止別-浜小清水 (釧網本線) 1967

夜行列車の運転経路上で深夜帯に発着のある駅では、その待合室は原則24時間利用が可能だった。

すなわち、そこで一夜を過ごすことも出来た。所謂「駅ネ」である。

道内での例は、それほど多くはないが、旭川をはじめ根室線なら新得、帯広、宗谷方面では名寄に音威子府、道南の長万部、加えて函館の連絡船桟橋待合室といったところだ。

これらは深夜も営業する駅だから、寝袋の装備でもあろうものなら極上の「駅ネ」が楽しめた。もちろん、その区間に有効な乗車券なり周遊券を所持していることが条件である。


鉄道屋なので、「駅ネ」は随分とやった。

蒸機時代の昔は、幹線の小駅でも運転要員は24時間体制で詰めていたから、最終列車で到着して図々しくも「待合室に泊めてくれ」と頼み込んだりしたものだった。今思えば、図々しさにも程があろうと言うものだが、不思議なことに「機関車を撮りに来た」で大抵の場合受け入れてもらえた。彼らとしても軒先で寝られても困るところだったのだろう。

ただし、夜間は併合閉塞により棒線駅と化して無人となる駅があり、要注意だった。


「駅ネ」に慣れて来ると、今度は本来の無人駅を狙い始める。丁度、国鉄の合理化計画が進み始め、無人化駅も増えていた頃だ。灯りは無く、夏場には蚊や得体の知れない虫に悩まされたりもしたが、駅舎というシェルターはあるし、キャンプと思えば楽しいものだった。

(一度だけ、無人化後の金華に「駅ネ」したことがある。この時の「体験」は別項に改めたい)

シーズンなら同宿者の現れることもあり、突然の宴会も開かれた。自転車やバイクでの旅行者達だ。

寝袋や自炊道具を装備するなら、ツェルトも加えて手っ取り早く撮影地に泊まることも考えたが、これは「野宿」となるゆえ実行はしなかった。


「駅ネ」は何も鉄道屋だけのものでは無い。

60年代から75年ぐらいまでだったろうか、網走や稚内など観光地への拠点駅は「駅ネ」の人々で溢れかえっていたのである。これらの駅は夜間締切りだから、その軒先のみならず駅前広場すべてが「駅ネ」で埋まっていたのだった。カニ族と呼ばれた北海道愛好の旅行者達の群れだ。

現代では想像も出来ないが、当時にしても信じられない光景を見た思いがしたものだ。

こうした北海道旅行のスタイルは、その後急速に萎んでゆく。DISCOVER JAPANキャンペーンに始まる「お洒落」な旅の時代が,そこまで来ていた。


最後の「駅ネ」がいつだったのか、どうにも思い出せない。


これは、網走駅前広場にてカニ族の人々と一夜をともにした(?)後に釧網本線へ入った際のカットである。

撮影ポイントの選択が、まったくなってないと我ながら思う。

列車は、混合633列車の釧路行き。3両の客車は旅行者で満員であった。鉄道乗車が、きちんと観光手段だった時代。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F1.8     1/500sec@f8     Y48filter     NeopanSSS(ISO200)    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1967-1

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倶知安-小沢 (函館本線) 1967

60年代後半の鉄道風景として、函館山線のC62重連急行は外せないだろう。


この列車については、近年諸先輩方による回顧本の発刊が相次ぎ、ここに改めて記することは無い。

ひとつだけ付け加えさせていただけば、それらで語られた「C62が雪雲を連れて来る」に代表される、多くの「ニセコ伝説」は「本当の話し」だ。


当時在住していた札幌近郊でのC62は身近な光景で、これは初めて意識して撮影に臨んだ際のカットである。

重連区間での走りは圧倒的で、手稲辺りで眺めるそれとは、俄に同じ機関車とは信じ難いものだった。


この後、この倶知安峠はもちろん、二股、蕨岱、上目名に銀山と通うことになったものの、その度に現地で出会う同業者は爆発的に増えてゆき、それがピークに達する71年の夏前には撮影を止めてしまった。

あまりの狂乱に恐れをなした訳である。撮影地に怒号が飛び交うのは今に始まったことではない。鉄道屋の品性が問われる。


列車は68年の改正以前につき<ニセコ>ではなく、102列車<ていね>だ。

<まりも>当時から引き継ぐ食堂車マシ35を含む、本州連絡列車らしい風格のある編成だった。

札幌からの本務機に珍しくC622が入っている。倶知安峠が、まだ静かだった頃だ。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F1.4  1/250sec@f8  Y48filter  NeopanSSS   Edit by  PhotoshopCS3 on Mac.

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室蘭 (函館本線) 1967

過日の室蘭である。


現在では信じられないくらい広大な室蘭構内の着発線群である。

黒煙が立ちこめて霞んでしまっているが、画角のほぼ中央が旅客乗降場で、その脇をかすめて画角右奥へ西室蘭までの線路が伸びており、海側高架の石炭埠頭への連絡線も健在であった。

画角外になるけれど、左にはガントリークレーンを持った室蘭機関区とそれに隣接して室蘭客車区が存在していた。(留置車両の一部が見える)

