植苗-沼ノ端 (千歳線) 2012

&  Ektachrome Years

2012

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美々川は、石勝線駒里信号場に程近い畑作地に切れ込んだ低い崖下からの湧水を水源とし、湿地帯を形成しながら蛇行を繰り返して南に流下しウトナイ湖に至る。そして、そこの南岸から溢する流れも美々川と呼ばれるのだが、1キロも往かぬ地点、千歳線上り線と室蘭本線を交した下流で旧勇払川が合流すると、勇払川と名を変えてしまう。その事情については、勇払川に関連して前にも書いたことがある。→勇払 (日高本線) 1988


そこには、流路の判然としない程にウトナイ湖の周辺湿原が伸びていたのだが、ここを通る車窓には年々ハンノ木と思しき樹木の繁殖と成長が見て取れて、湿原の乾燥化を感じていた。それは、ここに限ればウトナイ湖の水位低下、面積の縮小によるもので、明らかに70年代から西側で行われた排水工事/土地造成による人為的な結果であろう。

ここへは、橋梁が樹木に覆われる前にと、数年振りで訪れたのだけれど、ごく最近に河川改修と排水路工事が行われたものと見え、湿地の東側は整地されて完全に失われていた。西へ追いやられた流路も、かつての湿原の中の滔々とした流れを喪失して淀むばかりなのだった。


写真は、千歳線下り線の勇払川橋梁上の8002列車<トワイライトエクスプレス>。

残された湿原を前景とするには、この画角しか切れなかった。これとて湿地とするにはススキの原に過ぎ、樹木が列車を隠すのも時間の問題だろう。連日の悪天の中での秋空が救いだった。


ところで、沼ノ端 (千歳線) 1992に書いた、ここで20年前に拾った猫の3兄弟のその後である。

以来、思い出したように連絡を取っていた同級生によれば、黒猫の雄は、好奇心の旺盛だったものか事故で急逝してしまったらしい。バックパックに詰め込んでの移動の時、その底まで潜り込んでしまい「落としたか!」と焦らせたのは、確かにこの子だった。

ホルスタイン柄の雌のひとりは里親の転居で99年以降は消息不明だけれど、その先が関西と聞けば、道産子猫の命脈をかの地に伝えたものと思う。江別に引き取られたもうひとりの雌猫は、美々川から「ぴぴ」と名付けられ数年前に天寿を全う、今もその子孫が同家に健在と云う。


[Data] NikonD3s+PLANAR T* 50mm/F1.4ZF   1/1000sec@f4    C-PL filter    ISO320 W.B. 5560    Developed by CaptureOne5 on Mac.

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七飯 (函館本線) 2012

函館本線の下り優等列車と貨物列車は、七飯から仁山付近に連続する20パーミル勾配を避けて別線を往く。通称-藤城線である。


1949年に公共企業体として発足した国鉄は、アジア太平洋戦争戦時下にて疲弊した設備の復旧に務め、1955年度までには戦前の輸送力を回復するに至り、増大の予測された輸送需要に対して1957年度から61年度を期間とする「第一次五カ年計画」を策定し、老朽施設の更新や幹線輸送力の増強を推進した。

1961年10月に実施の全国白紙ダイヤ改正がその一定の成果であり、道内に於いても特別急行列車を含む気動車による優等列車網の整備と到達時分の短縮がなされ、青函連絡船の大型船腹への更新を含む貨物輸送力の増強が行われた。けれど、これらは増発にかかわる搬器(車両)への投資とそれの運用効率向上によるものが中心であり、この計画期間中の地上設備増強は、室蘭本線の石炭輸送区間に単線にて残された敷生(現竹浦)-苫小牧間32.3キロの線増が進められ室蘭から三川までの複線化が成った程度であった。

対して、1961年度の道内貨物輸送量は、1956年度を100としたトンキロベースで129の伸びを示して、秋冬の繁忙期には駅頭に滞貨を生ずる状況や、旅客輸送も道内の特殊事情である夏季多客輸送や年末始のピーク輸送時の激しい混雑ともども、本改正にて緩和されるものでは無く、青函航路継送輸送力指標となる渡島大野-軍川(現大沼)間の列車回数も、これにて(単線の限界とされる80回を越える)100回に迫るものとなっていた。  


