西中 (富良野線) 1976

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1976

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近頃、旅をしていて食事に困ることが多くなった。


早朝に夜行で到着するか、まだ暗い内に宿を出て撮影行動に入り、日暮れまで人里離れた辺鄙な場所で過ごして、そして翌日の行動のために移動するか、もしくは現地に泊まる。

これを毎日繰り返していたのが、北海道の撮影行だった。

まる一日重い機材と行動しているから、余計な歩きはしたくない、すなわち駅からは離れたくないのである。したがって、食事は、駅弁屋か構内営業の立食いそば、せいぜい駅前の食堂が頼りであった。


ここ10年くらいだろうか、このセオリーが通じなくなったのだ。

駅弁売店やそば屋は、札幌行き最終の特急発車までの営業。それの出て行った駅は閑散とし、駅前の食堂とて午後6時ともなれば店仕舞してしまう。

道内夜行も、末期には始発駅で乗車しない限り「朝までエサなし」を覚悟せねばならなかった。

かっては、その停車駅、岩見沢や旭川は勿論のこと、深夜の富良野、帯広、遠軽などでも駅弁の立ち売りがあり、駅そばスタンドも営業していたものだ。駅前でも、連絡船やフェリィの接続する函館や稚内に限らず、釧路や北見でも夜行の到着に合わせて開店する多くの食堂があった。

それだけ、鉄道での長距離移動、まして夜行でという旅客がいなくなった訳だ。


富良野の乗降場にはタイル貼りで円筒形の駅弁販売所があって、深夜でも売り子が詰めており、特にしばれる冬場には、赤々としたストーブの上の蒸篭で蒸した暖かい弁当を提供していた。


写真は、西中から中富良野方向の雪原の夕暮れ。

夏には水田の広がるだけの平野だが、冬ならば「絵」になる。後年観光地化するラベンダ畑は、画角外右手の丘陵地にあたる。

持参の水筒の水がしっかり凍り付いてしまうほど寒い夕刻だった。

帰り着いた富良野で購入した幕の内弁当の暖かかったことを、よく覚えている。

列車は、655D富良野行き。


[Data] NikonF2A+Nikkor35mm/F2   1/125sec-f5.6    Non filter   Tri-X(ISO320)   Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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鹿越信号場 (根室本線) 1976

札幌 (函館本線) 1976

奥白滝の駅名標には、上り方駅名に、この時点で駅ではなくなっていた「かみこし」とあった。本来ならば「なかこし」と表示されるはずだが、ローマ字表記部分で、SS-KAMIKOSHIとして、SS=Signal Station と「信号場」を明記している。信号場を隣駅とした駅名標は、あまり例がない。

上越は、道内時刻表にもキロ程-68.6キロを削除した上で引き続き掲載され、普通列車の全てが停車して客扱いする実態は変わりがなかった。


同線の常紋信号場も一度も駅であったことは無いが、ここも同様であった。スウィッチバックしない、すなわち着発線に入らない列車には通過線上に乗降台が設けられていた程である。着発線に入れば、乗務員に頼んで急行列車から降ろしてもらったこともある。

蒸機撮影に高名であったせいか、臨時駅として全国版の時刻表にも掲載された時期があり驚いた。ご記憶の方も多いだろう。その後には道内時刻表からも消えてしまったが、この線のCTC施行までは乗降自体は可能であった。


根室本線の狩勝越え区間にある西新得や広内、新狩勝の各信号場は、遅くとも80年頃まで乗降場(プラットホーム)の設備もないにかかわらず、昼間の気動車による普通列車がダイヤ上停車となっており、乗車後乗務員に希望すれば降車が認められた。そればかりか、出発信号機直前の列車停車位置辺りで待っていれば拾ってももらえたのである。

本来は、新得からの信号場職員(広内は有人の信号場であった)や保線職員の移動を事由とした措置であった。


さて、この当時の鹿越信号場は、道内版の時刻表に掲載されながら、それは全列車が通過表記であった。ここで下車したのは偶然で、乗車列車の乗務員から乗降可を知らされ、思わず降りてしまったのだった。1966年9月29日の開業からの被RC駅にて無人のそこには板張りの短い乗降場が整備され、時刻表に反して停車列車の時刻表も掲げられていた。この周辺に金山湖に沈んだ旧鹿越の集落が移転した訳でなく、周囲はまったくの無人である。

おそらく、ここも狩勝区間と同様の事由による停車措置で、通過表記はそれゆえと思われる。後日開いた70年の時刻表には、ここ自体の掲載がなかった。停車を告知しないままでの掲載開始の理由は分からない。


