二見ヶ丘 (湧網線) 1972

‘Monochrome の北海道 1966-1996’

1972

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思い出されるのは、味噌パンである。


当時の製造会社は数多存在しただろうが、鉄道弘済会の売店に供給されていたのは、網走市所在の古川製菓の製品であった。

駅売店で入手出来る上、夏期でも変質し難く、なにより冬に凍らないので携帯食として利用した。

確か、青函連絡船の船内売店にも在庫されていたはずで、乗船すると道内時刻表とともに購入した記憶がある。

携帯には、やや嵩張るのだが、その形状と厚み、冷たくならない性質からカメラバッグの緩衝材の隙き間に収納し、断熱材がわりにしたりした。効果の程は未だわからない。


この時も、その「断熱材」をバッグから取り出し、朝食代わりにかじりながら列車を待った。

その地元、網走郊外の緩やかにうねる畑作地で、網走刑務所の実習地らしく無断立入りを禁ずる旨の立て札を見るが、冬とあっては咎める者も居なかった。


列車は、中湧別までの線内貨物1990列車。

白煙を撮ったカットなのでわかりにくいけれど、ワムフ100が連結されている。当時、専ら本線区に運用されており、荷物車の代用だったのだろうか。

東海道線の宅扱小口急送品急行貨物列車の後部を飾った花形貨車の最期の姿である。


古川製菓は現在も盛業中と聞くが、その味噌パンはキオスクの常備在庫ではなくなってしまったようだ。


[Data] NikonF+AutoNikkor35mm/F3.5     1/250sec@f8     Y56filter     Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

西ノ里信号場-北広島 (千歳線) 1972

図歴に「昭和43年編集」とある国土地理院発行の五万分の一地形図『札幌』図幅を見ている。

札幌市交通局による軌道線も定山渓鉄道も健在だ。千歳線には、東札幌、月寒、大谷地と懐かしい駅名が並ぶ。近くには千歳線の現在線が建設線の記号で描かれている。楽しい地図だ。

この図幅は、都合の良いことに、その中央近くに札幌駅が位置している。

地形図上での建築物の集中域は、駅を中心にほぼ半径10センチ程の円内に収まっている。地形図用語で言う、総描建物と独立建物が描かれている範囲である。これが、大まかな当時の札幌の市街地と言えるだろう。

この時代から札幌は東京以北で有数の大都市であったが、それでも市街化域は直径10キロ程の円内にあったと見れる。

翻って40年後の『札幌』図幅でのそれは、同様の見方をすれば図幅の大部分を占めるまでに至っている。爆発的な都市の膨張と言って良いだろう。

それは、当然のこととして、図幅外となる隣接域周辺域にも大きな変化を強要した。鉄道風景も勿論そのひとつである。


なかでも、ここ北広島駅と周辺沿線の変貌には驚かされるものがある。もっともそれは、60年代末、ここに団地の建設が計画された時に運命付けられたといっても良い。

かつての広島町市街地の外れに位置した駅であり、現在の東口にあった小さな駅舎をご記憶の方も少なくなったことだろう。


写真は、新線(現在線)の輪厚川橋梁供用開始直後の撮影になる。手前側下に旧線の築堤が続いている。

輪厚川の河川敷と氾濫原は、旧線路盤撤去と合わせて行われた河川改修にて圃場として整備された後に、時を経ずして全てが宅地となった。

左岸の小さな河岸段丘にあった農家の庭先をお借りしての撮影だったけれど、段丘もろとも跡形も無い。今の共栄河川公園の一角と推定している。

列車は、急行貨物3089列車。通常はD51のみの牽引だが、この日はC57の補機がついた。

千歳線の補機運用は苗穂機関区の仕業で同区のC57/C58が使われ、千歳-東札幌間を基本に一部白石までの運用があった。

C57は客車急行の気動車化などによる余剰車の転用と見て取れるが、彼らの経歴を鑑みれば贅沢あるいは可哀想な仕業であった。


[Data] NikonF+AutoNikkor105mm/F2.5    1/500sec@f11    O56filter    Tri-X(ISO400)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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網走 (石北/釧網本線) 1972

