函館本線 七飯-大沼間の線増
 

この区間の複線化は、渡島大野から仁山信号場を経て峠下トンネルまで連続する20パーミル勾配(標準勾配は20.8パーミルに設定)の緩和を兼ねて、下り列車運転線とした別線にて行われた。通称の藤城線である。以下に、その背景と沿革、工事について述べる。


背景

1949年に公共企業体として発足した国鉄は、アジア太平洋戦争戦時下にて疲弊した設備の復旧に務め、1955年度までには戦前の輸送力を回復するに至り、戦後の経済復興と共に伸長を続ける輸送需要に対しては1957年度から61年度を期間とする「第一次五カ年計画」を策定し、輸送力の増強を推進した。

けれど、この計画は戦時に叶わなかった老朽施設の更新や増発にかかわる可動施設(車両)への投資とそれの運用効率向上など対症療法的施策が中心であり、輸送力増強に対する抜本的対策である線増は最重要幹線の一部区間に留まっていた。道内では、再び室蘭が積出港となった重要物資としての石炭輸送に対応して室蘭本線の対象区間に単線にて残された敷生(現竹浦)-苫小牧間32.3キロの線増が進められ、1958年11月10日使用開始の敷生-萩野間を最後に室蘭から三川までの複線化が成った程度であった。(加えて、戦時下に着手され、ほとんど完成していたと思われる施設を活用して函館本線石倉-落部間の複線別線を1958年12月10日に使用開始している)

この間、国鉄の輸送量は1961年度に輸送人員で5,283,510千人、輸送トン数で206,395千トンと、1955年度の3,849,219千人・160,246千トンを100とした指数でそれぞれ137と129の伸びを示しながら、軌道延長は34,541キロが35,859キロと同様の指数にて104の増強に過ぎず、輸送需要を車両増備や列車増発にて対処した状況が見て取れる。

その結果、幹線では線路容量をほとんど利用し尽くし、信号場の設置など応急措置的対処も限界となりつつあり、それの輸送力増強は最早焦眉の課題だったのである。

この事態に国鉄は、1961年度を初年度とする「第二次五カ年計画」に全国の主要幹線1153.8キロの線路増設計画を組み込んで対応した。

道内においても、青函航路から継送の基部にあたる渡島大野-軍川の列車回数が、中間の仁山信号場を以てしても単線の限界とされる80回を越えて100回に迫りつつあったことから、桔梗-軍川(18.7キロ)の線増が決定されたものである。


前史

七飯-軍川間の線増計画はこれが初めてでは無い。戦時下の「陸運転換」政策により、立案ばかりか調査・設計を経て1944年に着工までなされ、トンネルを貫通し路盤の一部も完成しながら敗戦により放棄されたのである。

この戦前の計画は、七飯停車場構内にて分岐し、当時には畑作地の広がるばかりだった現本町地区(当時には鳴川地区)をほぼ直線で通過して藤城地区の斜面に取り付き、七飯方から第一藤城(118M)/第二藤城(340M)/第一観音(212M)/第二観音(180M)に久根別(655M)の5本トンネルを経て峠下地区上方山腹に至るもので、10パーミルの標準勾配を維持する経路選定による。

地形からは極めて自然な選定であり、ここに鉄道を開業した北海道鉄道(初代)も、当初にはこの経路を予定したのだが地元農民の鉄道忌避により断念し、やむなく木地挽山裾野斜面の仁山地区経由を選んだものと云う。(史書はこう書くが、路線の速成のため張出す尾根筋にいくつもの隧道掘削を避け、敢えて急勾配とはなるものの直線的に等高線を交わす、この経路を選んだとの見方も出来よう。ここは1901年着工、1903年の開通である)

これらトンネル群と、七飯での國道4号(大沼街道-現国道5号線)との交差部から久根別トンネル出口方までの路盤工事をほぼ終えたところで敗戦を迎えてしまい、工事は中断されたのである。トンネルについては、導抗貫通から本抗完成までの情報があって、中断時の状態ははっきりしない。

着工時点では開通の急がれたためか、既設線への接続は暫定的に峠下トンネル手前とされ、後の新峠下トンネルは含まれていない。久根別トンネル出口まで10パーミルを維持した縦断線形が、現状で新峠下トンネル手前の施工基面高が既設線と同等となる付近(桟橋起点23キロ付近)にレヴェル区間を置くのは、原設計を変更したゆえであろう。

未着工に終わった七飯からの市街地通過区間の設計の詳細は明らかに出来なかった。工期から七飯構内での分岐は単純な右分岐、路盤構造は戦争末期の資材不足から盛土構造だったと推定する。

なお、ここでも大陸そして半島から強制徴用された中国人・朝鮮人の使役があった。本稿の目的では無いので詳細を記述しないが、日本近代史の汚点であり、付記する。


新峠下トンネル

1903年6月28日の北海道鉄道(初代)による本郷(現渡島大野)から森までの延長に際して無沢峠に穿たれた峠下トンネル(737M)に、経年による変状や覆工煉瓦の剥離等を生じたため運転保安上の事由から、この区間の線増工事に先駆けて掘削されたのが新峠下トンネル(1250M)である。