予定外の下車にて地形図の準備もなく、加えてロケハンの時間もなく、とにかく下車後起点方に遠望した橋梁先の隧道の上部斜面によじ登って撮影したのが、この写真だ。帰宅後、空知トンネルの出口側と知る。

登りきったそこは立派な舗装道路で、その上展望スペースまで準備されていた。こんなこともある。

列車は、弱い西日に照らされる422列車。荷物輸送の必要から、この区間に夜行<からまつ>と共に残された客車普通列車だった。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5   1250sec-f5.6   Non filter    Tri-X(ISO320)     Edit by Photoshop CS3 on Mac.

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近年の道内は実に撮り難い。

要因のひとつは、夜行列車の廃止である。これで、道南の線区を撮っていて翌日の朝からは釧網本線を、といったスケジュールはまったく不可能となった。

仕方ないので、中距離を移動しながらの転戦で効率はこの上なく悪い。


代替手段は夜行バスだが、あの床下のトランクルームには締結の装備が無く、撮影機材を格納する気にはなれない。内部で荷物が踊ってしまうのだ。

必要に迫られ利用することもあるが、車内に機材を持ち込める閑散期に限る。第一、首都圏からの周遊きっぶ、企画乗車券では乗れない。


冬の夜行列車と言えば、暖房補機である。

深夜の外気温が氷点下10度以下まで低下すると、機関車から供給される暖房用のスチームが途中で冷え、編成後部まで回らなくなってしまうのだ。これを補うため後部に連結される暖房車代わりの補機だ。10系寝台車による編成が長く、狩勝越えを控えた<狩勝>には、この時期連日運用されていた記憶がある。当時、深夜の新得辺りで待ち受ける根性は無かったらしく、撮影はしていない。


これが、電気暖房を持つ14系化後の<まりも>で復活したことがある。84年の冬と記憶する。

北海道向けの14系は、転用時の改造工事のひとつとして床下に蒸気暖房管のみを引き通して、併結する荷物車や郵便車に蒸気を送り届けていた。

これらが編成後尾となる下り列車で、おそらく乗組みの数人の係員が音を上げたのだろう。この数人だけのために暖房補機が連結された。機関車1台、なんとも贅沢な暖房だ。これも巡り逢えず、撮り逃している。


カットは、未明の札幌に終着した、518列車<大雪5号>。

常紋、石北とふたつの峠を越えるこの列車は、その2度の補機が暖房補機も兼ねたものと思われ、上りで後部となる座席車でも暑いくらいに暖房は効いていた。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4   1/60sec-f5.6   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by Photoshop LR3 on Mac.

音別-古瀬信号場 (根室本線) 1976

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厚岸-糸魚沢 (根室本線) 1976

運輸省の公表していた運輸経済統計要覧によれば、1965年度の日本国内の貨物輸送量はトンキロベースで1863億トンキロであり、これが1980年度には約2.4倍の4391億トンキロに達している。

60年代の高度成長に終わりを告げた、71年の米国によるブレトンウッズ体制の放棄(俗に言うニクソンショック)、73年の中東戦争に端を発する第一次オイルショックを経て、なおも物流市場は成長を続けていたのである。

ところが、国鉄貨物のそれは、65年度の564億トンキロが80年度の271億トンキロと半減し、そのシェアも30%から僅か8%にまで低下したのだった。

そのシェアを奪ったものは言うまでもなく、高速道路は勿論のこと、70年代半ばまでには地方国道へも整備と改良の及んだ道路交通を背景にした自動車運送なのだが、機動性/迅速性を有し、梱包等も簡易で済むなどの市場の要求に即した優位性に加えて、同時期に頻発した国鉄のストライキがそれへの転移を促した側面も見逃せない。

さらには、74年から年中行事のように繰り返された大幅な運賃改定がとどめを刺したとしても過言でなく、以後国鉄は、75年度の2527駅(内127駅が貨物駅)を500駅以下とする貨物扱駅の統廃合、貨物列車の削減、不採算分野からの撤退などの縮小均衡の追求に追い込まれ、物流市場の変化にことごとく追随出来ずに、遂には84年2月改正にて車扱貨物による全国ネットワークからの撤退を余儀なくされるのである。


これを線路端から見ていると、70年前後でも予定臨設定であった盲腸線の貨物は、その後半には廃止され、それを逃れたルーラル線区でも牽くべき財源は斬減して、まもなくダイヤは引かれていても運休や片道の財源の無く機関車の単行運転となることが日常となって行った。