列車別改札。例えば最寄りの鉄道駅の改札が、営業時間内ならば何時でも開いているような都会にしか住んだことの無い人には解らない言葉だろうか。いや、旅行先などでは体験しているかも知れない。

列車の到着時刻直近にアナウンスがあり、乗客はそれから改札口で乗車券に入鋏を受けホームへと向かう。これが列車ごとに行われる訳である。

驚いたことに、かの札幌駅も70年代半ばまで、発着頻度の低くなる夜間早朝にはこの列車別改札を貫いていたのである。特に利用の多かった夜行急行列車は、改札口のひとつに立てられた案内板に並ぶよう指示され、発車30分程前になって改札が始められていた。

しかしその一方で、都会の駅であるから近距離列車の発着でどれかしらの改札口は開いており、実質的には常時改札とも言えた。

ゆえに事情を知る乗客は、それに紛れてホームへと入り込みそこで待とうとする。これには駅側も良くしたもので、乗車口番号は本来の改札後でないとアナウンスされないのだった。

しかし、鉄道屋である。増結のある場合も含めた自由席車の停車位置など簡単に推察がつき、その番号札直下で堂々と入線を待っていたものだ。


夜行列車は常宿であったから、夏の旅行シーズンは勿論、混雑する週末なども座席の確保は死活問題(?)だった。

上りの始発側では、最混雑期には18時過ぎには改札に長蛇の列が通例であったから、日暮れまで撮影している鉄道屋が間に合うはずも無く、それを逆手に取った裏技を良く使わせてもらった。

撮影地側から改札開始前に当該駅に到着する列車を選んで乗り、ホーム据え付けの早かった夜行急行にそのまま乗り込んでしまうのである。例えば、網走なら釧路方面からの<しれとこ3号>あたりだ。

単なる改札内乗継ぎだから、乗務員に見咎められたり、一度集札を出るよう指示されたことは一度もなかった。だいたい目の前に停車している列車に直接乗るな、とは誰も言えないだろう。


夜の網走構内である。

蒸機列車では夜目にも美しい蒸気と白煙を際立たすに、それを構内照明に重ねる手法を多用していた。

それだけ駅構内が明るかった証でもある。

列車は、釧網線の混合637列車。斜里までの夜の通勤列車である。


冬の閑散期ゆえ、これから食事を摂って改札口に回っても、上り<大雪6号>の座席は十分に確保されるはずだ。


[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8    1/125sec-f1.8    Non filter    NeopanSSS(+1EV Push)    Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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一杭 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

60年代の後半には道内の運炭鉄道の大半が健在で、かつ蒸機運転であった。

しかしながら新参の撮影者としては、これもまた健在であった幹線の大型蒸機に忙しく、その撮影は後回しにしていた。 

この日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道へは、炭坑の閉山の報に接して「慌てて」向かったのであるが、残念なことにその二日前に運転を終了していた。この当時、北辺の小さな専用鉄道の情報など内地までなかなかに届かず、それほどに情報過疎だったのである。


バスにて到達した一抗は、選炭場や積出施設を中心に広い構内が確保されており、その一番奥まったところに北米風の木造が良い雰囲気の機関庫はあった。メンテナンスがなく今にも朽ち落ちそうなそこには2台の機関車が収められ、9643はここ数日のことでなく、かなり以前に火を落としていたと思われたが、49678は有火を維持しており、見学の許可に訪れた鉄道事務所に居合わせた機関士の方は遠来を気の毒に思ったものか、いろいろと便宜を図ってくれた。庫から49678を引き出したり、石炭を焼べて煙を上げたりである。

