広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1996

&  Ektachrome Years

1996

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屋内撮影が大半だった仕事写真のエクタクロームフィルムを、鉄道撮影で屋外に持ち出してすぐに気がついたのは、EPR以来の隠し味的なシアン系発色は紫外線の豊富な逆光下での遠景など一定の条件にて増幅され、それに転んでしまうことだった。当時に常用のEPPはまだしも粒状性の改善されたPRP、そしてE100Sとその傾向は強まり、発色の高彩度化との関連は明らかに思えた。EPNへ戻ることも考えたが、その粒状性は35ミリには時代遅れでもあった。

もちろん、SCやCCフィルタでの補正に試行錯誤したけれど完全な回避には至らずにいる。


加えて、エクタクロームは環境の色温度に、ことさらセンシティブでもあった。

光源の種類が知れて色温度を計測しておけば、或る程度の予測は立って一定のLBフィルタを使い分ければ良かった仕事写真に対して、自然光下のそれは変動するからデータを採りながら経験を積むことになる。

難儀だったのは降雪ないし降雨中の日出/日没時間帯だった。肉眼には明確でないのだが、天空雲上での太陽高度と雲の動きにより色温度は絶えず変動することがあり、5分前の列車への補正不足は、その5分後に補正過剰もあれば、まったく同じ天候に見えても色温度には大差の生ずることも多々あった。それこそ1分毎に色温度を計測し、フィルタホルダを差し込み式に替えて迅速対応するしかなかった。


写真は、第一広内トンネル入口側から続く12パーミルを上る9070列車。これはコダクロームでの撮影である。

これら、紫外線への反応や色温度変動に一定の耐性を持っていたのがコダクロームフィルムだった。エクタクロームの時代は、この使いたくても使えない難儀なフィルムと向き合った頃でもある。


オダッシュ山東側山麓の緩い傾斜地には、1947年に北海道立新得種畜場が置かれた。この緩斜面の大半を占めるその用地規模は実に広大で、この年に米軍の撮影した空中写真には、既に現在の新狩勝信号場付近にまで達する範囲に碁盤の眼状の農道が開かれているのが見て取れる。

狩勝新線は新狩勝トンネルから新得山トンネルまで、そこをほぼ360度回転する曲線を含む線形で通過して、旧線とはまた違ったスケール感を見せることになった。

かつては、ここを往く普通列車が信号場に停車して、新得からの足は確保できたのだが、そこからは、広大な用地の直線だけれど大きな起伏のある農道を延々と歩かねばならない撮影地であった。

無雪期はそれで良いにしても、初めての冬の季節には、そこをラッセルしての行動か線路歩きで到達可能な範囲での撮影を覚悟して信号場に降り立ったのだけれど、意外なことに全てではないにせよ、主要な農道は場内全域に渡り除雪されていたのである。信号場への往来に国鉄からの要請もあったのかも知れないが、それと無関係な区間も含まれていた。

これは後にも変わらず、おかげで信号場に下車出来なくなった後も、大方の位置には冬期間でも自動車でアクセス出来る。ここへは、新得のタクシーに「試験場の斜めガード」と告げれば連れて行ってくれた。


[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED   1/250sec.-f5.6+1//2   Fuji CC5M filter   PKR    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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北舟岡 (室蘭本線) 1996

稀府-黄金 (室蘭本線) 1998 の Kodachrome film を続ける。


コダクロームには高感度のPKL/KLがあった。主には高速シャッタを要するスポーツ写真分野向けに開発されたもので、シリーズで最後にラインナップされながら、その特殊性から最初に販売中止となったフィルムでもある。

これは、仕事写真にも用いたことがある。高感度ゆえの粒状感を逆用するだけのことだけれど、それでも外式フィルムの鮮鋭度を見ればEPNを上回って、ザラつきながらも独特のシャープな表現には最適だったのである。


リバーサルを鉄道撮影に持ち出すとTri-XのISO320減感に慣れた露出勘には、64や100の感度にリハビリが必要で、当初にはEPLやこのPKLを試していた。前者は発色が気に入らずに早くに脱落したけれど、PKLはだいぶ後まで、PKRと併用して早朝・夕刻の感度の必要な場面に使っていた。

発色はPKRとは真逆にマゼンタに転び、それはかなり強いものだったのだが、PKRほどに乳剤毎のバラつきは無かったように思う。中には、夜間のバルブで蛍光灯補正の必要のまったく無い乳剤があり、それでの夜景発色が気に入ってそのエマルジョンナンバーを買い集めたこともある。彩度もPKRに比べれば乗り気味に感じられ、それの高感度版と云うより別のフィルムであった。

