広義の鉄道用語において、永年に指摘されながらも相変わらず混同/誤用の多いのが、「信号場」と「信号所」である。
結論を先に述べれば、1987年4月1日以降「鉄道」路線上に信号所は存在していない。全てが信号場である。よって、現存の施設を「信号所」と呼称・記述するのは誤りである。
国内における最初の統一された鉄道の技術基準は、1900年8月10日逓信省令第33号の『鉄道建設規程』である。その第16条に「連絡所」と「信号所」の規定がある。古い定めゆえ直接的に定義のなされるでないが「閉塞式ヲ施行スル線路ニ於テ停車場ヲ二箇所以上ノ區間に區分スルトキハ該區間ノ境界點ニ信號所ヲ設クルコトヲ要ス」と条文後段にあり、それは現行の信号場に相当する設備と解せられる。
連絡所なる施設名は、この規程の他には見られない名称で、それは「停車場外ニ於テ鐵道線路カ聯絡スル箇所」であり、そこには「信號常設ノ場所」とするよう規定されて、閉塞の境界に違いないが、停車場間にて2本以上の本線路が分岐する地点に設けられる施設を区分したものである。
この規程は、その後に政界を二分した「鉄道改軌論」の論争を経て、1921年10月14日鉄道省令第2号の『国有鉄道建設規程』に全面的な改定が行われた。ここで、第4条に停車場に含まれる施設として「信号場」が定義され、それは「驛ニ非ズシテ列車ノ行違又ハ待合セヲ為ス為設ケラレタル場所」とされた。現在までも引き継がれる定義である。これに従い、当時国有鉄道路線上に存在した「信号所」施設の多くは、翌1922年4月1日を以て一斉に「信号場」へと改称されたのだった。以降現在まで、これらは「信号場」である。
ところが、この規程では、続く第5条に「信号所」の呼称も生き残る。「停車場ニ非ズシテ手動又ハ半自動ノ常置信号機ヲ取扱フ為設ケラレタル場所ヲ謂フ」がその条文全てである。
これの解釈に混乱の在ったものか、この1921年の国有鉄道建設規程(旧)を改定した1929年7月15日鉄道省令第2号の(新)『国有鉄道建設規程』では、その第6条に条文を引き継ぎながら、わざわざ、信号場は構内を有するけれど、それを持たないのが信号所、との注釈が付けられた。
すなわち、1900年の旧鉄道建設規程にある「連絡所」を引き継いで、停車場間の本線上での本線同士の分岐地点に設置の施設を区分したものであり、閉塞境界にて常置信号機(掩護信号機)を要するけれど、単純な分岐につき場内や出発信号機は設置されず、場内(=構内)は存在しないものとされたのである。ただし、ここで分岐双方の本線への折返し運転を行うのであれば、出発信号機を要してそれは「信号場」に区分される。
例を挙げれば、奥羽本線の津軽新城から東北本線浦町間に1926年10月25日に開通した貨物支線の実際の分岐点や、1931年8月10日の米坂線(当時は米坂東線)の今泉から手ノ子延長に際しての長井線との共用区間からの分岐点などは、これに従ってそれぞれ「滝内信号所」に「白川信号所」である。当時は勿論有人施設であった。
こうして、1921年の国有鉄道建設規程の以降に「信号場」と「信号所」は並立することとなり、この規定は戦後の公共企業体「日本国有鉄道」の発足に際して『日本国有鉄道建設規程』(1949年5月31日運輸省令第15号)として引き継がれたから、その並立は戦後も続いたのである。
それぞれ役割の異なる施設であり、列車交換や退避に用いられ、必然として場内/出発信号機の設置を有するのが「信号場」であり、上下の場内信号機の内方がその構内となる。
対して、1) 停車場間本線上で閉塞境界となる線路分岐点や、2) 停車場間の可動橋や他線との平面交差箇所、3) 通票または票券閉塞式施行停車場間を2個以上の閉塞区間に区分する地点などに設けられた施設が「信号所」である。ここには列車の停車(停止ではない)の必要が無く、よって内方を掩護する閉塞信号機が設置されて構内が存在しない。
1) は前にも挙げた奥羽本線の滝内をはじめ例は多く、2) の代表的例に佐賀線の昇開橋-筑後川橋梁に存在した筑後川がある。3) の例も存在したであろうが把握していない。これにて、通票閉塞の単線区間でも同方向に複数列車を続行運転出来た。
但し、そこに停車の必要があれば外観の同一の信号機が場内ないし出発信号機と呼ばれて、そこは信号場に区分され、部外者がその形態のみで判断するのは困難ではある。
