函館本線 渡島大野-大沼間の信号場
 

函館本線の渡島大野-大沼間に存在した信号場について述べる。

ただし、以下が全て同時に存在した期間は無い。


仁山信号場

1936年9月15日と云う、早い時期の開設は、当時既に20パーミル勾配が5キロに渡り連続した本郷(現渡島大野)-軍川(現大沼)間が、その補機を要した運転時分と列車回数から輸送の隘路化していたゆえであろう。

本郷から3キロ、桟橋起点21K170M地点の20パーミル勾配上に交差分岐器を置き、本郷方/軍川方双方にスイッチバック線(折返線)を引き出した、本線列車は通過運転可能で着発線と折返線の区別を要さないスイッチバック式信号場の基本形態とも云える構造であった。ただし、本郷方スイッチバック線には本線と逆傾斜に10パーミルの勾配が付けられ、出発補助線の機能を有するものとされた。これは一般に加速線と呼ばれる急勾配線途上で停車した列車の運転継続のための設備で、非力な蒸気機関車が重量列車を運転する区間には不可欠なものであった。

この形態は、1943年に(期日不明)勾配の改良ないまま上下本線を並列する構造に改変される。事由は不明であるが、戦時下のこれは、陸運転換施策による列車回数増に対して、特に上り列車の退行運転回避による運転時分短縮にて線路容量の増加を意図したものと推定する。下りの退避に際しての出発補助線は当然に維持された。

これにて、停車場中心が軍川方に300メートル移動し、その位置は桟橋起点21K470Mの現況となっている。また、この際に現本屋の建てられたものと思われる。しかしながら、出発補助線は動いていないと考えれば、駅中心の移動距離はせいぜい150メートル程であり、300メートルの根拠は不明である。

なお、北海道旅客鉄道の発足に際しての本信号場の正駅格上げ時に付与された営業キロ程の21.2キロは、桟橋起点0K290Mの函館を基準にしたキロ程である。


熊の湯信号場

1956年の新峠下トンネルへの線路変更にて放棄された峠下トンネル通過線を、1962年7月25日に同隧道の改修と曲線改良にて復活させ、新峠下トンネル通過線と併せて軍川までの複線使用とした際、上下線の分岐のために熊の湯信号場が置かれた。詳細な位置は調べ得ていないが、上記の線路変更始点と同地点と思われ、滝の沢トンネル近傍の22K800メートル付近である。

この当時の法規(日本国有鉄道建設規程1949年5月31日運輸省令第15号)に従えば、単純な本線分岐ゆえ「信号所」とも思えるが、国鉄資料では全て「信号場」となっている。場内信号機が用いられ場内の存在したものか、運転扱い上から呼称を統一したものかは分からない。同日、ここには連動閉塞が施行されて通票の授受は廃され、分岐器は仁山信号場からのRC制御にて要員の配置は無かった。

七飯からの別線増設線-通称藤城線の開通にともない、新峠下トンネルへの分岐線ともども1966年9月30日を以て廃止された。


小沼信号場

小沼信号場は、アジア太平洋戦争戦時下の陸運転換施策に基づき1943年9月30日に開設され、僅か5年足らずの1948年7月1日付にて廃止されている。よって、痕跡は失われて久しい。

その位置は仁山信号場から3.7キロ/軍川へ2.1キロと記され、函館桟橋起点25K160M付近となり、峠下トンネル出口側の僅かなレヴェルと4パーミルの下り勾配の続く延長800メートル程の区間に場内の存在したものと思われ、1948年4月に米軍の撮影した空中写真に峠下隧道出口に続いて構内らしき用地と信号場関連と思しき建築物が確認出来る。

ここの現在線は山側へ膨らむ左回り曲線となっているのだが、峠下トンネルの1962年の改築時に曲線改良も合わせて行われたとの情報もあり、現状線形に待避線が並列していたとは判断出来ない。

なお、これの開設当時に到達する道路は無く、湖岸に孤立した信号場であった。

 
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