けれど、エクタクロームのE100S/SWが発売となり、これのISO160露光の0.5EV増感現像を常用とするに至れば、ISO400への増感でも粒状性にカラーバランスも許容範囲にあったから、PKLの出番はなくなったのだった。


さて、これをスキャニングにてデータ化してみれば、粒子のザラつき感は十分に補正可能なレヴェルにあった。鮮鋭度はPKRに劣らないから、実用上それと同等の画質が得られたのである。ならば、これでもっと撮っておくべきだった、と些か後悔している。

写真は、薄明の噴火湾岸の6003列車<北斗星3号>。

黎明時間と通過時刻から選んだ1月半ばの時期なものの、8001と1列車には露出不足で30分後の6003列車で得られたカットである。背後の稀府岳からの吹き下ろしの凄まじく、夜明け前のここに立つのは憚られるほどだった。

食堂車では乗組員が準備に忙しいはずなのに、この朝はテーブル側に灯りが入っていない。

既出の画角だが、PKLでの撮影にてご容赦いただきたい。


[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED   1/125sec-f2.8     Fuji LBA2+CC0.5G filter   PKL     Edit by CaptureOne5 on Mac.

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山越 (函館本線) 1996

2011年度末の住民基本台帳によれば、八雲町山越地区の人口は155世帯/373人と在り、それは熊石町との合併前の旧八雲町区域のそれぞれ2パーセント余りに過ぎない。

けれど、東蝦夷地を直轄地とした徳川幕府が、1800年4月にここを「蝦夷の境」とし翌年に山越内関門を設置してからの、およそ100年間はこの地域の中心地だったのである。


関所の置かれ幕府の要衝とされたことで、従来からの会所は拡張され、ユウラップの場所(交易所)は山越内場所と呼ばれ交易の中心地ともなった。(ここでは触れないが、この交易は一方の側の先住アイヌ民族から見れば、収奪/略奪以外の何者でもない)

必然的に宿泊や飲食の施設も進出して多くの人々を呼び寄せたであろう。江戸との間に箱館を経由地とする航路も開かれていた。幕府は酒造場も設け、下北大畑から酒造集団を呼び寄せたと云うから、多くの人口を抱える都市の出現したのである。精米の水車を架けた水流に酒屋川の名が残る。諏訪神社の創建もこの頃とされる。

政権が明治政府に移譲された後も、引続きその地方機関や行政機関の置かれたのだったが、1890年に国道が開削されると、「渡し」を要していた落部/野田追/遊楽部の各河川への架橋をともなったことにより、それらは地理的な中心に位置した八雲村へと移転して往き、1903年の北海道鉄道(初代)による鉄道開業以降には山越停車場の設置されたものの、繁盛していた旅人宿の多くが廃業に追い込まれ、都市としては衰退したのだった。

さらに100年を経てその痕跡を認めるのは困難である。


山越駅が三代目の駅舎に改築されたのは1989年10月のことであった。要員配置の無くなった後だから駅本屋としての改築でなく単なる待合所の設置である。

それは、往時の「山越内関門」の施設を模したものとされた。「模した」は言い過ぎで「それ風の外観とした」が正しく、云うなれば「なんちゃって」建築である。

こればかりか、その国道向かい側のバス待合所も、本来の関所跡地近くに建てられた公民館兼消防団の資材庫も同様で、どれが先行したものかは知らないが、悪乗りの範疇としか思えない。駅舎内に掲げられた時刻表に運賃表が、何と橘流の「寄席文字」で出力されていたのも「ご愛嬌」では済まされまい。

石倉や黒岩とも共通の幹線小駅らしい駅本屋を知っていただけに余計思うのかも知れないが、輸送機関は実直であるべきで、意匠を導入するならば委細の検証を経た「本気」を要することの反面教師的好例である。ダルマよりはマシか、と思い直しもするものの陳腐な印象は消えない。


写真は、噴火湾に昇る朝日を浴びて山越を通過する3057列車。

かつての場内外れからの画角だが、引きが取れる上に中線が撤去され駅間を思わせるロケーションは中丿沢と同様である。ここでも下り線側に通信線が無い。


=参考文献=

改訂八雲町史 : 八雲町 1983


[Data] NikonF4s+AiNikkor135mm/F2.8S   1/250sec@f4    Fuji LBA1+CC0.5G filter    PKL    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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東室蘭 (室蘭本線) 1996

東室蘭操車場は、アジア太平洋戦争末期の1942年に着工して同年内に一部の使用を開始し、43年に本線抱き込み型の平面操車施設として全面使用、44年の東室蘭既設構内の改良と合わせて完工し、その一日の操車規模は1300車であった。これは、対本州間の物資輸送を陸運転換の措置により青函間に集中するに際して、それまで既存の東室蘭駅構内設備で行っていた操車作業が限界に達すると予測され、且つ拡張の余地の無いことから、それを岩見沢方の鷲別地区に求めたものである。