そして、やや前方に、これも有火で止まっていた9615のキャブに上げてもらい、彼の「転がしてみるか」との誘いに一も二もなく飛びついたのだった。


キャブ下のS字曲線が特徴的な、1912年度から13年度に製造された9600形蒸機の最初の18両は、戦後まもない時点でその多くが道内に配属されていたものか、その時期に少なくとも9613-9617の5両はそこで用途廃止とされ、同地域の私設鉄道や専用鉄道に譲渡された。

9615は、その最も早い時点での事例であり、1948年10月に名寄機関区を最終配置区として用途廃止が決済され、同月20日にはこの専用鉄道に回着している。竣工届は翌49年11月3日付なのだが、一年間寝かされたとは思われない。これと、続いて48年12月7日に回着した9643との2両が代替したと思われる既存機関車の廃止届けは1949年6月7日付で出されているから、少なくともそれ以前には稼働していたはずである。付記すれば、9643の竣工届けの提出は1959年である。(上記データは日曹側資料を調査された大西清友氏による)


始めは片手シャベルで投炭し、インジェクタにブロワコックを操作して蒸気を作るところからである。チェインで引上げる式の焚口戸の意外な軽さには驚いた。所謂滑車の原理なのである。そのうちに火床が赤く燃え上がり、やがては蒸気の騰がりが缶圧計に表れコンプレッサも動き出す。

まずは、機関士の説明を聴きながら構内外れまで助士席で一往復。これだけでも天にも昇る心地なのだけれど、次は機関士席でレギュレタを握らせてもらった。先ほどの一往復後にミッドギアになっているリバーをフルギアに戻す。重そうに見えたこれがカラカラと回るにも驚いた。走行中も常に操作するから、なるほどと納得する。

ブロワを閉めて、レギュレタを手を添えてもらいながら少しだけ引くと、ひと呼吸あって動き出す。ドラフト2回のところでリバーを半分まで巻き上げろと云う。クルクル回しているうちに加速がついてきて、窓下のドレインコックを開く。排出する蒸気の心地よいけれど、構内限りなのでレギュレタをもどし、機関士が単弁を操作して制動を掛け停車。

リバーをまたもやクルクル回して逆転側のフルギアへ。そしてレギュレタを引いて逆行。元位置に戻り止まった時には、全身汗ダクの記憶が在る。

全線運行停止後の気安さからだろうが、おそらくは内規違反に相違なく、今に思えば二度と出来ぬ体験に感謝するばかりである。

写真の停車位置から前方のカーブして構内を抜けるまでが「体験運転」区間だった。


機関車が有火を維持していたのは、豊富方より撤去を開始する軌道や部材を一抗まで輸送する運転に備えてのことと聞かされた。まさに、「進路を断って退却する」と言う悲しい仕事が待っていた訳である。

なお、この鉄道は転車台を持たず、機関車は常に豊富方を正方向として運用されていた。


(above) [Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8   1/250sec@f8   Y48filter   NeopanSSS   Edit by PhtoshopCS3 on Mac.

(below) [Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8   1/125sec@f11   Y48filter   NeopanSSS   Edit by PhtoshopLR3 on Mac.

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名寄機関区 (宗谷本線) 1972

蒸機の撮影では「機関区詣で」と言うジャンルがあって、当時の撮影者なら少なくとも一度や二度の経験はあるのではなかろうか。

飛び込みでも受け入れてくれる区所は多かったけれど、通常には(礼儀的にも)一定の手続きを踏むことになる。

正式には国鉄本社なり支社、鉄道管理局の広報部署への申請だが、時間と手間から大抵は現業機関への直接の電話から始めて居た。ここで訪問目的を告げ、すぐに許可の降りて日時を指定されることもあれば、局の広報課を通すよう指示される場合もあったが、いずれにせよ個人の資格ながら断られることはまず無かった。

そして指定の当日に事務所を訪ねれば、当直助役より注意事項を伝達の上で黄色の腕章とヘルメットを貸与されて、後は構内を比較的自由に行動出来た。


1960年代の後半くらいの時期では、機関区側もこのような訪問者も珍しかったのか、歓迎すらしていた形跡が在り、自区の歴史や配置車両、運用などを紹介したパンフレットを用意していた区所もある。区長室で茶菓の振る舞いを受けたとの話も聞いたことがある。

