‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1966

白老 (室蘭本線) 1966

130年前、この鉄道が計画された頃のこと。

北海道はどこでもそうなのだろうが、ここ一帯も果てしない原野だったに違いない。加えて、海岸線がゆえの平坦な原野がどこまでも続いていたはずだ。

依って、当時の鉄道技術者は大胆な直線で鉄路を設計した。鉄道として最も合理的かつ理想的な線形が実現出来るのだから当然のことだ。

かくて、室蘭本線は、虎杖浜手前の97K500M付近のR490曲線から早来の岩見沢方159K付近のR891曲線まで、実に62キロ近い区間を、白老の先のR1600、沼ノ端を過ぎたところのR1750を除けば全て直線という平面線形で敷設されたのである。R1600もR1750も速度制限はなく、運転上は直線と同等である。

特に、この白老と沼ノ端付近の両曲線間、28.7キロは鉄道での日本国内における最長直線区間として高名だ。もちろん、これは測量中心線上のデータであり、駅の前後やその構内には用地上の制約などに関連する曲線が存在する。

各駅の施工基面高も苫小牧までは4から6メートルを維持し、勾配も少ないことと合わせれば、極めて特異な区間であろう。


この特異な線形を生かし、石炭輸送全盛期には、石炭を満載した上り貨物列車でD51型蒸機1両による、蒸気機関車としては異例の2400t牽引が行われた。30t積石炭車で75から80両、列車長で550メートルを越える長大編成。夕張方面のヤマ線区間では下り勾配を逆手に取った、これまた特異な運転方法であった。

そして、現代では、281/283系気動車が函札間で100kmを越える表定速度を実現しているのも、この線形が寄与している。


この最長直線区間を俯瞰出来ないものかと、白老付近の丘陵地を縫う小道に分け入って撮影した。氷点下の気温ながら無風の穏やかな朝だった。

列車は長万部行きの224列車。速度の出せる区間なので、白老が近いにもかかわらず力行している。後方に漂う黒煙は、この列車の社台発車時のもの。

数年後、同じ地点に立つべく再訪したが、樹木が成長し、それは叶わなかった。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F3.5   1/500sec.-f5.6   Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

新冠 (日高本線) 1966

「観光」と言うものをしないものだから調べてみて初めて知ったのだが、新冠町管内に所在する判官館岬後背の標高50から60メートル程の丘陵の上部一帯は、町により『判官館森林公園』として整備され、現在では岬の岩盤に穿たれた日高本線の判官館トンネル(l=64M)の直上付近まで遊歩道が通じている様子である。

そう言えば、そこに展望台らしきものの写り込んだカットを何処かで目にした記憶もある。Web上にて、ここからの俯瞰カットを検索してみると、果たして新冠市街地と海面を背景に駅から新冠川橋梁に至る区間を遠望するものが見つかった。岬を海岸線に沿って迂回する節婦方は、あまりに直下を通過していて見通しは一部に限られるよう見受けられる。


写真は札幌から日帰りで1893列車を気動車列車で追掛けながら撮った際のものである。苫小牧操車場を早朝に出ていた同列車を富川で追抜いて新冠へ先行し、新冠川橋梁(232M)上を小走りで戻り、新冠古川橋梁(74M)に至って撮影している。判官館岬を背景とする定番のポイントである。

実は、この後の訪問で岬上部への獣道のごとき小道を見つけてはいたのだが、その直登に近いルートと上部に生い茂るように見えた熊笹と樹木に登坂を躊躇していたのである。Webでの写真を見ると、白煙の上がる秋冬期ならば印象的なカットも押さえられたと思われ、些か悔やむ。


この当時の新冠は、早い時期に撤去されてしまった上り本線も健在で、下り本線外側には貨物側線も通じて木材の積載が行われていたと記憶する。もちろん職員が詰め、閉塞器の電鍵の音が響く駅であった。駅前の大きな新冠町農協の建物は当時から在った。


この日は、後続の気動車にて静内で追いつき、構内入換と出発を撮影の後に、浦河で再度追い越して鵜苫-西様似間でも撮り、さらに機関車の折返しの運用となる1896列車を絵笛で迎えて撮影を終えている。

