よさを良く覚えている。

列車は、この頃小樽行きであった324列車。機関車は深いキャブの屋根形状から流線型として新製のC5530と知れる。

この頃まではカラーネガをモノクロと併用していた。


現在でも右端の稚内高校は変わらないけれど、その周辺からこのポイント背後に新市街地が形成され、列車位置の後方付近には跨線道路橋が架けられている。この時代からは想像もつかない。


[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F2     1/250sec-f5.6    Non filter Kodak     unknown film(ISO100)     Edit by PhotoshopCS3 &LR3 on Mac.

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常紋信号場 (石北本線) 1970

1970年の国鉄北海道総局の資料によれば、石北本線遠軽-北見間の牽引定数は、D51形蒸機にて59とある。すなわち、それの1台運転で590トンの輸送を行っていたのである。ただし、標準勾配が25パーミルとなる生田原-金華間には補機を要し、ご承知の通り、これには遠軽機関区の9600形が充てられていた。


これのDE10への置替え直前となる、この年の10月改正ダイヤを見ると、補機の連結区間は生田原-留辺蘂間が基本であるが、入出区を兼ねた遠軽解結があり、解放はほとんどが常紋信号場とされている。

ここでの補機は後機を定位にしており、場内で上下本線に三カ所の渡り線を持つ常紋信号場の配線はこれに対応したものであろう。しかし、実際には常紋での着発線の使用順や交換列車の有無、生田原/留辺蘂での待機時間などダイヤ設定上の事由により前補機も多々見られたのであった。

また、もちろん各停車場有効長に収まる範囲内であるが、定数を越える輸送には遠軽-北見全区間でのD51機重連運転があり、この際には補機は省略されていた。

既に貨車組成のほとんど無くなっていた混合列車での補機使用は所定ダイヤには無く、旅客列車でのそれは深夜/早朝に通過する急行<大雪>に限られた。


ここへは、1967年夏以来二度目の訪問であったが、前回とは桁違いの撮影者に驚いた記憶が在る。下り<大雪>を生田原で下車したのは全てが鉄道屋であり、駅寝組を加えれば20人を越えていたと思う。この数年で、世に言うSLブームはピークへと駆け上り始めていた訳である。


写真は、金華方へ下った新旭川起点149K400M前後のR302曲線の連続するあたりでの撮影になる。もちろん、列車の接近したカットも撮影しているのだが、ほとんど無風の条件下では排煙が谷間を埋めてしまい、後補機が隠されてしまうのだった。

この頃までの金華方の沿線は原生林に覆われており、現在の開放的なイメージとはかなり異なっていた。それは、1980年代以降の伐採の結果である。

列車は、2574列車。北見から旭川への線内貨物列車である。この日は、補機が要らない程に財源がない。


[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2     1/250sec@f8     Y48filter     NeopanSSS     Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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社台 (室蘭本線) 1970

社台ファームである。

ここの吉田一族に依る経営は些か複雑なのだが、1928年創業の社台牧場から、この当時は千葉県富里の千葉社台牧場社台支場を経て、千葉県に本部を置く社台グループの「社台ファーム白老」となっていた。だから、ここでの社台は地名ではなく会社組織名としての「社台」であったけれど、地元一般には引き続き白老町社台に所在の社台ファームと認識されていたと思われる。

この頃の観光ガイドブックにも「社台ファーム」とのみ紹介され、続く「白老」は落ちていた。そう、ここはサラブレッドを産する「観光地」でもあり、蒸機撮影においても放牧されるそれとを画角に収められる定番撮影地であった。国道36号線側から樽前山を背景にするのは今も変わらない。


ところが、夏のはじまりのこの胆振東部地域の天候は不安定で、札幌から遠くも無いこともあって幾度か通ったけれど、霧や小雨に巻かれることの多かったと記憶する。この日も好天の札幌から苫小牧に出ると小雨模様で、層雲の底辺が地上に接するかのように視界を遮っていた。

それでも、霧は背景に入り込む牧場の雑多な建物を隠してもくれ、列車がシルエットに浮かぶことも分かって昼過ぎまでをここで過ごしたのだった。濡れそぼった馬は、それを気にするでなく草を食むのに懸命で、そうタイミング良く首を上げてはくれないのだった。


写真は、社台ファームの直中、起点117キロ付近での224列車長万部行き。牽引は勿論C57である。

この区間、平坦な直線区間ながら速度の出せることも在って白老接近まで力行していた。C57は最高運転速度に近く、急客機の片鱗を見せてくれる。


[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2     1/500sec-f5.6    Y48filter     NeopanSSS     Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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室蘭 (室蘭本線) 1970