ここ、根室本線末端区間の貨物列車も75年3月の改正で1往復に削減され、80年頃には列車を仕立てるに財源の少なければ、これを運休して混合441・444列車にて輸送するケースを生じていた。ほとんど貨車の連結のなくなっていた同列車に、それの復活することとなった訳である。それはコンテナ車-1両ないし2両だったと記憶する。


写真は、別寒辺牛湿原での1491列車。

釧路操車場-根室間の設定で、この区間での貨物扱駅は70年度の13駅から浜厚岸(厚岸は旅客駅)に根室の2駅にまで減っていた。それでも、まだそれなりの財源を持って走っていた頃である。編成後部に見えるのが、荷主は知らないけれど週数回の定型輸送だったコンテナ車で、後年に441・444列車に連結されることもあったのが、これである。

84年2月の改正で、その混合列車も貨物列車も消滅した。


国道44号線脇の、この丘陵からは別寒辺牛湿原とそれに続く厚岸湖を遥かに見通すことが出来た。数在る厚岸周辺の蒸機時代からの定番ポイントのひとつである。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5   1/250sec@f11   Non filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

川湯 (釧網本線) 1976

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釧路機関区は、道内で最初にDD51形式液体式内燃機関車が投入された区所である。

それは、1966年9月に予定された落合-新得間の新線(通称-狩勝新線)開通に際して、この区間の無煙化を目的としたもので、65年度末に5両、66年の夏までに10両を追加した15両にて富良野-釧路間に運用された。翌67年度にも10両、68年度には15両を新製配置して、新得や富良野のD51/池田のD60を駆逐し富良野-釧路間の完全無煙化を達成している。

この40両のDD51は、79年春に亀山機関区へ転じた2両(585/586)、鷲別へ配転の後に再配置となった1両(636)を除いて、一度もここを離れること無く85/86年度で用途廃止を迎えている。

面白いのは、このDD51が配置されるまでの釧路機関区は、C58による(古くは8620である)釧路以東の根室本線と釧網本線の仕業しか持たない区所だったことである。集中配置が可能で、かつそれが効率の良い内燃機関車の基地として、その運用区間の東端が選択された結果、有数の本線機関区となったのだった。


音別で一旦内陸に迂回した根室本線は、再び海岸線に出て馬主来湿原に踏入るまでの4キロメートル程を海岸段丘の裾を正確にトレースするように走る。車窓には茫洋とした太平洋を見て、どこまでも同じような風景が続く。

一度、ここを歩いたことがあるけれど、確かに、どの段丘に上っても捉える画角には然したる変化は無かった。


写真は、滝川起点270K近くの比高20メートル程の段丘からの俯瞰である。風の強い晩秋の一日で、その風に乗ってテントウ虫が大群で飛んでいた。マウンテンパーカに大量に飛来して、見ればそれぞれ羽の模様が奇麗なのだけれど、気づかずにツブしてしまうとシミになって困りものだった。

列車は、445列車釧路行き。この当時の普通列車には、荷物車/郵便車を組成した421・422列車、寝台車を加えた423・424列車の他、帯広-釧路間に2往復の客車列車の設定があった。区間列車は釧路客貨車区の運用である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/250sec@f11   Y52Filter    Tri-X(ISO320)    Edit by CaptureOne5on Mac.

塘路 (釧網本線) 1976

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釧路機関区へのDE10形式液体式内燃機関車の配置は早く、1967年度第二次予算にて新製の、それの2次車にあたる12両(27-38)が68年の5月から7月にかけて回着している。これらは、釧路以東の根室本線/釧網本線および浜釧路や天寧など釧路周辺の貨物支線と釧路操ヤードの無煙化を目的としたものであったが、本線列車では何故か旅客/混合列車よりも貨物列車が優先され、また、これにて釧網本線の釧北峠越え区間補機の完全無煙化が実現している。

早い時期での置替であったゆえ、残念ながらここでの蒸機による補機運転は実見していない。弟子屈に滞泊するC58の運用だが、それに混じって8620形も遅くまで残存していたらしい。DE10置替後では弟子屈-緑間が補機使用区間とされ、本務のC58に対して前補機も後部補機も存在した。


その区間に在る川湯には、おそらくかつてはここでも一部列車での補機解結作業が行われた名残であろう構内照明塔が、上下本線ともその出発信号機付近に設備され、それはこの当時でも点灯されていた。その高さの低いこともあって、それはTri-Xフィルムを以てすれば十二分に走行を写し止められそうな照度なのだった。


