指定席特急券の一ヶ月と一日前発売

乗船の実際とは直接には関わりのない余談であるが、これにも触れておきたい。

国有鉄道より承継し、現在は鉄道情報システムが運営管理する旅客販売総合システム(通称マルスシステム)による指定券類の発売開始日が、一ヶ月前の同日午前10時からであることはご承知の事と思う。連絡船の時代を知る方なら、これには例外が存在し、青函連絡船の深夜便から接続する列車については、さらにその一日前から発売されていたこともご記憶であろう。勿論、深夜便を介した前後の列車を先乗列車の発売日に同時発売を可能とする旅客サーヴィス上に不可欠な事項であると同時に、道内列車が乗り継ぎ割引の対象でもあって発券処理上からも所要の措置なのである。

これ自体は古くから在る扱いで、知る限りでは、台帳管理による発券時代に深夜便を介した<はつかり><おおぞら>特急券の通し発売に適用されていたし、より以前の<みちのく><大雪>の時代でも行われていたはずである。

指定席券類の発売開始が7日前や14日前であった頃(*24)には、深夜便接続列車ばかりでなく上野/大阪発や札幌発の夜行列車から接続となる列車(当然連絡船は昼行便)も適用対象であったのだが、後年には、青函旅客の利用減少とともに引き続き需要の在った深夜便からの接続列車に限るよう改められた。

ところで、これはマルスのプログラム上で先乗/後乗列車の同時発券が条件とされていた訳ではなく、後乗列車を単独でも購入出来たのである。例えば、青森からの<はつかり1号>の一定の座席数は、道内列車と無関係に8日前なり15日前から発売されていた。

連絡船の廃止とともに時刻表の営業案内から抹消されたこの扱いだけれど、実はその後も生き続けて、上り<はまなす>から接続となる<はつかり2号>と盛岡接続の

<やまびこ>に適用され、今現在も新青森発早朝
の<はやぶさ>と<はやて>に、(近隣の横浜線相模原駅みどりの窓口担当氏によれば)「ほんの数席」だけ一ヶ月と一日前発売の座席が用意されているそうである。やはり、マルス上は<はまなす>との同時発券の条件設定はなされていないのだが、窓口でそれを条件とするよう通

達/指導が存在するとのことだった。


(*23)基部40メートルの延伸は1959年10月竣功。

(*24)これが一ヶ月前の発売に改められたのは1980年10月1日のことである。なお、旅行会社など委託販売先において旅館券などの同時発売に限って1977年3月1日より一ヶ月前発売が可能であった。


[fig 15] [fig 16] 連絡船終焉後の <はつかり>単独での1ヶ月1日前発売の実例。

浜松のJTBにて<はまなす>とは無関係に購入している。日付に注意。乗継割引は東北新幹線によるもの。

同日東京に戻り、総武線・横須賀線改札前の北海道プラザで<はまなす>を購入した。

<はつかり>の特急券を提示しないと乗継割引は適用されない。

 

船内食堂

普通船室であった船楼甲板右舷中央部付近に食堂が設けられており、これも鉄道弘済会が運営していた(*17)。

ここでのメニュー等についてはWeb上にも記述が多く、敢えて触れない。

広い船内であるから、その造作や雰囲気は陸上での、例えば青森駅での構内食堂と大差はない。異なるのは舷側に窓が開口しており、その窓際席からは海面を間近に航行する波飛沫を見ることであった。

この津軽丸(2代)型近代化船のここを利用した最も古い記憶は1965年のことで、松前丸の就航間もない頃である。この当時は、列車食堂がそうであったように町食堂と云うよりレストランが正しく、一種近づき難い雰囲気も存在していた。それに店名(愛称名)などは無く、あくまで「◯◯丸船内食堂」であった(*18)。

これが70年代に入ると押し寄せる乗客に大衆化が進んでカジュアルな空間となって往き、「グリル◯◯」(◯◯は船名)の名称の付与されたのは1977年ことである。食堂側の人手不足もあって、オーダーは食券方式に改められ、それの自動券売機も導入された(*19)。その食券は、B型乗車券サイズで白地に黒インキでオーダ名が印字されるのみの味気ないもので、価格表示すら無かった。
80年前後となると、乗客の減少とともに利用も低下したものと思われ「サロン海峡」として喫茶関連が分離されたことも
手伝ってか、券売機は深夜便での「海峡ラーメン」(*20)営業のみとなり、再び退店時のレジでの清算方式に戻された。そのレシートは「グリル◯◯」の名が入り、メニュー名と価格がドット文字で印字の、当時の新幹線食堂車と同様のものであった。高級感を持たせた「サロン海峡」(*21)に対して大衆食堂らしいイメージが継承していたけれど、この頃メニューの価格だけは高級となっていた。

