函館本線 石倉-野田生間の改良と線増
 

前史 - 北海道鉄道(初代)による建設と鉄道院による改良工事

北海道鉄道(初代)が、第三工区として着工し1903年11月3日に開通させた森-歌棄(現熱郛)間の内、噴火湾岸の石倉から野田追(現野田生)の区間は、迫り出した海岸段丘崖が海岸線を形成する地形が続き、線路はその段丘面上を通過していた。段丘崖を開削する土工を避けた線路選定であり、速成の要求されたゆえであろう。

段丘は落部集落の所在する落部川扇状地を挟んで二箇所存在し、それぞれに20パーミル勾配が介在することとなった。この急勾配は、国有化後の1913年10月に15.2パーミルとする改良工事が施工されたものの、輸送上の隘路には違いなかった。

石倉の下り方、今の八雲町栄浜茂無部から浜中への勾配は急曲線も伴っていて、その緩和も併せて行われた。これは住民の鉄道忌避により断念した落部の代替として、急遽石倉集落に停車場の置かれたために生じたもので、本来の計画経路はそれの手前より段丘上に達するものだったと推定する。これにて放棄された開業時の路盤は100年を経過して痕跡すら見当たらない。


戦時下における線増工事

アジア太平洋戦争戦時下の陸運転換施策による列車回数の増加に対応して、この区間には勾配緩和線としての複線の別線が計画された。それは、船舶燃料である重油の節約や徴用による船腹自体の不足を補う初期の陸運転換の目的によるものと思われる。

新設線は石倉から北海道鉄道の避けた段丘崖下開削により路盤を構築、段丘を第一/第二落部トンネルで通過し落部川扇状地に出て、落部川に架橋、第三落部トンネルで再び段丘崖下海岸線に至る、勾配を5パーミル以下に抑えた線形とされた。

1942年10月に複線断面の第一/第二落部トンネルから着工していたのだが、戦局の悪化から函館/室蘭本線への機関車1台牽引による1200t石炭列車運転の必要を生じ、急遽完成の急がれて単線での開通と変更されたのである。第三落部トンネル(l=578M)の単線断面での貫通はそれゆえだろう。

全線工事は1944年に着工され、突貫工事により1945年7月20日より新設別線を積車の石炭列車を運転する上り線、既設線を下り線とする複線使用が開始された。(以後、国鉄部内では新設線を海岸線、既設線を山廻り線と呼称した)

新設線は第一落部トンネルと第三落部トンネルで既設線と交差する線形のため、落部の前後区間では逆線運行となり、また落部駅は上下線それぞれに80メートル程離れて存在(八雲町史による。国鉄による駅中心位置では220メートル)する変則状態となった。

ここでも工事に強制徴用されたのは、韓国人労務者と中国人捕虜であった。韓国人が半島からの強制連行であるかの確証は無いようなのだが、そのタコ部屋労働、まして捕虜への労働強制は国際法違反に違いなく、日本近代史の汚点である。

(追記)

2013年8月10日現在の調査にて、1945年7月20日付での複線使用開始は、国鉄の公式史料の限りでなく落部-野田追間であり、石倉-落部間については、敗戦にて一旦工事を休止し翌1946年になって再開、その10月に新設線を使用開始した可能性がある。その間、新設線は現在の落部小学校南側付近で既設線より分岐していたものと推定される。


戦後の線増計画

1949年に発足した日本国有鉄道は、1955年度までに戦前の輸送水準に回復し、1957年度を初年度とする「第一次五カ年計画」を策定して、老朽化した施設や設備の更新に輸送力の増強、動力近代化を進めた。

この際に、上記の変則複線運転が続き、已然として下り列車には15.2パーミル勾配の存在し牽引定数の750t(補機使用、1台運転では480t)に制限のあった石倉-落部間について、ほぼ完成していたと思われる新設線の複線路盤を活用した腹付け線増が行われ、1958年12月10日よりこの区間の新設線による複線運転が開始された。

段丘上の老朽化した既設線への重軌条化などの投資を避けたものだが、これにて既設線は野田追までの全区間が廃止され、落部-野田追間は新設線のみによる単線運転に戻ってしまう。第三落部トンネルが単線断面につき、新トンネルの掘削を要したためである。

この区間の再複線化は、函館/室蘭本線の大部分が対象とされた1965年度からの「第三次長期計画」により、1945年開通線の山側に新第三落部トンネル(l=698M)を掘削し、段丘崖直下についても山側への腹付け線増として、1968年9月21日に複線運転に復した。

これにて石倉からの新設線は既設線を124メートル短縮し、71K316M地点にそれを71K634Mに読替える距離更正点が設けられている。


旧線

前記のとおり、1958年12月10日に使用を停止した鉄道開通時からの線路は、栄浜から東野までの区間が1963年に1級国道5号線に転用され、痕跡は現存しない。転用当時には鉄道路盤を拡幅したのみの砂利道であり、舗装と改良の行われたのは1964年から1967年にかけてであった。

転用区間外では、70年代の終わり頃までは、石倉を過ぎて右回りのR500曲線の始まるあたりから国道へと上って往く路盤跡がはっきりと確認出来たけれど、その後に法面改修も行われ判然としない。野田生方のそれは、駅手前に国道から直進する道路(町道)として現存しているのが、車窓からも見て取れる。


落部停車場

落部駅の開駅は1911年8月5日と記録され、鉄道開通から8年程の時差を生じている。これは、山越内の関門を経て遊楽部の東蝦夷地と箱館・松前間を結ぶ交通路に在って宿場として発展していた落部集落に、当然ながら北海道鉄道は停車場の設置を計画しながら、村民の反対運動により断念したものを、1907年に政府が落部御料林の40年輪伐と付近の官有地への入植を許可したことから、輪伐材の搬出ならびに開拓地への物資輸送のため停車場開設を要した結果である。

国策そのものとも思えるが、駅の設置は1909年の村民からの請願運動によると「八雲町史」は書いて、反対運動を繰り広げた村に請願をさせる意趣返しに見えぬでもない。

海岸の落部集落を避けて内陸へ迂回した線形も反対運動の結果とも取れるが、これは海岸段丘から降下する勾配の関連であろう。

この旧線落部駅の本屋位置は現在の八雲警察署落部駐在所付近と云われており、その周辺の国道5号線と函館本線に挟まれた一帯が構内であった。増設線上には当初乗降場のみが設置され、ここにも本屋の建てられたのは1945年10月に至ってからの模様である。

これにて1945年から1958年まで上下別駅となり、構内も広く貨物扱いも旺盛な時期ゆえ地方小駅に似合わぬ程の職員が配属されていた模様で、助役だけでも6・7名の配置のあったと云う。駅位置は、既設線上の函館桟橋起点66K360Mに対し新設線上では66K140Mであり、これが現在に引き継がれている。

なお、開通時に断念した本停車場の代替に設置されたのが石倉停車場である。


付記 - 疑問

1976年に国土地理院の撮影した空中写真に、落部川橋梁と第三落部トンネルの間で上下線を連絡する小道が見て取れる。その鉛直方向からの形状は鉄道路盤跡に思えてならない。

ここに上下線連絡線の存在した記録には出会っていない。謎の小道である。


=参考文献=

北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981

札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977

鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972

新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968

北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992

改訂八雲町史 : 八雲町 1984



 
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