しかしながら、これもせいぜい72年頃までで、SLブームの過熱とやらで押し寄せる撮影希望者に堪えかねて、公開を特定の曜日や時間に限る区所や原則撮影を禁止するところも現れ、ブーム終末へと旋回したのだった。


宗谷本線から名寄本線、深名線の分岐する名寄は運転上の要衝で、広い構内に多くの側線留置線を擁し、機関区や客貨車区の他、保線区などの現業機関も集中していた。

名寄機関区は、ガントリークレーンこそ設備しないものの、保守13線/修繕4線の大型ラウンドハウスを持ち、道北道東の本線途中駅としては遠軽に並ぶ規模であった。配置は71年度末にてD51-7両に9600-13両と多くはないのだが、旭川区と稚内区からC55/9600の滞泊があってラウンドハウスの保守線は満線のことが多かった。

とは言え、出入庫のそれほど煩雑でもなくて、蒸機末期まで見学と撮影に制限は無かったようだ。


この日は、西を向いたラウンドハウスの長弧側から低い光線のあたる早朝を選んで訪れている。通常暗い庫内に光の回るのを期待してのことだ。

コントラストの強い斜光線は、ラウンドハウスの煤けた窓をさながらステンドグラスに見立ててくれる。


[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F2   1/125@f22   O56filter   Tri-X(ISO400)   Edit by CaptureOne5 on Mac.

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小平 (羽幌線) 1972

深川 (函館/留萠本線) 1971の続きである。


国鉄本社に通った理由は、もうひとつあって、それは鉄道電話であった。

小学校/中学校とクラスメイトの鉄道官舎に引かれた普通の電話ではない電話として、その存在は知ってはいたものの、国鉄外部の者が使えるとは思わずにいたのだが、それが「電電公社回線で言うところの公衆電話」として国鉄本社ロビーに置かれていたからである。

電電公社回線で言うところの公衆電話とは回りくどい言い方だが、国鉄部内では電電公社の回線による電話自体を「公衆電話」と呼称していたので、このような書き方にならざるを得ない。電電公社とは日本電信電話公社であり、勿論現在のNTTである。


これにて、『国鉄PRコーナー』の資料で欠落していた線区や最新ではない情報を、関係区所へ問い合わせていた。もちろん、自宅の電話も使えた訳だが、この当時の長距離電話料金は眼の飛び出る程に高かったのである。

着信した側から見れば、鉄道電話による問い合わせゆえ、内部に関係する人間からと思われたのも予期せぬメリットではあった。

ただし、この当時において全国のほとんどの地域で自動化(ダイヤル直通化)を達成していた電電公社回線と異なり、多くの地区で交換台を呼び出す必要が在り、特に北海道の旭川局や釧路局管内に対しては大抵の場合、札幌交換台を通してさらに旭川や釧路の交換台を呼び出してもらうことになり、目的の区所に繋がる頃には、相手の声はそれこそ蚊の鳴くようであり、こちらも大声で怒鳴らないと話の出来ない有様ではあった。


鉄道電話は、例えば通票式閉塞器からのタブレットの取り出しに係わる駅相互間連絡など運転上の必要性から派生して、全国に敷設された鉄道線路に沿って架設の通信線にてネットワークされた回線であった。

戦前の段階で、既に自前の全国回線網を持っていたのは国鉄のみであり、警察電話の整備は戦後のこと、防衛庁(自衛隊)の専用通信網に至っては1970年代以降と聞いている。


ここ、小平駅への電話も札幌-旭川の交換台経由で、驚いたことに小駅にもかかわらず、その回線は駅長、出札、手小荷物、貨物と4本も用意されていた。多機能電話端末のない時代とあっては、端末一つひとつに番号を割り振らざるを得ない訳だ。これ以外に運転当直への直通があるはずだが、それは別の専用回線なのだろう。