とは云え、ここの窓際席で海面を眺めながらのビールに肴は昼行便の楽しみで

はあった。






(*17)80年代には、青森市の伯養軒(本社は仙台市)が参入していた。

(*18)船内食堂の運営を外部委託としたのは、この津軽丸(2代)型近代化船以降である。それまでは国鉄の直営にて料理人も給仕人も国鉄職員だったのである。しかも船特有の等級区別が存在して、1・2等客用と3等客用食堂は個別に設けられていた。

(*19)この年は青函航路開設70周年にも当たっており、連絡船シンボルマークの設定と船体掲出などが行われた。船内食堂への愛称付与や営業形態、供食メニューの改善などは、それに際してのイメージアップ策(実体は省力化策)として実施されたものである。自販機による営業は77年2月24日より一斉に行われた。

(*20)味噌味と塩味のあったこれの提供は1976年1月からである。

(*21)店内装飾・調度を差別化していたが、それほどの高級感のあった訳でもない。けれど、在庫されるビールの船内食堂のサッポロ黒ラベルに対して、それはエビスビールだったりした。









[fig 10] サーマルドット方式で打ち出された、レシート。少し味気ない。

[fig 11] 券売機発券の食券。実際にオーダすると半券しか残らないので、コレクションには一番安いメニューを選んでいる。

[fig 12] 北海道時刻表1971年12月号から転載。海峡ラーメンはまだ無い。


 










(*3) 地上では、青森・函館とも桟橋待合室は勿論、本屋側の出札・改札に案内窓口にも備えられていた。盛岡鉄道管理局はわからないが、青函船舶局側では管内の各駅にも常備されていたらしく、函館線の落部、七飯で入手したことがある。

(*4) 優等列車内での配布は、八戸・大館・長万部の発車(通過)後が一応の目安であったと思われる。道内側では札幌を出ての検札にて配布していた事例にも出会っている。もちろん、請求すればいつでも貰えた。

普通列車での配布の青森側の例は見ていない。一度請求したところ、駅窓口を案内されたから車掌の常時携行では無かったものと思う。

(*5) 後には「特」の字を丸で囲んだ「マル特」表記に変わった。


[fig 2] 1970年に503D<しらゆき・きたかみ1号>車内で配布された旅客名簿。列車名入り。

甲乙券片式は、甲片が船に乙片が陸上に備置された。これを廃しての一券片化は72年頃と思う。

[fig 3] 1973年に12D<北海>車内で配布。赤線3本入りが特急接続旅客の証である。

[fig 4] 1980年と思う。583系寝台電車特急<ゆうづる>の洗面所に吊り下げられていたもの。パンチ穴でそれと知れる。

函館桟橋

一度、函館山線夜行が石狩湾岸の暴風雪にて遅れ、朝7時過ぎの26便に間に合わなかったことがある。船の出たばかりの広い桟橋待合室は伽藍として朝から気怠い空気にあった。みかど食堂にも人影がない。次の24便までは時間も空き、それは道内列車の接続の無い便でもあったから混雑もなかろうと、その周辺を歩いたものだった。桟橋改札を出れば、眼前は朝市なのだが、今時とは異なり観光客の群がるで無く市場本来の姿にあった。この当時朝市西側は船入潤になっていて漁船の出入りしていた。その向こうは小規模な造船所と記憶する。このあたり立入りの出来ない場所が続いて、離着岸の連絡船を眺められるのは魚市場岸壁まで往かねばならず、だいぶ距離があった。

桟橋改札から駅本屋方向を辿ると左手に1969年に完成した高架連絡通路が延々と続き、その外壁に「←れんらく船のりば」と大書きされていたのを思い出す。右手は青函局の施設部の入る古いモルタル二階建ての建物である。だから本屋から朝市は見えなかった。

駅前に至れば、早くに取り払われてしまったのだが、広場の北側、貨物フロントの前あたりに小さな飲食店が軒を連ねた一角が在って、早朝から或は深夜まで営業しており、ここで深夜便で到着して早々に食事がてらにビールを流し込んだりしたものだった。ここも青森同様周囲には雑多な店の並んで人通りの絶えなかったものが、今やこざっぱりと整備されて矢鱈と空間が広がる。それでなくとも衰退する地方都市を象徴するかのように、函館駅は駐車場に囲まれてしまっている。

札幌在住当時の60年代には飛行機利用は一般的ではなかったから、内地への移動は青函連絡船以外には考えられなかった。だから、近代化船と呼ばれた津軽丸型客載車両渡船就航前の最後の車載客船であった初代渡島丸や摩周丸、もちろん浮揚・改修後の洞爺丸にも乗船しているはずなのだが記憶はあやふやである。やはり、明確なそれは1964年からの新造船津軽丸(2代)型以降のこととなる。