幹線の輸送力増強は道内に限らず全国的な課題でもあり、国鉄は1961年度を初年度とする「第二次五カ年計画」にてこれに対応し、戦時の陸運転換施策により突貫施工された僅かな区間で複線(砂原回り線含む)が稼働していたに過ぎない函館/室蘭本線の函館-本輪西間についても、これにて計画され、当面の隘路であった七飯-軍川間から着手されたのである。

同区間の線増は、渡島大野から峠下トンネルまでに連続して補機を要していた20パーミル片勾配の緩和と併せて下り列車専用線としての別線にて行われ、1966年9月30日に使用を開始した。七飯での平面交差を避けて左に分岐し、渡島大野への既設線と畑作地を長い高架橋で乗り越して藤城・峠下集落上方の斜面を新峠下トンネルに至る線形は、10パーミルの標準勾配を維持する経路選定による。


その1963年の着工から3年足らずの工期は、この別線を成す相当区間の構築物が戦時下および1956年までに完成していたからに他ならない。この区間の勾配緩和計画自体は戦前の早い時期から存在し、着工されていた事実がある。

それは石倉-野田追(現野田生)間の海岸段丘通過に介在していた15パーミル勾配を解消する新線と、大沼-森間で駒ヶ岳の裾野を越える20パーミルを回避する砂原回り線とを併せ、戦時下の陸運転換に応じた貨物列車の函館-岩見沢間上下でのD51ないしD52の1台運転による1200t牽引の実現ため計画されながら、突貫工事にて1945年までに使用を開始したこれら区間に対して、トンネル掘削に時間を要したものか、1200t列車が主には上りの石炭輸送であったゆえ優先順位の低かったものかは分からないが、工事途中にて敗戦を迎え開通に至らなかったのである。

(この項 七飯 (函館本線) 1971に続く)


写真は、藤城線の核心である七飯高架橋を往く3063列車。

背後には北海道新幹線の高架橋が既に立ち上がっていて、それの目立たぬ夕刻を以て最善とする。


[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D    1/250sec-f6.3    Non filter    ISO640     W.B. 7700    Developed by CaptureOne5

Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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山越-八雲 (函館本線) 2012

道南、八雲町域は温泉地帯でもある。落部川上流山峡の銀婚湯が高名だが、その近隣には上の湯も湧出し、野田追川の上流約15キロには桜野温泉が、遊楽部川支流の鉛川を遡れば旧遊楽部鉱山近傍に八雲温泉が、それぞれ盛業中である。何れも自然湧出していた地に後にボーリングを行って高温の湯量を得ている。

これら山間地ばかりでなく、噴火湾沿岸の山越周辺にも温泉湧出の記録はある。

現在の山越漁港近くの境川下流に冷泉が湧出していて、これを利用した久保田温泉が1951年まで営業しており、山越郵便局近隣には1928年から1940年まで山越温泉が存在して、噴火湾漁業の最盛期にあたり、どちらも盛況だったと云う。

戦後に八雲町が山越駅より1キロ程八雲寄り、浜松地区の国道山側を買収して1958年に試掘し、1960年に民間によって掘削され、地下357メートルより泉温41.6度で96L/分の食塩泉の湧出を見たのがコタン温泉である。その斜面に建つ赤い屋根の建物は函館線の車窓からも良く見えていたのだけれど、いつのまにか廃業してしまった。1972年に近隣をボーリングして源泉を得た「ホテル浜松」、後の「温泉ホテル光州」に吸収されたものと思う。

そこに現在建つのは、2001年開業と云う「温泉ホテル遊楽亭」なのだが、上記との関連はわからない。大規模な宴会場や結婚式場も設備して、八雲ローヤルホテルの廃業後にこの地域のシティホテル機能も代替している。

なお、温泉名は浜松温泉と呼ばれているようである。


1971年に牧草地を疾駆するD52を撮って以来、度々降りている区間なのだが、そこは宅地へと姿を変え、並行する国道沿いにも商業施設が増えてすっかり撮り難くなってしまった。

野田生で内陸へ向かった函館本線が再び海面を間近に見る浜松の海岸も、列車の下回りを隠すような護岸に更新されて、撮影地としては末期の様相であった。

霜の降りた初冬の寒い朝。列車は、8001列車<トワイライトエクスプレス>。

後に、浜松温泉「遊楽亭」が見える。


=参考文献=

改訂八雲町史 : 八雲町編 1976


[Data] NikonD3s+Ainikkor105mm/F1.8S   1/500sec@f11   Non filter    ISO320 W.B. 5200    Developed by CaptureOne5 on Mac.

 
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