これは、工事を中断した久根別トンネルからの路盤延長上に入口抗口を置き、峠下トンネル直下でこれと交差し、既設線の右側の低い位置を出口として貫通、1956年12月15日にこれへの線路変更を行った。

新線は、滝の沢トンネル近傍の起点22K800M付近で既設線より分岐、国道5号線上空を交差して新峠下トンネルに至り、軍川方では小沼岸を埋めて路盤を新設して25K754M(工事終点は25K900M)で既設線に接続とされた。それは現在のR500左回り曲線のかつての緩和曲線始点付近と思われ、これにスムースにつなげたものであろう。以後上下全列車がこれを運転し峠下トンネル通過の3.1キロ区間が放棄された。

なお、新設線は既設線に比して新峠下トンネル入口への迂回とトンネルの線形により200メートル程の延伸となったものの、営業キロ程上は無視されて七飯-軍川間の13.2キロに変更はなかった。施設上の距離については距離更正点を置いたものと思われるのだが、その疑問点については後に述べる。


熊の湯信号場-軍川間線増

この区間の線増は2期に分けて行われ、先行した下り方の熊の湯信号場-軍川間の複線化に際しては、放棄した旧線3.1キロを峠下トンネルの改築と曲線改良にて復活し、前記新峠下トンネル通過線の始点に熊の湯信号場を分岐点として新設(桟橋起点22K800M)、上記25K754Mから軍川までは既設線右側に腹付け線増を行った。これと復活旧線の接続点も25K900Mから25K754Mの区間となり、ここには、10パーミル勾配の終点の曲線出口(上り列車には入口)付近にそれを裏付ける微妙な曲線線形が残っている。

復活旧線から増設線を上り線、新峠下トンネル通過の新設線を下り線とした熊の湯信号場-軍川間の複線運転は1962年7月25日から開始された。


七飯-熊の湯信号場(新峠下トンネル入口)間線増

この区間は、トンネルを含む一定の工事が進んだ施設が敗戦による中断にて以来20年近くを山中に放置された区間である。加えて、新峠下トンネルも使用を開始しており、七飯からの市街地通過区間を残すのみにて、ほぼ土工には着手されていたことになる。1963年11月の着工から3年足らずの工期は、それゆえに他ならない。最も工期の取られた久根別トンネルでも24ヶ月であった。

戦時下に未着工であった七飯から国道5号線交差部までは、停車場内での平面交差回避と、都市計画で住居地区とされた本町地区を迂回する設計変更がなされ、七飯構内で左に分岐し、渡島大野への既設線と畑作地を長い高架橋で乗り越して藤城地区山腹に至る、ここの鉄道景観を決定付けることになった延長913メートルに及ぶ(設計上には912M81)七飯高架橋が出現した。工事用側道を含めても買収用地幅を最小とする設計の結果と思われる。

余談になるが、この変更により放棄された路盤用地跡が、桜町2丁目の国道5号線沿いの洋菓子店ピーターパン横から町営桜町団地下へと続く現線路の外周を巻く道路、町道桜町8号線の一部に転用されて残っている。なお、そこから国道を越えての七飯方へ100メートルばかりも着工されたようだが、こちらの痕跡は消滅している。

増設線は、その桟橋起点23キロ付近にて熊の湯信号場からの下り線に替えて新峠下トンネルに繋がり、前述の軍川までの線増線と併せ、七飯-軍川間の下り列車専用線として1966年9月30日に運用を開始した。

新峠下トンネル手前に300メートルばかり存在するレヴェル区間は、後の熊の湯信号場からの接続線の合流のために設けられたものと思われ、前述のとおり戦時下の計画からは変更されたものである。この接続線使用の段階がなければ、トンネル入口の施工基面は現状より高く設計され、10パーミル勾配が連続したものだろう。

この区間には、増設線の桟橋起点23K000Mの甲号標が建植されているのだが、そこから350メートル程の間隔を置いたトンネル手前の切通し区間にも、かつては23K000Mの甲号標が存在し、同線上には2箇所の同距離標が併存する事態となっていた。このような事例を他には知らない。こちらは熊の湯信号場からの接続線のものと推定されるのだが、前述した1956年の新峠下トンネルへの切替時の新旧線実距離の更正に関係すると考えるものの、それが同接続線の廃止後も永く残された事由はわからない。

また、この甲号標を挟むように増設線基準の23K300Mと400Mの丙号標が建植されていたのだが、その間隔はせいぜい50メートルであった。これは現在も変わっておらず、どうにも謎の多い地点ではある。


以上にて、戦時下に開業していた函館-桔梗間、大沼-森間の砂原回り線、1962年9月4日に使用開始の桔梗-七飯間と合わせて函館-森間線増が完了し、函館本線南部の隘路区間が解消したのだった。

なお、ここでの「第二次五カ年計画」による線増区間には、中丿沢-長万部(4.6キロ)もある。


=参考文献・資料=

北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981

札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977

新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968

北海道の線増と電化について : 土木学会北海道支部技術資料 第22号 1966

七飯町史 : 七飯町編 1976

七飯町都市計画課・土木課へのレファレンス依頼による回答

 
inserted by FC2 system