留萠の、かつての広大な構内の大半が、しかも必然的に現駅施設に隣接したパークゴルフ場と化している姿には衝撃を覚えるのだが、ここ室蘭も同様である。入江運動公園の広さには驚く。それは、そこに置かれていた石炭積出施設を含む駅構内の一部に過ぎないのだけれど、その広大さを十分に示している。

両駅とも石炭の積出港としての海陸連絡駅であり、機関区などの運転区所も伴った拠点駅だったことも共通している。炭山の衰退と輸送構造の変化が命運を決めたと云って良い。


ここでは、貨物施設の全撤去後に区画整理を施行し、既存市街地のやや西側に寄っていた旅客施設を移設している。1997年10月1日のことで、かつての室蘭機関区付近の貨物着発線の跡地である。

1892年に室蘭として現東室蘭(但し位置は異なり、現輪西付近である)まで達していた北海道炭礦鉄道線は、馬車への積替えを要していたエトスケレップ仮桟橋までの輸送を直接荷役とすべく、1897年7月1日に延長線を開業し、桟橋へは現御崎付近からの分岐として、仏坂トンネルを穿って市街地の形成されつつ在った仏坂下に旅客乗降場を設け、ここを新たに室蘭と名乗らせた。

今、室蘭観光協会に寄贈されて残る3代目の室蘭駅舎への移転/移設は1912年のことで、ここの構内に隣接しての石炭高架桟橋の運用開始とそれにともなう構内の拡充整備の要請により、旅客設備がその最も奥に追いやられた結果であった。

1997年の再移転は、やや北側にズレるものの2代目室蘭駅とほぼ同位置に再び乗降場が置かれることになり、石炭輸送の盛衰の丁度100年を経ての先祖帰りである。


旅客乗降施設が海岸町の3代目駅舎の当時の旅客運転線の配線には不可解なところがあった。上り線から場内下り本線(2番線)への渡り線は、機関区横にまで至らぬ内の乗降場の遥か手前の位置に設置されており、そこへの到着列車は延々と下り本線を走り、まるで本線逆行のように見えたものだった。場内上り本線(1番線)から下り線へ進出する渡り線は、乗降場を出て直ぐのところにあったから、この両渡り線間の場内上り本線には、1番線へ到着する上り列車しか運転しないのであった。バランスを欠く配線と云う気がするが、貨物着発線への分岐が関係しているものと思われた。


写真は、室蘭駅下り本線から下り線への直進ルートで出発する229列車岩見沢行き。

ここは、終端駅なのだけれど、配線は西室蘭へと続く中間駅の類型に属し、しかも上り下り本線とも明確な機回シ線を持っていなかった。その都度、機関区との出入庫を前提とした線路の引き回しなのである。それでも、機回シの上で折返す列車も設定されていて、それは機関区通路線の使える1番線に着発させていた。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2     1/250sec-f5.6    Y48filter     NeopanSSS    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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(函館本線) 1970

噴火湾は、その魚種の多いことで知られるが、北海道水産研究本部によれば商業漁業の中心魚種はスケトウダラにサケ、アカガレイである。けれど、遅くとも戦後の早い時期までには、ニシンとイワシそしてマイカにこれらを上回る漁獲があった。

特に、ニシンとマイカは豊漁の続いて、戦前の加工に保存技術の未発達の時代には廃棄処分も生じていたと云う。

日中戦争にともなう食料統制の発動されていた1941年に、このマイカを用いて商品化されたのが「いかめし」の始まりである。


森駅にて阿倍旅館(現阿倍商店)が構内営業を始めたのは、1903年6月の開駅とほぼ同時と記録されるようだ。(翌1904年とする資料もある)

以来、一世紀を越える盛業は偏に「いかめし」の存在に負うところだろう。当時の当主阿倍恵三郎氏が、有り余るマイカの利用と統制品のコメの節約を考案したものである。発売間もなくここを通る乗客に評判となり、沿線名物として定着したのだった。

ところが、戦後に噴火湾のマイカ資源は枯渇する。1980年代以降に復元傾向にあるが、まだ年度毎の漁獲高に大きな差異があって安定しない。資源回復には至っていないと云うことである。

今、阿倍商店では主にニュージーランド近海産の輸入モノに頼らざるを得ないとのことだ。

かつての噴火湾産に比すれば、やや大型につき一箱二個入りが多い由である。

手元に残るこれの掛け紙の内、もっとも古いのは1963年6月11日の調製印があって、おそらくは父親の出張の土産であったろう。経木から滲み出た煮汁の跡の残るそれは、現在と変わらぬデザインで価格は80円とある。