1970年に内地に転居してからの北海道均一周遊乗車券を手にしての貧乏旅行は勿論のこと、80年代に至っても航空機での渡道は稀だったから、行き帰りの青函連絡船への乗船は必須であった。

この青函航路の沿革や歴史、船舶としての連絡船などに関しては多くの文献・資料が刊行され、桟橋や乗船の描写は小説に紀行など文学作品にも数多ある。

以下には、それらに記述されない、あるいは詳述されていないことを主には記録しておきたい。

特に断らない限り、青函航路の利用客がピークを示していた70年代前半の状況である。

 
青函連絡船 私的覚書き

東北・奥羽線下り列車

青森駅の乗降場は、かつての20メートル級客車の最大14両組成に対応して300メートル近い有効長を確保していたから、ここに最も上野方の車両で到着してしまうと、遥か北端の桟橋連絡通路に辿り着き2岸に接した桟橋待合室まで400メートル程、1岸に着岸中の連絡船までならそれ以上に歩かされた(*1)。

連絡船乗船は指定席がほとんどだったので(後述)、そこを駆け抜けはしなかったけれど、重い撮影機材には勢い上野で青森寄りの車両を選ぶことになった。都合の良いことに特急なら自由席はそこの3両だったし、夜行急行でも普通車は青森方の組成順位になっていた。けれど、考えることは皆同様で、先頭車は混合うのである。閑散期でもスハ43の座席ひと区画を独占したいなどと思えば、前寄りから3・4両目に留めたほうが良かった(*2)。

どの列車でも盛岡もしくは八戸を過ぎたあたりで車内放送のあって連絡船乗船名簿の配布が行われ(後述)、これで海峡を渡る実感を強くしたものだった。1980年代に入ると車掌による配布の無くなった訳ではないものの、車内の洗面所や出入台に束になってぶら下げられていた。乗船に不可欠のこれの所持を確実とする施策であったのかも知れないが、紙質・印刷とも低下したのはメモ紙代わりの持ち去りも前提のこの頃からである。

連絡船接続列車がどれも長大編成の頃には有効長一杯に停車して、桟橋連絡通路への階段位置まで至っていたのだが、車両キロの抑制策による季節減車など短編成化が進んで間隔が空いてしまっていたのも80年代であった。

連絡船の無くなってからも海峡線列車の長大編成に対応していたこの乗降場は、短編成列車ばかりとなった昨今には半ば遊休化している。中央部あたりまでを使うのは<あけぼの>に<はまなす>くらいだろう。それでも、最近に乗り合わせた<あけぼの>が5両を増結していて久し振りにかつての連絡船乗船通路への階段前に立って、長距離列車の並んだ頃を少しだけ懐かしめた。







(*1) 第一乗降場(1・2番ホーム)の場合である。第三乗降場ならさらに遠い。

(*2) 但し、101<八甲田>でこれをやると、途中仙台での増結で青森到着時には6両目になっていた。

[fig 1] 1津軽丸船内にて購入の「海の記念日」記念急行券。7隻の津軽丸(2代)型近代化船の揃っていた頃である。津軽丸分の払底したものか、羊蹄丸をゴム印で訂正している。

[photo 1] 風雪の青森駅5番ホームで待機する4002<日本海2号>。桟橋連絡通路から見下ろす。1両増結の13両組成につき直下に停車している。4番ホームの14系は、402<津軽>。これも増結で12両編成。

 

[fig 1]

[photo 1] 青森 1985

青森桟橋

青森の駅本屋は今や南側に商業ビルをともない、駅前広場の周囲もホテルをはじめとした新築の建物が整然と建ち並んでいる。けれど、それは何処か空疎で駅前の活気も失われているように思える。1980年代までのここにはアーケイドの巡らされて土産物屋や飲食店など小さな商店が雑多に並んで駅に出入りする人々が絶えず、それはそのまま南側の市場に一体化していた。北側の十和田湖方面への国鉄バス発着場のアナウンスが喧噪に拍車をかけていたように思い出す。

その横には飲食店の並んだ路地が通じ、そこを抜ければバス車庫に出て、周辺は一帯は入り組んだ路地の呑み屋街が広がり、そのさらに裏には東側の倉庫の建ち並ぶあたりに向けて駅構内から青森県所有の専用線の引込まれて、水陸荷役の岸壁ともなっていた。

青森桟橋に着岸する連絡船は、この位置の眼前で船尾を補助汽船に押され、自らはバウスラスタを駆動して右に回頭していた。離岸なら遠ざかる船尾をいつまでも眺められた。函館側でのこの位置は、函館運転所の構内となってしまうから青森だけの特権とも云えた。現在の青森市文化観光交流施設の駐車場位置である。

