戦時下の陸運転換と函館/室蘭本線の輸送力増強
 

1937年、日中戦争の開戦により、当時に備蓄の十分でない重油・ガソリン等の燃料が戦略物資となり、加えて戦線への大量の物資輸送の要求から民間船舶が徴用されるに至って、内航海運は船腹不足に陥り、その輸送力を陸上に転換する必要が生じた。 この戦時に対応した輸送施策を(広義の)「陸運転換」と呼ぶ。

この鉄道への輸送需要の激増に対して、鉄道省は1938年度を初年度とする国有鉄道の輸送力拡充4カ年計画を策定、1938年以降に新線建設を含む新規工事を中止して予算を確保し、機関車や貨車の増備、既設線への線増や停車場設備の改良に傾注した。具体的には、貨物列車の増発に対応しての操車場処理能力の増強に隘路区間の線増や信号場新設を含む列車退避設備の整備、それの列車単位の増大による停車場有効長の延長などであり、道内では五稜郭、東室蘭の両操車場の建設、古山と栗丘の信号場設置および函館-五稜郭間、石倉-野田追(現野田生)間、東室蘭-幌別間、追分-三川間の線増工事が着工されている。


続く太平洋戦争では、初期の有利な状況が1942年半ばを転機に戦況は悪化して、近海の制海権/制空権を連合軍に奪われかねない事態となり、政府は1942年10月6日の閣議にて「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」を定め、政府の生産力拡充計画における、京浜地区軍需工場の動力源としての重要物資たる石炭の北海道からの年間300万トン輸送の、その全てを陸上輸送に頼ることは至上命題となった。この事態に直面しての非常体制下緊急施策を指して「陸運転換」とする文献もある。

小樽や室蘭からの海運に代えて青函航路を介する輸送であり、 経路となった函館/室蘭本線と青函航路、本州側の東北本線/常磐線、奥羽本線/羽越本線/信越本線/上越線の各線に対して設備の増強が行われた。

東室蘭以南がほぼ単線の設備であった函館/室蘭本線ルートには、D51ないしD52形蒸機機関車-1台による1200t石炭列車運転のための勾配改良、停車場有効長延長および列車回数の増加に対応した隘路区間の線増と多くの信号場の設置が実行された。一部を除き、計画・設計に時間も無く、工事は昼夜兼行の突貫工事であった。

詳細は言及しないが、どれも日本人のタコ部屋労働ばかりでなく、半島より徴用した朝鮮人や中国人捕虜の強制労働をもともない、五稜郭の操車場や有川航送場建設には南方戦線などで捕えられた連合国側の捕虜使役もあったことを付記する。


□以下道内に陸運転換施策にて新たに設けられた各施設について概説する。


線増の計画区間

輸送力拡充4カ年計画によるものは前述のとおりである。

非常陸運体制下の京浜地区への1200t石炭列車運転に際しては、五稜郭-桔梗間、本輪西-東室蘭間の他は何れも勾配緩和を兼ねた別線建設を要する区間が選ばれ、七飯-軍川(現大沼)間、大沼-森間が対象とされた。七飯-軍川間は工事途上での敗戦により未成に終わっている。

詳細は、「函館本線 七飯-大沼間の線増」「函館本線 石倉-野田生間の改良と線増」を参照されたい。

五稜郭-桔梗間、東室蘭-幌別間については、後述の操車場への列車着発の利便から、これを抱込む配線を要しての複線化である。

別線区間以外の複線運転の開始は以下のとおりである。

函館-五稜郭(1942年12月27日)、五稜郭-桔梗(1944年9月30日)、本輪西-東室蘭(1944年10月1日) 、東室蘭-幌別(1943年7月1日)、追分-三川 (1944年7月5日)。

五稜郭操車場

陸運転換措置により増加する函館駅構内での貨車中継作業の救済のため、輸送力拡充4カ年計画にて予算化され、五稜郭停車場北方に1941年に着工して1943年4月1日より一部設備の使用を開始し、1944年11月に一日の操車規模1000車の平面型操車場として本格的に稼働した。 本線を東寄りに移設の上その西側に用地を得ての建設であり、 上記の五稜郭-桔梗間線増はその西縁に下り本線を増設しての抱込み型配線とされた。また、後述の青函航路有川桟橋の稼働に際しては、江差線・函館本線下り線を立体交差した連絡線が設けられた。当初計画より機関車の駐泊施設の設置が含まれ、それは開設に際して函館機関区の構外施設として稼働し、1944年10月11日に五稜郭機関区に改組された。