戦後に急増する輸送需要に対しては、1962年には作業効率の向上を図るべく、上下別にて櫛形配線となっていた仕訳線の後方も結び、合わせて構内を拡張する改良がなされ、操車能力は一日あたり2300車となった。

ここでの貨物扱い設備の併設されることは無く、それは引続き東室蘭既存構内東側の施設が使われた。依って建設規程からは操車場に違いないのだが、国鉄の部内規程である「日本国有鉄道組織規程」では独立した現業機関とは見なされず、東室蘭駅の一部であった。駅構内の拡張と位置づけられたものである。これは、五稜郭に岩見沢も同様で、現業機関としての操車場は新鶴見や吹田、高崎等に限られていたのである。同じく部内規則の「貨車輸送手続き」では輸送上地区ヤード(地区指定組成駅)に指定されていた。これも道内での基幹ヤード(本社指定組成駅)は五稜郭のみである。

それでも、197平方キロメートルの用地を有し、構内延長は、1.9キロ先に1901年から存在した鷲別駅の乗降場を上下分離させるに至った堂々足る操車場であった。運転上は東室蘭と区別して運行図表にも東室蘭操車場と記されていたのは周知のとおりである。

ここには開設間もなくに貨車検修設備も置かれ、それは1950年2月10日付にて東室蘭貨車区として独立した現業機関となっていた。


ヤード集結輸送の全廃された1984年2月1日改正を以て上下の仕訳線群の使用を停止し、貨物列車着発と鷲別機関区への出入区、苗穂工場輪西職場(現鷲別機関区輪西派出)との入出場貨車の操配と本輪西発着列車の中継に関わる機能のみが残された。

東室蘭貨車区は85年3月14日付で苫小牧客貨車区東室蘭支区に格下げの後、86年11月1日付で書類上廃止され、施設は新設の鷲別機関区東室蘭派出として引き継がれたものの、88年度内に作業を輪西派出に統合して撤去に至った。

社会的情勢により永らく放置されていた旧構内では、93年初めより国鉄精算事業団による大規模基盤整備事業が始まり、96年10月9日を以て下り仕訳線群跡に東室蘭駅東口貨物施設を移転して着発線6線と仕訳線10線を持つコンテナ扱施設が稼働した。コンテナホーム北側に接した着発線の1線は直接荷役が可能である。これに先立っては、東室蘭駅の配線は数次に渡って引き直され、最終的に抱込み型であった上り本線の下り本線側への移設が行われた。

日本貨物鉄道の現業部所(後に室蘭総合鉄道部)に営業フロントも同所に移転して「東室蘭駅(貨物)」を名乗るが、独立の停車場ではなく、北海道旅客鉄道に所属する東室蘭駅の一部である。運転上は引続き東室蘭操車場とされている。


写真は、操車場構内南側の上り本線を旅客構内へ進入する、夕暮れの8002列車<トワイライトエクスプレス>。

それの下り本線側への移設数ヶ月前の撮影である。


[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8    1/125sec.@f4-5.6  Fuji LBA2 filter   PKL    Edit by CaptureOne5 on Mac.

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島松 (千歳線) 1996

夢空間車との通称は、オロネ25/オハフ25/オシ25の900番台、その3形式-3両の計画・新製時からのものではない。それは、89年に横浜市みなとみらい地区を会場に開催された「横浜博覧会Yes'89」への東日本旅客鉃道のパビリオンとして根岸線桜木町駅東口広場で展示された際の出展名称「夢空間'89」に由来している。当時の同社発表資料には次世代寝台特急用客車と記されていた。

この3両の新製は、1986年より国鉄部内で進められていた、88年の Nostalgie Istanbul Orient Express 編成(NIOE)の国内運行計画にインスパイアされてのことで、その製造期間からも綿密に設計の検討された形跡は見られない。走り装置に車体を24系客車の基本設計に依存し、接客設備をNIOEに範を取ったに過ぎなかった。

青函トンネルの開通による旅客誘発効果にて、3往復の北海道連絡寝台特急をはじめ海峡線列車が高い乗車率を維持し、道内への観光入込み客数を押し上げていた好景気が背景に無ければ、承認されることのなかった新製計画に思える。後に破綻に至った所謂バブル景気の申し子呼ばわりの所以である。


趣味的な興味も、これらが展示を主目的に新製されたところにあり、東急車輛と富士重工から直接に桜木町に搬入されたオハフ25とオシ25に至っては本線走行をしないままに、即ち走行試験のないままに車籍登録がなされている。