青函連絡船をまともに撮ったのは一度しか無く、それには当然ここを選んだものだった。

青森湾に突き出した敷地自体は変わらないのだけれど、連絡船設備の一切が無くなり、西側の埠頭も遊漁船繋留桟橋に転用され、構内は東西を道路に挟まれて小さくなってしまった。今青森第一乗降場に立てば、そこに航送線が幾本も並んでいたなど夢のようではある。そこからは鉄道施設しか見えなかった。

[photo 2]  小雪の舞う中、 下り23便にて青森を出航する大雪丸。濃霧で防波堤すら見えない。 青森桟橋 1984

[photo 3] 基坂からの函館港内。 連絡船は上り8便にて出航した、これも大雪丸。 函館 1976

列車名入りの旅客名簿

青函連絡船への乗船に際しては、連絡船旅客名簿への記入と提出が要件であった。これは、船員法(1947年9月1日法律第100号)第18条/同施行規則(1947年9月1日運輸省令第23号)第12条にある「旅客名簿」の定めにより海上旅客輸送に必須であり、国有鉄道旅客営業規則にもその通則に条文が規定されていた。

この名簿には、第一種と第二種が規定され、一種が一般用で白色用紙、二種は特別船室旅客用で淡緑色用紙と区別された。主には船に接続となる列車内で配られ(*3)、北海道内では優等列車ばかりか普通列車でも函館到着が近づけば車掌が配布して歩いたものである。本州側では優等列車に限られたと記憶する(*4)。

これが甲乙券片様式であった1974年頃までは、特急列車配布は縦に赤線3本を入れて区別し(*5)、一時期の急行列車では配布列車の列車名が押印され、旅客がどの列車からの接続客であるかが判別されるようになっていた。手元に残るそれには、奥羽線の長距離急行で配られた「急行しらゆき・きたかみ」の押印付のものや、五能線からの地域内急行列車で請求したものにも「急行深浦」との押印があって徹底されていた様子である。これの北海道側での例を見ていないので、盛岡もしくは秋田鉄道管理局の独自施策と思われる。どのような事由にてなされていたものかは調べ得なかったが、以下に述べる乗船制限に際しての何らか区分であったと推定している。

 

[fig 3]

[fig 4]

[fig 2]

乗船の実際

連絡船の乗下船口は左舷側の船楼甲板に二カ所、遊歩甲板に一カ所が設備されており、それぞれに桟橋側より屋根と安全柵の付いたタラップが接続されていた。船楼甲板のものが普通船室用、遊歩甲板が特別船室用である。

桟橋待合室の通路に、それぞれの札が掲げられ普通船室/特別船室別に列をつくって乗船を待つことになる。おおよそ出航20分前が乗船開始の目安で、桟橋係員の先導で乗船口タラップの直前まで移動する。乗船口の異なるにもかかわらず特別船室側の乗船タイミングが早かった。船に特有の上等客優遇の伝統だったのだろうか。

乗船制限

青函航路の利用客がピークを迎えたのは1973年で、それは年間498万5695人と記録されている。青函船舶鉄道管理局が1977年に刊行した「航跡-連絡船70年の歩み」によれば、一日の輸送人員の最高記録も同年の8月5日の上下便合計34560人とある。

DISCOVER JAPANキャンペーンの成功もあって北海道への旅行客は激増し、当時の北海道旅行ブームがピークへと向う70年代前半には連絡船は混雑を極めており、特に混合う深夜便において乗船制限が多々発動されて、当時の時刻表にも注記がなされていた(*6)。

この際には、連絡船指定席券(即ち指定席特別船室券)所持旅客、接続列車指定席券類所持旅客、特急列車からの接続旅客の優先乗船がアナウンスされ、乗船に際しては前記赤線表示ないし出航時刻入りの乗船名簿を要した(*7)。

この後、特急接続客のやや減じた70年代後半の時期には、特急車内での配布以外には通し番号が振られて、連絡船定員の余裕分に対して抽選による乗船が行われたと聞くが、その現場に居合わせたことは無い。

特急旅客の優先措置は、混雑の主要要因であった周遊券旅客の取り敢えずの排除を意図したもので、積み残しに対応して、深夜便出航の後に、客載車両渡船による貨物便の151/158便(*8)が客扱いしており、周遊券での旅行者などは最初からこれを選択する者も多かった。一度乗船経験の在るけれど、青森を午前2時30分に出航の151便など、さながら周遊券旅客専用便の様相であった。