貨物扱いで停車時間が長く、かつ今よりも普通列車の設定が多い故に実現可能な「追っかけ」だったのである。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2   1/250sec@f8   Y48filter    NeopanSS     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1966

初めて一眼レフカメラを手にした1966年には、師匠である親父の手ほどきを受けながら見よう見まねで、フィルムの現像処理に暗室でのプリント作業も始めていた。後に知るところでは、当時に現像ラボも存在していたようなのだが、自家処理が一般的な時代である。

その作業は、写真店や薬局にてフィルムなり印画紙の製造元による処方に指定の薬品を買い集めることから始まる。コダック社のフィルム用微粒子現像液D-76処方ならば、主薬としてのメトールにハイドロキノン、それに無水亜硫酸ソーダと硼砂である。停止液には氷酢酸、硬膜定着液にはハイポに硼酸/明礬も必要とした。

これらをハトロン紙を載せた天秤秤に掛けて、分銅を置きながら正確に量り、液温を保ちながら処方どおりの順番で溶解して薬液を作るのは、面倒でも楽しい作業ではあった。


フィルムをパターソンタンクのリールに巻き取るのは、夜に灯りを消した部屋の押し入れである。現像液の注入に泡取り、そして連続撹拌から迅速な排出と停止液の迅速注入、さらに定着へと続く処理工程は、純粋な化学反応であるから液温と時間を正確に管理さえすれば失敗のしようも無く思えたのだが、現実には撹拌時のパーフォレイションによる流速の違いでムラを生じさせたり、液温管理も当時の夏には難しく粒子を荒らしたりの失敗を繰返したものである。

ただ、水洗は確実にせよ、との言いつけを守ったせいか、この初期の自家処理フィルムでも残留ハイポによる変色もなく、40余年を経た現在でも健全なネガである。


プリントの暗室も多くの家庭処理がそうだったように、これも押し入れである。ここでは決して潤沢に揃っていた訳では無い印画紙の号数と得たいコントラストでの露光時間をノウハウとして得るまでには、随分と試行錯誤したものである。それでも、現像液のバットで印画紙に絵の浮かぶ瞬間の緊張と快感は他では得られないだろう。写真にのめり込んだ理由のひとつでは在る。

それから30年間、薬液は既製薬に代わり、タンクもマスコタンクに移行しながらも基本的には同じ手順の作業を続け、ノウハウにデータも豊富に持っていたけれど、撤退して15年にもなる。幸いにして銀塩写真は今も存在して、当時の道具/用具に機材も揃っているから再開したい気もするのだけれど、当時に苦労したプリント時の処理がデータ上ならばいとも簡単に実現してしまうのを知れば、心中は複雑である。


写真は、勇払原野を北上する227列車岩見沢行き。

千歳線の下り線(上り列車運転線)が室蘭本線と交差する、当時に定番の位置からの画角である。鉄道誌の蒸機記事には必ず取り上げられ、この初めての訪問でも千歳線の植苗に下車して、まずは目指したのがここである。ここには「そこいら中ヘビ」の記憶が鮮明に残っている。線路に沿う小道を往けば、そこを横切る姿を遠目に何度も目撃し、線路際を歩けば茶色いのや緑色のそれが蜷局を巻いて待ち構える始末なのである。恐ろしいところに降りてしまったものだ、と怯えつつ、彼らを回避しながら辿り着くポイントであった。

今は湿原乾燥化の進行にともない、そこにはハンノキやらミズナラ、カシワなどの樹木が生育して様相の一変しているのだが、この頃なら一面のヨシ群落の広がり千歳線上り線の築堤や、その向こうにウトナイ湖の湖面も望め、原野/湿原の只中の直線区間を飛ばして来るC57の旅客列車を楽しめた。特に下り列車は、遠浅手前にある緩い勾配に備えて力行するのが魅力であった。黒煙にドレーンは機関士のサーヴィスである。


このネガの現像は液温/時間管理ともに失敗して粒子ばかりか鮮鋭度も失っている。敢えてデータでも補正していない。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor135mm/F2.8     1/500sec@f4     Y48filter     NeopanSS     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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