列車は、小平蕊川橋梁上の1893列車羽幌行き。1970年の築別炭礦閉山による運炭列車の廃止以降に、一往復のみ残された貨物列車であった。

道内において川幅のある河口付近の架橋で、背景も含めてすっきりとした構図のとれる橋梁はそう多くはない。

根室本線釧路川橋梁、釧網本線濤沸川橋梁に日高本線の数例を見るのみだ。この小平蕊川橋梁は、海側からのポジションの取れる貴重なポイントであった。(後には、人工河川に架橋の室蘭本線新長万部川橋梁がある)


[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.8  1/250sec@f8   Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

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北広島 (千歳線) 1972

俄には信じられないけれど、ここは千歳線北広島である。

前出の[西ノ里信号場-北広島 (千歳線) 1972]と同日の撮影で、輪厚川橋梁が新線に切替られているのを確認して北広島の構内を見に行ったのだった。


広島町中心市街地から外れた台地に在って、交互に置かれた相対式の乗降場に中線を持っていたそれは、上り本線と中線が島式乗降場に変わり、線路を横切っていた構内通路も廃されて跨線橋が架けられ、西側にも駅舎と改札口が設けられていた。西側の丘陵地で始まっていた住宅団地造成に対応し、現在に繋がる通勤駅として体裁が整えられつつ在ったのである。この跨線橋に本屋が移転し橋上駅となるのは1974年暮れのことだが、1973年9月9日付にて駅中心キロ程は約100メートルを沼ノ端方に移動しており、この時点で既に西口が駅長事務室とされていたことになる。この訪問時点では、まだ東側の本来の本屋が機能していたと記憶している。


写真は、その苗穂方から構内を見ている。

中線を出発する列車の後方に乗降場が在って、跨線橋も煙に隠されて見えない。駅本屋は左側画角外になる。

住宅公団の北広島駅前団地は着工前で、西側には丘陵地が広がるばかりだった。

画角に見える小さな踏切道を左に辿るとフランシスコ修道会の北広島修道院の横道に出て、いまは人道跨線橋が架けられている。

輪厚川橋梁が新線に切替られたとは言え、それは将来の上り線(*)による単線運転で、一番手前に見える分岐器をこちら側に分岐しているのが下り線として準備された線路である。そこからは、さらに旧線と思われる線路が分岐していたけれど、配線は様変わりしていて判別は出来なかった。

(*) - 現在も千歳線の設備上の起点は苗穂である。


なお、上野幌-北広島 (千歳線) 1993でも書いたように、北広島以北の新線への切替は、新線と旧線の交差地点を境界として二次に分けて実施され、輪厚川橋梁を含む区間が先行した。現在、旧線跡を転用した自転車道(道道1148号札幌恵庭自転車道線)のループ式跨線橋の架けられているところが、新旧の交差地点となる。この先行区間も複線の使用開始は1973年9月9日であった。

列車は、4097列車。東札幌への急行貨物であり、それは本州線から継送となるコキ5500にて組成のコンテナ列車である。


[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f8  O56filter  Tri-X(ISO400)  Edit by CaptureOne5on Mac.

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濁川 (渚滑線) 1972

これだけ北海道へ通っていても、そこの国有鉄道線の全ての線区を撮ってはいない。勿論、1980年代に相次いだ日本国有鉄道経営再建促進特別措置法に基づく地方交通線の廃止以前の話である。

これで、その全てが特定地方交通線とされた行き止まり線区においては、その貨物列車の設定は、蒸機の時代においてもいつ走るや知れぬ臨時であったり、定期のスジが引かれていても運休の多く、またそれの設定すら無い線区も存在して撮影を諦めていたのである。貨物列車のなくなってからは単行の気動車が往復するばかりとなって、どうにも食指が動かず、結局のところ美幸線や相生線、富内線は足を踏み入れることなく終わっている。