(*6) 北海道時刻表1972年7月号での上り利用に対する注記例 - 『7・8月の毎日と9・10月の土曜・休日に函館発深夜となる連絡船(12・2便)に後乗船の方は、同連絡船の指定席券又は上り特急(北海・おおぞら3号)の特急券をお持ちの方に限ります。』

当時の特急は全席指定にて道内の特急券所持旅客はほぼ全てが青森から特急<はつかり><白鳥>への乗継客であった。

(*7) 特急列車からの接続旅客でない場合、連絡船の指定席券なり前途接続列車の指定券類を窓口に提示すれば、出航時刻の押印された、即ち乗船便を指定した旅客名簿を交付された。

(*8) 1972年3月改正ダイヤによる。この改正から78年10月2日改正までが青函航路最大の30運航/日であった。客載車両渡船による貨物便は4往復-8便あり、100番台の便名が振られていた。これを臨時に客扱いしたもので、時刻表への表記は季節便となっていた。


[fig 5] に、この当時の連絡船運航図表を示す。1975年3月10日改正ダイヤである。

臨時貨物便4便を含めて一日に60便のスジが引かれ、30運航ダイヤと呼ばれた。定期運行は28往復である。青森の3岸、函館の4岸の岸壁と出入港ルートの制限により理論上の最大運航は32運航と云われており、ほぼ限界のダイヤであった。両岸とも平均24分に1回の頻度で離岸/着岸が繰返されたことになる。但し、この当時には檜山丸(初代)型と呼ばれた1955年から就航の初期のディーゼル貨物船が3隻残存しており、これらは青函間に4時間30分を擁したため等間隔ダイヤとはなっていない。

船室

乗船は大抵の場合、特別船室(グリーン船室)の指定席にしていた。周遊乗車券での旅客としては前述の乗船制限への自衛もあったけれど、その料金が鉄道線に比較してかなり割安だったこともある(*9)。

客船の伝統であるのか、ここでの等級差は歴然と付けられ、自由席の特別船室が列車の特別車と同等の二人掛自在腰掛に対して、指定席のそれは一人掛の独立腰掛でリクライニングもほぼ水平にまで可能、足掛け付の所謂フルフラットシートであった。このシートは青森に繋留の八甲田丸にも函館の摩周丸にも船内に往時のまま保存されているから、今でも座り心地を体験出来る。

特別船室は遊歩甲板の全てを占めており、乗下船口広間より船首側が指定席、船尾側右舷が椅子席の自由席、左舷が座席(自由席)となっていた(*10)。

客船の等級差は、この乗下船口広間(ロビー)にも現れており、そこには豪華な調度が施され、明らかに普通船室広間のそれとはグレードの異なる造作の専用売店が開かれていた。けれど、1978年にこれらは撤去されて17人分のゆったりとしたソファが置かれ、椅子席自由席の22脚(44人分)を取払って新たに「サロン海峡」なる喫茶室が設置された(*11)。しかし、残念ながら乗船の多かった深夜便では営業休止につきそれほど利用する機会はなかった。この時期には連絡船の利用が減少に転じており船内サーヴィスの向上を図ったものであるが、定員減をともなう施策は、だからこそ可能となった面もある。


                                   








船内生活

連絡船に乗り込んで自席に着いた後、なすべきことは食事とシャワーである。

深夜便なら普通船室の乗下船口広間(ロビー)で鉄道弘済会による「あらまき弁当」の販売(*12)があり、これは出航前に列に並ばないと入手出来ない程の人気であった。

これに溢れれば、「海峡ラーメン」のみの営業だった食堂に入ったけれど、当然こちらがお目当ての乗客も多かった。当時の乗組調理人の方が、後年に函館朝市近くにこの海峡ラーメンの店を開かれていたが、ご高齢ゆえに惜しくも閉店してしまったらしい。この船内食堂については後述する。

シャワー室は、後の<あさかぜ>や<北斗星>に設備のものとほぼ同等の構造だが、船内らしくゆとりを持ったスペースが確保されていた。女性用は知らぬが男性用には4室が用意されて予約などは不要であり、時代としてカード式ではなくコインの直接投入式と記憶する(*13)。

このシャワー室は建造時にはなく、特別船室の洗面所スペースを利用して1970年より松前丸から順次全船に追設されたものである(*14)。

これらが終われば、昼便なら遊歩甲板の散歩(*15)となるも、深夜便なら午前4時過ぎの接岸の船内放送に起こされるまでは眠るのみであった。



(*9) 1969年の等級制廃止時点で、例えば特急・急行の200km帯の800円に対して、連絡船のそれは400円であった。指定席利用には、双方とも座席指定料金300円を別途要した。