89年10月1日の展示終了後には全車が東急車輛に陸送され、ここで整備の後に尾久客車区に回送された。配置区所での在車は新製以来実に7ヶ月目にしてのことになる。そして、同月25日に池袋-日光間に運転の「鉄道デザイン会議」レセプション列車として14系座席系列の団体輸送向け改装編成(SER編成)との併結にて初の営業運転を行なったのだが、これへの組成も言わば関係者への展示公開が目的ではあった。

この直後には再び陸路搬出され京葉線海浜幕張駅前で約10ヶ月間の展示公開が行われた。90年9月24日に浜川崎で復線し翌25日に帰区すると、11月1日に今度は「国際鉄道安全会議」のレセプション参加者輸送列車として前年と同様の区間、編成での運転がなされたのだった。ここまでの1年半の間に一度も一般旅客営業に投入されていないのは新製車両としては異例であり、記録されて然るべきものと思う。

89年の桜木町展示中の時点では、オロネ25を所要数製作しての<北斗星>投入も検討されたのだが、他の同列車運用車との経年差などの諸事情にて見送られた経緯がある。その個室式A寝台(販売名-ロイヤル)を越える個室寝台の構想だけは、1999年度初頭に新製されたE26系客車に引き継がれたとの見方も出来そうだ。96年に公開されたこれの寝台設備の最初のモックアップには、A・B寝台の各種個室が用意され、<北斗星>編成のアップグレイドが前提と見て取れたからである。


写真は、短いルルマップ川橋梁への下り込みを往く9010列車<夢空間北海道>。

夢空間車の一般旅客営業は、90年冬臨設定の<北斗星トマムスキー>への組成を最初の事例として、以後北海道連絡列車を主体に東北方面、北陸、山陰地区への運転実績がある。<夢空間北海道>の列車名は94年から96年までの秋臨設定に限って付されたもので上野-札幌間のほか根室本線池田着発での運行もあった。95年からは博多<あさかぜ>の廃止にて余剰となったスハネ25 700番台(通称-デュエット車)やオハネ24 700番台(同カルテット車)も組成していた。写真での電源車は青森所のカニ24にて銀帯である。

なお、9009・9010は、予定臨ダイヤ8009・8010の大宮-白石間を<カートレイン北海道>と共用したもので、それと同時刻であった。よって牽引機関車仕業も重連とはならない。


[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S   1/250sec.@f4+1/2     Non filter     Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push]

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千歳 (千歳線) 1996

スキャニングと云う作業から見ても、Kodachrome は難題だった。

その外式発色現像の結果としてのポジはスキャニングには向かない構造なのである。とは云え、それのスキャニング需要は存在するから後発技術であるスキャナ側で対応する他無く、専用のパラメータの用意されているスキャニングソフトウェアも在る。それとて「対応」を果たしたまでで、このフィルム独特の色合いの再現を保証したものではない。

これは、当のKodak社のHRU scannerにせよ、imacon社のFlexTight scannerでも同様であり、極めて自然な再現を得られることもあるのだが、多くのカットでRGB/CMYのどれかのバランスが崩れてしまうのである。特にコダクロームブルーと呼ばれる青色系統の深みも捉えるのは困難で、データ出力にせよ、プリントにせよ、Photoshop上で近い発色を創り出さざるを得ないのは、これでの撮影の意味を半減させてしまうことになった。

ディジタル処理なぞ考えられもしない時代の技術であり、やはり製版カメラでの取込みを前提にした印刷出力向けのフィルムなのである。

付記すれば、Digital ICEも使えないから後処理に一工程余計な手間を要するのも、このフィルムである。

以外なことに、その学術向けとも云われる仕様からか、最も忠実な結果を得られたのはCreo社のEverSmart Supremeで、Kodachrome向け設定も必要としないフラットベッドスキャナなのだった。さすがにウン百万の機材と言いたいところだが、スキャニング速度は異常に遅くて何十カットも続けて取り込みたい機材ではなかった。


写真はPKLでの撮影、FlexTightで取り込んでいる。朝日の散乱光と言う特殊な条件なのでマゼンタ方向への発色を補正せずに撮影したのだが、日陰の積雪部分ほかにスキャニングでどうしても原版に無い緑カブリが出てしまい、部分毎に修正レイヤーを重ねて補正している。


この朝の千歳は放射冷却にて極度に冷え込み、ダイヤモンドダストを生じた。朝の低い斜光線は空気中の細氷にて散乱して一面を陽光に染め、ピントが甘く感じられるのも、そのためである。機関車の前照灯にも影響が見て取れる。効果フィルタを装着したのではない。

列車は4095列車。

当日の夕刊は「今朝の千歳氷点下22度」と報じていた。


[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji SC42filter PKL Edit by CaptureOne5 on Mac.

 
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