列車は、発車して往く混635列車。ここからは釧路行きの最終列車にあたる。

ディジタルであれば、僅かな灯りでも撮影は可能だけれども、夜の描写ならやはりフィルムに敵わぬと思える。それの撮影は、後処理も含めての完成形と承知していてもなお、である。


本来なら、この列車とここで交換となる網走への最終の北見行き急行<しれとこ3号>に乗車予定だったのだが、それが遅延して弟子屈交換となったおかげの「一枚儲け」のカットである。


[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5   1/30sec-f2.5   Non filter     Tri-X(ISO320)     Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

小沢 (函館本線) 1976

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東釧路を出た釧網本線は、釧路湿原に至ると丘陵地の山裾を正確にトレースし、湿原の陥入部には最短距離で築堤を渡る線形を描く。R300や400の曲線が連続する区間もあり、決して良い線形とは云えないが、建設費用と工期を考慮すれば、湿原内への敷設を極力避けるのは当然の設計であろう。湿原内を通過する最長距離区間は、塘路-細岡間での塘路湖とシラルトロ沼への陥入原部分で計4キロメートル程になる。難工事であったことは想像に難く無い。

近年の釧路湿原駅を除外して標茶までの各駅は、全て1927年のこの区間の開業時の開駅である。当時の入植地は当然に東側の丘陵地=台地に散在したのだから、ここの接しての線形は要求でもあった訳である。

だから、ここ塘路駅も集落の広がる緩やかな台地斜面の下端に在って、その裏手は湿原に接している。


湿原を眺められる位置を探しながら集落を歩いていて、その外れにこの画角を見つけた。唐松林の光景が良い雰囲気で湿原は二の次にして、次の列車をここで撮ることにしたのだった。

ここでの撮影を念のため断りに訪ねた下の住戸では、思いがけずお茶を馳走になった。そこの年配の主には、塘路にかかわる話を色々と伺ったのだったが、駅裏手から湿原を横切って伸びていた植民軌道の久著呂線(1930年開通/65年廃止)が度々水没したとの話が記憶に残る。戦前当時の釧路川は、この頃より遥かに水量が多く、それは滔々と流れていたそうである。


唐松の向こうを往くのは1694列車。釧路操車場から網走までの線内貨物であった。


ところで、このカットを見直していて気がついたのだが、左上に後年の「塘路の崖」塘路 (釧網本線) 1982が写っている。釧網本線は、このカットの右画角外で塘路駅、塘路湖陥入部を経て、この山裾に辿り着いていた訳である。この頃には、崖はまだ上部まで崩れてはいなかったように見える。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5   1/250sec@f8   Y48filter    Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

常豊信号場 (根室本線) 1976

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先月のこと(2012年11月)、木造3階建て校舎を模した建築物の火災実証実験の報道があった。生徒数の多い都市部の学校を木造化するにあたり、3階建て以上については準耐火建築が求められており、建材や構造等それに適合した基準策定のための検証実験とされている。厳しい環境に在る国内林業の再生に向け、国産木材の公共建築物への利用を促進する目的と説明されていた。さらには、コンクリートよりも生徒達の集中力の高まるとの事由を付加した報道もあったのだが、根拠は明示されなくて、何処かの役人のこじつけに聞こえなくも無い。けれど、木材の香りの教室が優るであろうことは感覚的に理解出来るのだった。


それが当たり前であった木造校舎は都市部では絶滅したものの、ルーラル地域にはまだ現役も多いと思われる。ただ、これを撮影の背景や添景として扱おうとすると、窓がアルミサッシ化されていたり、厚化粧気味の塗色が施されていたりで、由緒正しき木造校舎にはもはや出会えないだろう。

それそのものの撮影/記録であれば、むしろ廃校後に観光目的でオリジナル近くに復旧した例や、往時のままに放棄されているものも対象となろうが、これを鉄道屋が添景に撮り込めるのは、せいぜい80年代初めまでだった気がする。


函館本線が小沢に至る直前、国道5号線を小沢跨線橋で交わすところに共和町立小沢小学校が存在していた。ここは三角ファサードの玄関を中央にしたシンメトリックが美しい端正な平屋の建物で、教室部分ごとにまとまった窓配置がそれを強調していた。背の低い門柱の校門脇の二宮金次郎像もお約束である。

けれど、校舎は校庭をはさんで線路と平行気味に位置していて、列車との組合せには不向きではあったのだ。


写真は、函館線のカーブ外側から画角に取り込んでいる。どうにも無理矢理感の漂うカットではある。これも樹木の葉の落ちる冬期しか撮れない。

通過するのは、903D<らいでん2号>。ニセコから(土曜休日は蘭越から)倶知安まで普通列車で走り、そこからの札幌行き急行であった。小沢で岩内からの普通列車を併結して列車名の面目が立つ。全区間/全車がキハ22の正統派遜色急行である。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/250sec@f8    Y52Filter     Tri-X(ISO320)     Edit by CaptureOne5on Mac.