この頃、森から八雲方面への海岸では昆布の天日干しの光景が各所に見られた。沿岸の浅海の至る所でそれの採取出来たと云うことだろう。その生育周期から3年ごとの豊漁と云われており、八雲町のデータだけれど1970年は前後年を上回る250トンの生産で確かに豊漁年に当たっていた。

写真は、昆布の一面に広げられた島崎川河口の砂州を越え森駅構内に進入する4280列車、東室蘭操車場から五稜郭操車場へ直行していた貨物列車である。

五稜郭区のD52は重量貨物列車に充てられており、藤城線の10バーミル勾配を含む五稜郭-長万部間の牽引定数は、下りがD51の900tに対して1000t、上りは同1000tに対し1100tであった。(ちなみにDD51内燃機関車はD51と同等である)


[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2     1/250sec@f8     Y48filter     NeopanSSS     Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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浜小清水 (釧網本線) 1970

夏の太陽は知床から昇ることを、この時初めて知った。

札幌から斜里まで直通していた臨時急行<大雪52号>(網走-斜里間は普通列車)を浜小清水に降りた時のことである。北緯44度の北辺ゆえ8時近い時刻でも低い高度になおさらの感があった。


この駅は、1925年11月10日に網走本線の北浜から斜里までの延長に際し、その途中駅として古樋の駅名にて開業している。この区間は、北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)の第二条に規定の「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」の一部として、当時に根室本線の別保信号所(現東釧路)で分岐して建設中であった釧網線と結んで横断線とすることが計画されており、その経由地を巡って斜里村と1919年にそこから分村した小清水村が争った経緯が在る。結局のところ、それは斜里経由とされて小清水村内を通過はしたものの中心市街地を遥かに離れた海岸部の通過となり、そこに開駅したのが、この古樋と止別なのだった。

本村の意地が優ったと云うことなのかも知れないが、現在の斜里回りはそこへ大きく迂回する線形となっており、鉄道側の当初計画は建設距離も短い小清水経由での札鶴(現札弦)到達であったろう。

これに対して、小清水へは1960年6月3日に北見鉄道が止別から開通するが僅か9年の短命に終わり、1941年に北海道製糖が甜菜輸送を主目的に敷設した古樋-小清水-水上間の小清水軌道も1952年には道路輸送への転換にて廃止されている。

けれど、その後もここは急行列車の停まる小清水町の入口であり、駅前に農業倉庫の建ち並ぶ農産物の積出駅だったことに違いは無く、その側線は貨車で埋められていたのである。この頃にホームで撮ったスナップには原生花園から回遊したカニ族達の姿も多く見て取れる。


「道の駅」なる言葉が聞かれ始めた頃、それを高速都市間バスの停留所の名称と思っていた。「駅」と聞いて、交通機関の発着点を思い浮かべるのは鉄道屋とすれば当然である。

今、浜小清水はその「駅」を名乗る物産販売所に呑み込まれた異様な光景となっている。本家としては何と肩身の狭いことであろうか。


<大雪52号>の到着から632列車までは20分あまりしか無い。網走方の構内外れまで急いで振り返れば、低い太陽光を吸い込むような爽快な青空があった。


[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2   1/125sec@f8    Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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山越-八雲 (函館本線) 1970

この区間の線増は、1965年度を初年度とした「第三次長期計画」にて予算化され、1969年9月26日に複線の使用を開始している。

全区間が海側への腹付け線増であり、その工事で特段に困難で事象は無い。敢えて記せば、函館桟橋起点79K500M付近で平面交差していた国道5号線を、その際に立体交差としている。当時に国道の改良を進めていた建設省函館開発建設部と連動したものである。

平面交差部に隣接した熱田川橋梁を複線路盤のコンクリート橋とし、これに接して上流側に小型のコンクリートケーソンを連続して水路となし、その上部に跨線橋に至る盛土を構築した。


函館本線の森-八雲間での災害は、過去には石倉から野田生に至る区間で生じていた。主には波浪による護岸決壊に、長雨による海岸段丘崖の法面崩落であり、多々不通の記録が在る。近年においては土木技術や管理体制の進展もあってか88年以来発生を見ていない。

代わっては、予想せぬ豪雨による中小河川の計画水量を上回る流下にて運転を抑止する事例が多発するようになっている。それらの計画・設計時と気候が変動しているのだろうか。