立ちこめる黒煙は、その機関区からのものだ。後に旭川へ転じて宗谷線旅客に活躍したC55の30や49もここの配置だったと記憶している。


84年2月改正によるヤード系貨物輸送の全廃と、その後の石炭輸送の廃止により、この広大な設備は不要となり、一帯が再開発地区となったのはご承知のとおりである。

現在ではすっかり様相の一変してしまい、発車せんとする貨物列車の後部辺りが現在の室蘭駅本屋の位置と推定される。


その列車は1285列車。東室蘭操車場への区間貨物である。

荷は軽いはずなのだが、どうしたことか空転を起こし轟音と共に機関車は黒煙と蒸気に包まれてしまった。

NHK室蘭放送局の裏手あたりからの俯瞰である。


[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.5 1/250sec-f5.6Y48filter NeppanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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沙留 (名寄本線) 1967

沙留の上り方は、オホーツク海沿いに走る名寄本線にあって唯一、その波打ち際をトレースする区間であった。

この67年夏の初めての奥地への遠征に名寄本線を組み込んだ理由は思い出せない。オホーツクを見てみたい、程度ではなかっただろうか。

一ノ橋-上興部間の天北峠越え区間のロケハンで気に入ったポイントが見つからず、上興部に下車の後に向かったのが、五万図で当たりをつけていた沙留だった。ここには、ほんの少しだけオホーツク海に突き出した沙留岬があって、海を前景に小さな砂浜と名寄本線が望めた。


当時の名寄本線は、旅客列車こそ気動車化が完了していたが、貨物列車には名寄機関区と遠軽機関区の9600の仕業があり、名寄-紋別・遠軽間に三往復が設定されていた。どの列車もそれなりの編成長を持ち、半世紀近く前のこの時代は鉄道が物流の主役であったことを物語る。

ただ、名寄区/遠軽区ともに、構内入換にも使われた9600形には前頭部とテンダ後部の警戒塗色化(所謂ゼブラ塗り)が進行していたのが残念ではあった。


列車は、18時過ぎの弱い斜光線を行く1693列車。各駅で貨車の解結を繰り返しつつ、名寄から遠軽まで7時間余りをかけて走っていた。

北辺の静かな海岸線を想像していただけに、そこのキャンパー達の姿には少々がっかりもしたけれど、これも盛夏ゆえの光景と画角に取り込むことにした。


駅へ戻り、列車を待ちながら「HBCのテレビが映るようになったのは、ついこの間だ」と地元の人に聞き、奥地を実感したものだ。

この日は遠軽へ抜け、そこで駅寝したと記録にある。

この沙留へは後に幾度も訪れることになる。


[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.5    1/250sec.-f5.6     Y48filter NeopanSSS     Edit by CaptureOne5 on Mac.

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札幌医療大学までの区間で2012年6月1日から電車運転の開始された札沼線である。

同年10月1日からは函館本線/千歳線との直通列車も設定され、本格的に札幌圏ネットワークに組み入れられたこの線区だけれど、北海道旅客鉄道は札沼の「沼」に接続していないのを気にかけてか、1991年に「学園都市線」なる路線愛称を付与し、これに統一して使用している。命名後20余年を経過し利用者には広く受け入れられているだろうが、かつての札幌在住者としては、その現在の高架複線の続く姿を実見しても、なお違和感を禁じ得ない。関西の類似愛称線名と取り違えることも多々ある始末である。


「沼」まで繋がっていた60年代後半の札沼線は、篠路付近に団地が造成されて東篠路が開業するなど現在につながる萌芽も見えたものの、札幌市街地の外縁をトレースした後に石狩平野が尽きるまで北上するルーラル鉄道に過ぎなかった。

列車系統は、ほぼ中間の浦臼で分断されており、直通列車の設定はなかったと記憶する。同駅下り方の鶴沼-於札内間にあたる桑園起点67K000Mに札幌鉄道管理局と旭川鉄道管理局の局界があり、函館本線の並行線で全線を乗り通す乗客もないゆえの措置と解せられる。以南区間を札沼南線と通称し、以北を北線としていた。これは、全線開通前の呼称でもある。

南線列車は苗穂機関区のキハ21/22が使われ、北線側は深川機関区の機械式内燃車キハ05が深川から直通で入線していた。


札幌市街の住宅地を曲線で縫って走るのは、当時の千歳線と実は大差はなかったのだけれど、北側へこっそりと分岐して行く雰囲気が気になったのか、桑園から市街地はずれの新琴似まで乗って、同駅駅前に達していた札幌市電鉄北線で札幌に戻る「試し乗り」を何度か楽しんでいた。余談だけれど、この鉄北線も路面ディーゼル車が運行する全国的に例のない非電化線で、しかも北24条あたりから新琴似駅前までは路面が未舗装という「ローカル市電」振りだった。


写真は、未乗であった「沼」に繋がっていた区間まで遠征した際のカットである。石狩川右岸の平野を北上するだけの札沼線には田園風景ばかりが続き、これと言ったポイントは見つからず、ここも線路脇に繁茂する雑草の向こうには水田と空が広がるばかりなのだった。


列車は 8692列車、深川発の桑園行きである。深川機関区の9600形蒸機に牽かれたワムとトラによる思いのほか長い編成で現れた。

この当時、定期の貨物列車は、このほかに桑園から石狩当別間までの区間貨物の設定があり、こちらは苗穂機関区に3両配置のC11が入換え兼用で充てられていた。


今になって調べてみると、この頃の貨物扱い駅は以下の通りであった。ただし、この全てで定期的な出荷ないし到着があったかはわからない。

新琴似 篠路 石狩太美 石狩当別 石狩金沢 中小屋 石狩月形 浦臼 新十津川 雨竜 和


[Data] NikomatFT+ AutoNikkor35mm/F2     1/500sec@f8     Y52filter     NeopanSS(+1EV push)     Edit by CaptureOne5 on Mac.

碧水-北竜 (札沼線) 1967

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