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大沼公園 (函館本線) 1971から続く


国鉄が1970年代前半に展開した営業施策である『DISCOVER JAPAN』と題された誘客キャンペーンは、万博輸送に向けて整備拡充された幹線輸送力の、それの閉幕後の利用確保を目的として立ち上げられたのだけれど、それは遂には当時の時代の気分を象徴する社会現象となり、その後現在に至るまでの旅行のスタイルを規定し続けているとして過言では無い。それは、「旅すること」の商品化の観点である。


スポンサーは国鉄に違いないが、巨大広告代理店-電通の主導したこのキャンペーンは、万博への誘客に際して得たノウハウをより深度化したものであった。すなわち、国鉄と大手旅行代理店が密接に連携し、その駅頭や列車内に代理店店頭のみならず、電波に紙媒体などマスコミへの広告やパブリシティの露出を集中投下的に行い、設定された旅行商品販売の専用窓口を国鉄駅と旅行代理店にあまねく設けていた。

60年代からのレジャーブームにて潜在化し、万博への旅行にて顕著となった(団体旅行やグループ旅行に対しての)個人旅行客の需要維持と拡大に主眼が置かれて、既存の特定の観光地への集客ではなく、「旅に出ること」そのものがテーマであった。


おそらく、主導した電通は意図的であったと思われるのだが、このキャンペーンタイトルは、ヴェトナム戦争への反戦運動に揺れるニクソン政権によるナショナリズム運動であった「ディスカヴァーアメリカ」の捩りであり、サブタイトルとして付された「美しい日本と私」のコピーにあるように、日本においても頻発した学園紛争や沖縄返還闘争、そして70年安保と動揺した社会に見え隠れしていた時代の気分を読み取り、保守回帰を促す要素を持っていた。

掲出されたヴィジュアルも、初期には特定の観光地に拘らない、日本の自然や歴史、伝統など回帰色の濃いイメージが表現され、ここからひとつには「古い街並」が新たな観光地として注目されて往く。同時期に創刊された平凡出版の「an・an」や集英社の「non-no」と云った、これも従来のものと一線を画した女性誌が、必然として個人旅行を編集テーマ化し、そこへと向かう新たな個人ないし少人数グループの、「アンノン族」と呼ばれ女性旅行者の一群を産み出し、社会現象となった。けれど、そこでの「旅」は与えられた情報の追体験であり、それは消費するものであった。

政治の季節の過ぎた沈黙の70年代に、商品化された旅は、時の為政者による新たな民衆管理の道具となり、『DISCOVER JAPAN』とはその触媒であったとも見て取れる。


さて、これを60年代末から道内を旅していた鉄道屋から見れば、それはキスリングを背負った「カニ族」と呼ばれた旅行者達を激増させ、たちまちに駅や連絡船に夜行列車を埋め尽くすものの、70年代半ばを過ぎると瞬く間に数を減じて、確かに「アンノン族」と思しき女性旅行者にとって替わられて往くのだった。やがては冬期にひとり旅する姿も目撃するようになる。彼女達は、あまり夜行急行には乗らぬゆえ、それの座席確保に余裕の生じたのは福音ではあった。その向かう先は、情報に管理されて「再発見」する函館・小樽と云った街であったから、それで「放浪」する必要もなかったのである。


落葉松林を抜けて往くのは、401D<狩勝1号>。

新吉野から厚内への根室本線は、浦幌川の河口を目指すでなく、左に転向して厚内トンネルをサミットとした山越えをする。浦幌から常豊信号場へと歩いたのだけれど、見るべき足場はなかった。

これは、カラーで撮るべきとは承知のカットである。


DISCOVER JAPAN』キャンペーンに具体的に旅行地の登場するのは、導入期を終えた72年半ば以降のことで、それは津和野・萩に木曽路と云った本州方面であったから、旅行の王道の北海道は少しばかり蚊帳の外に置かれた。混雑を極めた道内優等列車も乗り易くなっていたのである。


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8   1/500sec@f8    Y52 Filter    Tri-X(ISO320)     Edit by CaptureOne5 on Mac.

 
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