このように建設規程上では明確に区分された「信号場」に「信号所」なのだが、当の国鉄においても運転取扱規程では信号所は信号場に含められていた。そこに信号機の存することは運転上変わりないからである。従って運転局の作成する列車運行図表には、法規上「信号所」にもかかわらず信号場と同一に表記されており、現場でも「信号場」と呼ぶ例が大半で再三引用する奥羽本線の滝内も現業上での呼称は滝内信号場であった。
なお、信号所を英文表記でのSignal Cabin、駅構内などでの信号テコ扱所(の建物)を指すとする情報も在るが、これも誤りで国鉄部内では「信号扱所」と区別していた。
一方、国有鉄道以外の鉄道線、すなわち大手を含む多くの私設鉄道線では戦前戦後とも、1919年4月10日法律52号の『地方鉄道法』と同年8月13日閣令13号による『地方鉄道建設規程』に準拠して建設/開業している。それら法規に「信号場(所)」の直接定義条項は含まれないのだが、法の第15条、規程の第23条に停車場と並立して「信号所」との文言が在り、国有鉄道建設規程での信号場/信号所双方に相当する施設が私設鉄道線の「信号所」と知れる。
1969年3月29日の帝都高速度交通営団東西線の西船橋までの延長開業時に、駅としての開業を保留された現在の妙典は下妙典信号所を名乗っていたし、箱根登山鉄道の出山/上大平台/仙人台はそれぞれ信号所であり、美唄鉄道には東美唄信号所が路線廃止まで存在していた。鉄道会社によっては、それを信号場と呼称していた例も在るのだが、あくまで法規上には「信号所」であった。
この鉄道線上の同一ないし類似機能の施設に対して、国鉄の「信号場/信号所」に私鉄の「信号所」の混在が、一般社会に混同を招いた直接要因であろうが、そこでは区役所、保健所、営業所など施設名称に「所」を用いる例が大半であることを基盤に、国土地理院発行の地形図に信号場の「信号所」との誤記が多々在りながら、当の国鉄側も積極的に訂正を求めなかったことが、混用・誤用に拍車をかけたものだろう。それが鉄道趣味者にもフィードバックし続けているのである。
けれど、その並立時代も1987年4月1日に終わる。
国鉄の分割・民営化に際して、日本国有鉄道建設規程も地方鉄道建設規程も廃され、それは鉄道営業法第1条規定に基づいて定められた1987年3月2日運輸省令第14号の『普通鉄道構造規則』に一本化され、そこには「信号場」と統一して規定されたのである。したがって、現在「鉄道」路線上に「信号所」は存在しない。全てが「信号場」である。
誤用の生ずる余地は無くなったはずなのだが、鉄道に「 」を付したのには理由がある。極めて少数ながら、実は「信号所」も存続しているからだ。「軌道」路線上に、である。
1987年の普通鉄道構造規則でも、そして2002年3月31日を以てそれに代えて施行の『鉄道に関する技術上の基準を定める省令』(2001年12月25日国土交通省令第151号)でも「信号場」に統一されて消滅した「信号所」なのだが、道路への敷設を原則とする鉄道、即ち「軌道法」に準拠して開業した路線上に生き残っている。
この1921年4月14日法律第76号の『軌道法』にも、1923年12月29日内務・鉄道両省令の『軌道建設規程』にも「信号所」の規定は無い。けれど、『軌道法施行規則』(1923年12月20日内務・鉄道両省令)の第12条2項9号に「信號所ノ新設又ハ位置変更」との文言が在って、鉄道線での「信号場」相当施設を軌道線では「信号所」と称すると解される。
軌道法は、幾度かの改正を経ているものの、制定からまもなく100年を迎える今日に在っても現役の法規である。現行法規は2006年3月31日法律第19号による改正となっている。
現存の施設は、知り得る限りで名古屋鉄道豊川線の諏訪新道信号所に土佐電気鉄道伊野線に所在の市場前信号所と八代信号所の計3施設である。
名鉄豊川線は普通の鉄道と何ら変わらず、名鉄部内ではこれを駅からの格下げ以来、諏訪新道信号場と呼んでいる。けれど、ここは軌道法に準拠する線区ゆえ、法規上からは「信号所」である。全線が地方鉄道建設規程の準用条項の多かった、軌道法での「新設軌道」区間ゆえのことと推測し、諏訪新道信号場と云う名称の信号所と理解される。