キハ80系特急形内燃動車の車両の向きと編成組成
 

キハ80系気動車の車両や運転の解説記事があまり触れない、制御/給電回路とそれにて限定された車両の組成方向に就いて述べる。


80系気動車は、特急列車には不可欠であった食堂車を挟み、その前後で編成各車の後位側(乗降扉のある側)が相対する組成形態を基本としていた。キシ80の前位側(食堂室側)にキロ80、後位側にキハ80-3両が後位を向け合っての7両組成(当初はキハ80-2両の6両)である。 これは、編成を引き通される制御回路と電源供給回路を食堂車にて交差させることで、他の編成各車は全て回路が片渡りの同一設計車とする設計思想に基づくもので、設計/構造の簡素化ばかりか、これにより各車の乗降扉位置も揃い、特急らしい編成美を生み出していた。初の客車ではない特急車両である151系特急形電車(登場時は20形系列、後の181系)の設計にて採用された考え方で、同時代の80系気動車にも受け継がれたものである。

基本の7両は、キハ82に搭載の電源供給設備の給電能力が食堂車を含む3両(自車とも)、含まない4両(同)の設計により、これを越える組成には中間にキハ82の組込みを要する。

また、1965年度に現れた<くろしお>や<白鳥>編成のように基本7両にキロ80-2両の組成を考慮して、キシ80内で調理用と一般用電源回路分離を可能とする配慮もなされている。

このため、本系列編成にキシ80の組成は不可欠なのだが、最初の事例として1962年10月改正で<おおぞら>に増強された旭川編成のごとく、それを組成しない運用の出現を予想してキロ80の北側(後位側)は両渡り化が容易な構造で設計され、キハ80/82の後位側と連結を可能としていた。(キロ8043以降については新製時より両渡りである)


なお、編成内で組成車両の向きが異なるため、検修現場においては便宜的にキロ80の後位側を北側、キハ80のそれを南側と称し、編成の向きについてもこれに準じて呼称していた。これは、この系列の嚆矢となった<はつかり>がキロ80をキサシ80の上野側とした編成で東北本線を地理的に南北に運転したことに由来する。(余談ながら、151系電車では<こだま>の東海道線から、それは西側/東側であった)


先に述べた7両を越える組成であるが、1964年3月改正で博多発着に延長された<まつかぜ>の米子回転のごとくに、当該附属編成を基本編成の北側に組成する場合には問題はないが、1965年10月改正で設定の<北斗>で実施されて以降、道内特急の定番となった南側への附属編成連結による編成増強では、この車間渡りの関係からキハ80の方転を要していた。

函館区ではキハ80に向きの異なる車両が混在し、検修設備上と運用上に煩雑を生ずるばかりか、予備車も別に確保せねばならないなどの非効率により、72年3月改正にて附属編成車の方転を廃してキハ82後位側の車間渡りを両渡りに改造して対応とした。

しかし、乗降扉の位置が偏るなど旅客案内上の問題からか、75年頃以降には再び方転車を存在させて限定運用を組むようになっていた。


本系列の最末期の 85年3月14日改正以降に<おおとり><オホーツク>で見られた、キシ80がキハ82の次位となる変則編成は、183系運用による<オホーツク>と旅客案内上から組成順位と乗降扉位置を極力合わせるための措置と思われ、キロ80とキシ80を方転したものなのだが、この際にこの2形式の組成順を変更してしまうと、キロ80の南側がキシ80前位と連結なり渡りが逆向きにて回路が繋がらなるために現れた編成である。

 
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