1974年10月1日に特別車・船室が1個利用ごと収受に改められた時点では、指定席利用にて特急・急行の200km帯の800円に対して500円であった(双方とも実質的値下げ)。

(*10) ここに腰掛と敢えてJISにおける正式呼称で書いているのは、連絡船で言う「座席」とはその名のとおり座る席、カーペット敷のフラットルームであり、腰掛のある席は「椅子席」と区別していたからである。

(*11) 1978年2月9日函館からの4便に配船の十和田丸から営業を開始し、以後9月25日までに全客載車両渡船に波及した。なお、併せて普通船室では、それまでの婦人専用席(座席)を娯楽室に改装し、囲碁・将棋の用具を常備した。

(*12) 他に「うなぎ弁当」があった。昼行便なら「かにシューマイ弁当」「鮭ずし」なども売られていた。

「あらまき弁当」は 80年代に 食材を変更して「紅しゃけ弁当」に代替わりした。

(*13) 北海道時刻表1972年7月号には7分間の湯量にて100円と案内が記載されている。

(*14)1970年12月26日に松前丸に設置し、以後全客載車両渡船に順次設備された。

(*15)その上部の航海甲板への立入りは禁じられていたのだが、連絡船の先行きの見えて来た1982年の夏季からは期間を限って解放された。煙突の建つ消音器室を回り込むと船橋で立ち働く乗組船員達の姿が垣間見えたものである。


[fig 6] 函館駅のマルス102 X端末での発券。69年等級制廃止時点での特別車(船室)料金は旧1等運賃の乗車券的性格を色濃く残して距離通算制であったが、連絡船だけは別建てなものの、指定席は指定席料金を要した。これの一様化発行の規定は無く、指定席券単独でも発券された。乗船には [fig 7]に示すグリーン券を併用する。

[fig 7] 青森駅桟橋窓口(22番がそれを示す)発行の硬券。69年等級制廃止時点では自由席へはこれだけで乗れた。

[fig 8] 1983年当時の倶知安駅ならマルス端末の設備はあったはずだが、なぜか準常備券で発券された。74年10月の旅客制度改正にて、特別車(船室)料金は一個列車打切りとなり、指定席/自由席のそれが制定された。指定席の1600円は1973年の700円に対して10年で倍以上の値上げ。

[fig 9] あらまき弁当の外装。函を潰している。横書き部分が側面となる。

 

[fig 5]

[fig 6]

[fig 7]

[fig 8]

離岸

出航の際には、それが夜間便であろうと遊歩甲板に出てそれを見守った。そこの特別船室乗船タラップと船楼甲板の普通船室タラップのひとつは早くに外され、普通船室側の一箇所だけを繋いで駆け込みの乗客を待つ。時刻表に記された出航時刻とは離岸を指していたからタラップはその数分前に外され、乗船口を施錠してそれを待つのである。

函館桟橋を離岸、右に回頭して微速前進にて港内を進みながら函館山を仰ぎ見るのは忘れられない光景である。防波堤を交わす頃には航海速度に達し、昼行便ならそれを回り込むように進路を取ると船尾に移動して見送ったものだった。

今でも青函フェリィで海上移動は楽しめるけれど、桟橋が有川地区となればこの函館港内の微速運行はもはや体験出来ない。

航海

乗船の多くは静穏な航海だったが、さすがに冬の海峡のうねりに船は揺れた。それが大きくなると、船室から甲板への出入口は全て鎖にて閉鎖され、棚の荷物は床に降ろすよう指示された。

うねりが大きいと揺れを身体が記憶してしまい、下船して接続の急行列車に乗り込んでからも目を閉じると揺れる感覚に襲われ寝付けずに困ったこともある。

一度、船室窓に叩き付ける波涛が遊歩甲板を越えるにまで達し、そこが浪に洗われる程の中を航海した経験がある。勿論甲板への扉は閉鎖、食堂も売店もシャワー室も営業休止、船内放送では自席を立たないことと荷物を全て床に降ろすよう指示される荒天であった。下船後に知るのだが、この日はこの便を最後に全便がテケミした程の時化ではあった。テケミとは、『天候険悪出航見合わせ』を意味する鉄道電報の略号である。

実際大きな揺れで、座っていると身体が大きく持ち上げられると思う間もなく、宙に浮くように急激に落とし込められ、その振幅は数メートルにも感じられたが、主機のエンジン音はいつものように淡々と響き、難航するでなく定刻に青森に着岸した(*16)。


松前丸

近代化船と呼ばれた津軽丸(2代)型客載車両渡船は1964年から66年に7隻が就航した。

これらは、1954年の15号台風‘マリー’による5隻の連絡船の沈没ないし転覆という青函航路史上最大の海難事故を教訓として建造され、防水隔壁の強化、舷側の二重構造の採用や船尾防水扉の設置、船体幅の拡幅による復元性の向上などをはじめとした多くの技術が投入されていた。