野田生手前の野田追川橋梁は、水流による橋台洗掘も生じたと聞く。


この熱田川の国道盛土下の水路も計画を上回る水量に溢水を引き起こし、その急流が函館本線の道床を流失させる事態となっている。道床自体は絶対的に路盤固定される構造物ではなく、これを防止するにはコンクリート道床化が考えられるも、線路を越える水流には運転抑止を避け得ない。現実的には水路の拡張と流路の改修を要して、鉄道側で対処出来るものではなく、函館開発建設部八雲道路事務所ならびに八雲町に早急な行動を望むしか無い。


架設まもない八雲跨線橋からは、遠く山越跨線橋までを見通せたものの、手前を横切る送電線がうるさく、下り方は国道沿いに建物の続いてあまり良いポイントではなかった。それでも、高い位置の取れないこの区間では貴重でもあったのだけれど、近年には例によって背丈を超えるフェンスが設置されてしまい撮影は困難となった。

写真は、4081列車の白石行き。コキ5500を連ねた青函航送の急行貨物列車である。


[Data] NikonFphotomicTN+AutoNikkor135mm/F2.8   1/250sec@f8   Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopLR4on Mac.

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札幌 (函館本線) 1970

1988年11月3日の札幌駅の高架化(第一次開業)に際して、札幌-苗穂間の函館本線は複々線となり、苗穂-白石間の函館本線・千歳線の並列複線と接続して札幌からの両線列車の分離運転が実現した。けれど、札幌に在住当時の1960年代始めに意識してそれを数えた頃も、苗穂までの線路は4線だったのである。函館本線の上下列車は内側の2線を運転し、外側の線路には時々貨車の走るのを覚えている。


札幌から当時の苗穂村方に鉄道の開通したのは、云うまでもなく1882年6月25日の官営幌内鉄道札幌-江別間仮開業による。1878年作成の『北海道札幌之図』によれば、この頃の苗穂は、豊平川の本流が旧雁来川に転流した残滓である伏籠川が曲流しており、札幌の北側市街地は東2丁目(当時には雨竜通り)までが区画割りされたのみで、監獄支署の向こう側には原野の広がるばかりの隔絶された地であり、幌内鉄道の次駅は白石のフラグステーションであった。

当然に単線の線路であったここには、1890年に本線北側に沿ってもう1本の線路が敷設される。苗穂に立地した札幌製糖工場への専用線である。これは1897年までに工場の操業停止により休止されてしまうのだが、その工場跡の大日本麦酒札幌工場製麦場への転用に際して1909年11月8日付にて、その専用線として復活する。

専用線延長の0.66キロは、この旧札幌製糖専用線の工場内引込部と思われ、この事実は1906年の北海道炭礦鉄道(旧幌内鉄道)の国有化を経た鉄道院は旧専用線の本線並行部を札幌駅の構内側線として自己財産化したことを示している。おそらくは、1908年に豊平川に接した位置に置かれた陸軍秣本廠札幌派出所(現陸上自衛隊第11旅団苗穂分屯地)への線路引込みを要求され、合わせて同年12月8日に大日本麦酒工場東側に開設の北海道鉄道管理局札幌工場(後の国鉄苗穂工場)への出入場線としての利用を目論んだものであろう。

一方で、北海道炭礦鉄道線は1905年8月1日には小樽(現南小樽)にて(初代の)北海道鉄道線と結ばれて、翌年9月8日からの函館-札幌間直通列車の運転開始など運炭列車に加えての旅客列車の増加からか、国有化後に小樽-岩見沢間の複線化が計画され、1909年12月6日の札幌-野幌間使用開始により、ここは3線の線路が並ぶ区間となったのである。


この頃に、増え続ける苗穂地区の貨物需要にその物流拠点を要して、翌1910年5月16日にようやくその先に停車場が設けられ、札幌の隣駅は苗穂となった。その位置、函館桟橋起点289K180Mには前述の専用線や鉄道工場への操車上から札幌から伸びた構内側線に並列して数本の操配線は存在していたものと思われ、本線の上下線間に島式の乗降場が設置された。駅本屋の設置位置は調べ得なかった。

札幌から書いているけれど、これより苗穂駅に関わる記述を数回に分けて続ける。

(この項 苗穂 (函館本線) 1988 に続く - 参考文献はシリーズの最終記事に記載する)


地平時代の札幌は、当然ながら冬には積雪に埋もれた。高架化工事着工はまだ先のことで、札幌客貨車区も健在な頃である。

写真は札幌駅4番ホームの817D<なよろ2号>名寄行き。後部への旭川止まり編成の連結を待っている。


[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2   1/125sec@f5.6   NeopanSSS    Y48filter    Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

 
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