室蘭本線 大岸-豊浦間の線増と豊住信号場
 

現在、この区間の実キロは6K866Mである。かつての8K470Mから1.6キロあまりの短縮は、噴火湾に押し出された山塊を避けて内陸に迂回していた線形を、線路増設に際して短絡する別線にて施工したゆえである。営業キロ程の8.4キロは改訂されていない。


旧線

1928年9月10日に鉄道省が長輪線としてこの区間を開業した当時の停車場名は、小鉾岸(現大岸)に辨辺(現豊浦)であった。

線路は小鉾岸から高度を上げながら豊泉川流域の山腹を内陸に迂回、弁辺トンネル(旧-開通時は辨邊)を穿って再び湾岸に出ていた。R300から400の曲線が11箇所、弁辺トンネル内を頂点とする10パーミル勾配が連続しており、運転上の隘路をなしていた。


豊住信号場

1944年10月1日、大岸から3.2キロ、豊浦へ5.2キロの10パーミル勾配上の地点に戦時下の陸運転換施策により豊住信号場が設置された。ここには、伊達紋別保線区の豊泉線路班の置かれていて、職員家族の便を図り一部列車が停車していたものと思われる。位置上下の行き違い線に、1200t列車運転に対応して大岸方海側に出発補助線を有していたが、勾配は国有鉄道建設規程の認めるところであり、所謂「戦時形信号場」には当たらない。出発補助線の位置から場内は右側通行であっただろう。

敗戦により不要施設化し1949年9月15日に廃止されるも、同日付で仮乗降場が設置とあり、引続き保線区の線路班は存続したと推定する。

1960年10月1日には、列車交換設備を復活、連動閉塞にて要員が再配置され、1959年11月1日に池北線に豊住駅が開業していたこともあり、停車場名を豊泉とした。この際、信号場に復帰ではなく駅となったのは、周辺に散在した集落からもそれなりの利用実績が継続していたものだろう。

後述する別線増設線への線路変更にともない1968年5月15日に廃止された。周辺に散在した集落からの利用者への補償は、並行路線だった国鉄バス羊蹄線の礼文線の増便であったが、それも1979年11月20日の運行を以て休止された。

(追記)

ここには、以前より豊住線路班が所在し、官舎も付帯していたと思われる。確証は得られなかったが、職員家族の利便で一部列車が停車していた可能性があり、信号場での客扱いとはそれを引き継ぐものであったろう。


線路増設計画

国鉄は、喫緊の課題であった幹線輸送力の増強を主題のひとつとした、1965年度を初年度とする「第三次長期計画」にて、この区間の線増を予算化した。なお、この計画では函館/室蘭本線の森-本輪西間の多くの区間が線増対象となっていた。

工事は、前述した線形から既設線の大部分を放棄して、大岸場内から400メートル区間は海側への腹付け線増とし、小鉾岸川を渡った28K250M付近から34K414Mまでに大岸トンネル(2154M)と弁辺トンネル(新-493M)を含む3.1キロの複線線路を新設し、以後豊浦場内まで貫気別川の架橋を含んで海側への腹付け線増とするものとされた。

新旧の弁辺トンネル出口は並列するが、その位置の施工基面高は新トンネル側が4メートル程低く、それの一致する貫気別川橋梁手前の起点34K414M地点まで新線が建設され、ここでの10パーミル勾配とR302の曲線が除去されている。この工事終点から豊浦方では現下り線が在来線となり、旧線はこれに繋がっていた。今はここにブレーキングポイントが置かれ、新線の起点32K810Mを前記に読替えている。

新線は、1966年12月10日の大岸トンネル貫通により1968年5月15日に現上り線のみによる単線で開通し、弁辺トンネルからの新旧並列区間の一部で旧線路盤を切り崩して現下り線路盤への転用工事を行い、同年9月25日に複線使用を開始している。


=参考文献=

北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981

札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977

鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972

新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968

北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992

国鉄北海道自動車50年史 : 北海道自動車局 1984

 
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