それら新技術により、荒天時の航行性能も向上し欠航率の低下にも寄与したのだが、海峡の時化にて欠航の判断を下す際に、ある船長をして「船はもつが私がもたない。本船テケミ」と言わしめたというエピソードも伝わる。

各船はそれぞれに意匠を凝らした内装を持っていたのだが、特筆すべきは第3船として64年12月1日に就航した松前丸の船内装飾である。室内カーテンや壁面、照明器具などあらゆるところに松前藩の紋である『丸に武田菱』をモチーフにしたデザインが施され、特別船室など大胆とも思えるオレンジ色とベージュ色の配色ながら落ち着いた空間を創り出していた。とても好きな船だったのだが、なかなかに巡り合えない船でもあった。

しかも津軽丸ととも1982年には終航を迎えてしまう。これは、他の5船と補機関係の搭載機器が異なった故と言われているが、これを公式に記録した文書はない。通達は18年の法定耐用年数への到達を事由とするのみである。


(*16)青函間の3時間50分運航は運行の経済性も考慮してかなりの余裕時分を含んでいたと思われ、30分程度の遅れ出航ならほぼ定時に着岸していた。

 

[photo 4]  上り4便にて航海中の八甲田丸のメインマストにシンボルマーク 1978

[fig 9]

[fig 10]

[fig 11]

船内案内所における乗車券類発売

津軽丸型近代化船で始まったことではないが、これには普通船室の乗下船口広間(ロビー)には船内案内所が開かれて、その名のとおり船内における旅客フロントであり、同時に乗車券類の発売も行われていた。

ここは列車内とは異なり、運輸収入取扱基準規程に規定する「駅所」に指定され、その発行責任者は駅長にあたる連絡船事務長であった。したがって、発行券の券面表記は“◯◯丸乗務員発行”ではなく“◯◯丸発行”となる。

そこに常備されるのは、当然ながら常備券種は限られるものの基本的に硬券で、乗車券箱にダッチングマシンが置かれていた。常備の無い発券に出札補充券の設備も在り、駅とほぼ同等の扱いであった。

あまり知られていないけれど、ここでは接続列車に限って指定席特急券の発売もなされていたのである。船舶無線がデータ通信に対応していない時代ゆえ船内にマルス端末を置いていた訳では無い。出航前に函館駅設置の端末より割当を受け、それを列車名まで表記された常備式のD型券に転記して発行していたのである。ただ、函館駅発行の特殊指定共通券に船名印を押したものも見かけたので、後年には簡略化されていたのではなかろうか。

船内でも指定席が確保出来る利便性はあったのだが、その発売分がマルスに留保されていたでは無いから指定席の早くに売り切れてしまう混雑期には扱いがなされず、座席確保に不安の無い閑散期ならその必要も感じずに利用したことは無い。その事情は皆同様と見えて、いつしか廃止されてしまっていた。調べると1985年3月改正時とあった。





[fig 13] 船内では乗客掛が検札に車内発行券と同様式の軟券で自船のグリーン券や接続列車の自由席特急券や急行券なども発券するのだが、当然ながらこれも船内窓口の“◯◯丸発行”である。

[fig 14] 船内窓口発券の硬券。準常備急行券。硬券で最も低額なのがこれであった。

 

[fig 12]

[fig 13]

[fig 14]

下船の実際

混雑期ではなくとも到着時刻(*22)の30分前程になると、乗下船口広間には行列ができ始める。その頃ともなれば、船は減速して、まもなく港の防波堤を交わす位置まで接近しつつある。函館ならば函館山を眼前に見るゆえ、特急自由席や急行列車が接続列車の旅客は座席確保に気が急くのである。

青森なら倉庫群の林立する民間岸壁を、函館なら運転所の前海を回り込むように岸壁前に達した連絡船は、バウスラスターを駆動させて回頭し、後退しつつ補助汽船に推進されて着岸する。この時にはやや衝撃があって、それと知る事が出来た。

桟橋側からハネ上げられていた屋根付きのタラップが降下して接続され、安全柵の設置が確認されると、航海中は締切られていた扉が開かれ、広間の行列は一斉に走り出す。高名な桟橋マラソンである。特急列車に自由席が設置された以降の函館なら、それのゴールは遥か編成の旭川方であった。一岸への着岸であればまだ良いが、二岸となれば船の全長分、132メートルをまるまる余計に走らされることになった。青森なら一岸からの狭い乗船通路を幅一杯に駆け出したものだった。