「日本国有鉄道組織規程」による独立した現業機関とは見なされず、五稜郭駅の一部であった。駅構内の拡張と位置づけられたものである。

東室蘭操車場

陸運転換の措置により、それまで既存の東室蘭駅構内設備で行っていた操車作業が限界に達すると予測され、且つ拡張の余地の無いことから、それを岩見沢方の鷲別地区に求めたものである。

これも輸送力拡充4カ年計画にて予算化され、1942年に着工して同年11月4日に一部の使用を開始し、43年7月に本線抱き込み型の平面操車施設として全面使用、44年の東室蘭既設構内の改良と合わせて完工し、その一日の操車規模は1300車であった。構内延長は1.9キロ先に1901年から存在した鷲別駅の乗降場を上下分離させるに至った。五稜郭操車場と同じく、ここも東室蘭駅の拡張と見なされた。

青函航送設備

石炭の年間300万トン輸送の完遂には、函館・青森側とも従来の2岸ずつの航送場では間に合わず、これの5航送場化が計画された。函館では港内港町地先有川地区海面92,855平方メートルの埋立に1941年4月に急遽着工して、1944年1月3日より有川1岸(1944年9月30日呼称変更-函館3岸)、同年11月17日に有川2岸(同-函館4岸)の使用を開始した。

有川3岸は工事途中、1945年7月14日の空襲により工事を中断、そのまま敗戦を迎えて未成であった。戦後にGHQの指示により工事を再開、1946年3月よりL.S.T.接岸専用岸壁に供用したものの1948年2月までに、それの運行離脱により使用停止した。それを船入澗に変更しての埠頭工事一切の完工は中断を経て戦後の1951年6月15日であった。

なお、この有川3岸は当初より貨車航送設備を持たない機帆船によるバラ積み貨物の物揚場岸壁として計画され、30t級ベルトコンベア設備での荷役を予定していた。

青森側では、1944年5月1日に既存の青森3岸に可動橋を設置して使用を開始、増設航送場は約30キロほど東方の小湊地区として築港工事を開始したが、1945年7月14日函館側での連絡船船舶および施設への空爆により工事継続の意義を失って中断して敗戦を迎えた。これも、戦後に工事を再開して1946年7月1日よりL.S.T.接岸専用岸壁として供用するも、前述のとおり1948年2月までに使用を停止し以後放棄された。

増設信号場

小沼/*東山/*森川/桂川/本石倉/鷲ノ巣/北豊津/旭浜/小幌/*鳥伏/*豊住/*北入江/伊達舟岡/陣屋町/古山/栗丘の実に16箇所が増設され、軍川-森間増設線上に新規開業した新本別/渡島沼尻と既設の仁山と姫川を合わせた20箇所が輸送力の増強に貢献した。

古山/栗丘を除いて1942年からの非常陸運体制下での開設になり、必然的に勾配区間に設置される事例も在って、 それらにも工費や工期、工法上の事情から1200t列車の機関車1台運転に対しても「国有鉄道建設規程」の許容する上限である10パーミル勾配上までであれば通常の行違い線構造が採用され、そこに停車した際の前途の運転継続に加速線と呼ばれる本線から分岐の出発補助線を要した。上記で * を付した信号場が該当する。但し、東山は通常構造スゥイッチバック式が採用された。

駒ヶ岳西麓の20パーミル区間に所在した森川は、本来であればスゥイッチバック構造とするべきだが、国有鉄道建設規程戦時特例(1944年1月25日運輸通信省令第5号)を適用して行違い線構造としたものである。既設の仁山もこの時期に同じく特例を適用して通常のスゥイッチバック構造から形態変更された。スゥイッチバックで必然的に生ずる後退運転による運転時分の延伸に起因する線路容量の低下を嫌ったもので、東山の例は地形上からやむを得ないものであった。

なお、この出発補助線の存在を以て、「戦時型信号場」とする誤解があるが、それは戦時に限らぬ設備であり、正しくは前記戦時特例に準拠した事例のみを指す。


これだけの物量、人的負担を投入して供用された設備ではあるが、その時期には戦況も相当に悪化しており、新たに投入されたD52形機関車も既存のD51形も補修部品の不足や熟練人材の戦地徴用などにより、その稼働率は極端に低下した模様で、この1200t運炭列車が計画に従いどれほど運転されたものかは疑問である。

なお、これに用いられた貨車は戦時設計になるトキ900形式無蓋貨車であった。これは走り装置を3軸構造として積載荷重を増加させながらも車長を2軸車並に抑え、定数増にともなう列車長の延長に配慮していた。駅有効長の延伸措置を必要最小限とするためである。


=参考文献=

北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981

札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977

鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972

新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968

北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992

鉄道連絡船100年の航跡 : 古川達郎 成山堂 1988

函館市史ディジタル版 函館市中央図書館 Website



 
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