この下船開始のタイミングも特別船室側が早かった。階上で階段を降りねばならぬ位置関係による配慮と思われ、これを知る者は普通船室旅客でも特別船室広間の行列先頭に並んだものだった。



(*22)時刻表に記載の到着時刻とは着岸時刻であった。着岸後、直ちに繋船作業とタラップ下降など下船準備が進められ、乗船口扉が開けられればマラソンスタートである。

 

石狩丸(3代)

空知丸(2代)型車両渡船(貨物船)の第2・3船として1976/77年に就航した石狩丸(3代)・檜山丸(2代)は、津軽丸・松前丸の終航にともなう代船として客載車両渡船に改造され、それぞれ1982年の4月1日と10月1日に再就航した。船楼甲板船尾側に2階建てのハウス(客載設備)を追加したそれは津軽丸型に設備を合わせるで無く、寝台室、特別船室、食堂/喫茶室、シャワー設備などを省略した普通船室のみの定員650名とされた。1981年9月26日に青函隧道開通後の連絡船廃止が既定方針とされての時限対応の施策であった。この時点で津軽海峡線(工事線名)の開業は1984年度末とアナウンスされていたのである。

この就航により、1982年11月15日改正にて客載車両渡船配船の100番台付番の客貨便を甲系統運航に集約して専用された。これにて、旅客輸送を深夜便の101・102便(それぞれ改正前の11・12便)と臨時便のみとして、サーヴィス低下を限定的とする施策であった。時刻表には、これら便に前記の設備の無いことが注記されていた。

なので、意識して避けていたこれの配船便に乗船したのは一度きりである。函館からの<北海>の自由席確保に1便より25分を先行する101便を選んでの石狩丸であった。

その船室は、この時期の設備だけに装飾のない簡素な造作であり、椅子席はR51型腰掛から回転機構を取り去った簡易リクライニング構造となっていた。モケットは道内に導入されつつ在った183系気動車の普通車と同デザインだったと記憶する。

他にはあまり印象がなく、3時間50分の船旅は眠るしかない深夜便ではあったけれど、味気ないことこの上無い船には、これで懲りてしまったのだった。

なお、津軽丸型より12.6メートル長い船体に函館2岸の改修を要している。現在摩周丸の繋留されている岸壁の突堤状延伸部の先端17メートルがこの際の延長(*23)である。

[fig 15]

[fig 16]


指定席特別船室の船首側には寝台室があった。ここも船舶ならではの設備にかかわらず列車寝台よりも遥かに割安であったのだが(*24)、4時間足らずの運航には特別船室のフルフラットシートで十分だったゆえ利用したことが無い。乗客掛に頼んで見せてもらった限りの、ソファにテーブル、洗面台も設備されていた上下寝台で定員4名の寝台室は、深夜便に限らず営業しており、家族連れなどが個室として利用していたように見えた。

普通船室乗下船広間の売店脇と記憶するが、船内には公衆電話も備えられていた。携帯電話の普及した現在では船上からの発信など珍しくもなかろうが、当時には船舶無線のチャンネルが利用されるに驚きも感じたものだった。掛けてみたそれの十円玉の落下の早いことは船上ゆえか、通話先が都内であったせいかは分からない。多分両方だろう。これの設置・開通は1969年11月1日と記録される。

同じく売店横にあった記念メダル刻印機(販売機)や、案内所脇の記念スタンプ、船長サインカード(*25)など観光要素には興味を持てなかったので、これらは所有しておらず記録すべきことも無い。


さて、連絡船は函館のものと言う感覚が強い。それは所管が1913年に鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所に移管されて以来、戦後の国鉄青函船舶鉄道管理局を経て、1988年の終航時の北海道旅客鉄道函館支社に至るまでの歴史に起因するのかも知れない。しかし航路開設時から鉄道院の発足までの管轄部署は東京そして青森に所在したのである。

それは送り出す側に存在したこと、すなわち、この航路は北海道への移民船として開設されたことを忘れてはならない。


[文中データは「航跡-連絡船70年の歩み」(青函船舶鉄道管理局 1977)による]



(*24) 1969年等級制廃止時点で、客車A寝台下段の4200円、電車B寝台下段の1300円に対して1100円であった。それは特別船室指定席の700円と比較しても決して高額ではない。

(*25) メダル刻印機は1971年2月11日より全客載車両渡船に設備された。記念スタンプの類いはかなり以前より設置されていた。70年代にはDiscoverJapanのものが置かれ、連絡船シンボルマークデザインの装備は1977年7月7日とある。船長サインカードの案内をはじめて聞いたのは70年代の末と記憶する。

 

[photo 5]  下り21便にて航海中の羊蹄丸のグリーン船室遊歩甲板出入口扉 1982

 
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