列車回数、即ち撮影チャンスはそれなりに在ったのだけれど、道央で函館本線から分岐していたヤマ元への運炭線の多くも撮っていない。これらは、その沿線のロケーションがどうにも気に入らなかったのである。

対して、車窓からロケハンしてポイントを見つけておきながら、ついつい撮りそびれてしまった線区もある。長大線区だった広尾線に池北線である。池北線は、それが第三セクターの経営に移行した後に訪問を果たしている。


撮影の前には一通りロケハンをするので、大半の線区/区間は乗ってはいる。それでも道内線区完乗に至って居ない。それが目的ではないゆえだが、上記の三線全線の他、ロケハンの都合上線区の末端部を乗り残してしまうのだった。瀬棚線の北檜山-瀬棚間や標津線の中標津-根室標津間、名寄本線の中湧別-湧別などである。

現存の線区でも、江差線の湯ノ岱から先は未だに乗らず仕舞いでいる。


渚滑線も、その手前に白樺の大きな独立樹を見つけて濁川で降りてしまい、北見滝ノ上までは未乗のままとなった。

濁川から線路上を20分ほど戻ったそのポイントは、白樺の木を蒸機と並べる構図を想定してのことだったけれど、背景がどうしても気になって、空に抜いてしまった。蒸機の黒をバックにして分かるけれど、降雪の空である。


ここの貨物列車は、北見滝ノ上までの一往復設定で、ほぼ毎日に財源を持って運転しており、名寄本線と共通運用にて名寄機関区の9600形が入線していた。


[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4   1/250sec@f8   Y48filter   Tri-X(ISO400)   Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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呼人-網走 (石北本線) 1972

網走周辺の鉄道は、釧網本線や湧網線、石北本線にせよオホーツクの海や海跡湖の湖面を画角に取り込もうとすれば、必ずそこには道路も入り込んでしまうのだった。

どちらが先行したかは分からぬが、鉄道も道路も、それらが敷設された時代に、最良で、なおかつ他に設計のしようの無いルートとして選択された結果に他ならないのだろう。丘陵地の迫った海岸線や湖岸線となれば、必然的に並行してそれを正確にトレースする。

写真屋、とりわけ鉄道屋には、アスファルト舗装の路面は諦めても、少ない撮影チャンスに大型車両に並走されてしまうようなリスクを覚悟せねばならず、訪問を躊躇する場所でもあった。


ここ、網走湖の湖岸は、それに加えて足場の見つからない区間であったのだが、72年に至って車窓から土砂の露出した斜面を確認し、勇んで現地に参じたのだった。

けれど、そこは後年の「塘路の崖」塘路 (釧網本線) 1982 にも劣らぬ急崖で、ここもまた三脚をバッグに括り付け這うようにして登摩せざるを得なかった。


苦労して登った崖上なのだが、並行する国道39号線の路面は、やはり目障りで、網走湖自体にもこれと云った特徴の見いだせぬゆえか、些か拍子抜けしたのを覚えている。さらにターゲットとした577列車のスジでやって来たのは、なんとも財源を持たない単行機関車列車なのだった。

この翌々年、内燃機投入寸前に再訪するも崖面に崖上は既に深い草木に覆われて登坂は困難となり、結局のところここでの撮影はこれで終わってしまっている。


ところで、この時やって来たのは、577列車所定のC58ではなく、ここに定期運用の無いはずの9600だったのである。北見機関区でC58に不具合でも生じたのだろうか。事由は聞き漏らしたままである。


[Data] NikonF photomicFTN +P-AutoNikkor5cm/F2   1/250sec-f5.6  Y48filter   NeopanSSS   Edit by CaptureOne5 ob Mac.

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大夕張炭山 (三菱大夕張炭礦大夕張鉄道) 1972

1960年代後半と云えば、国鉄/私鉄/専用線を問わず道内の運炭鉄道は、その大半が健在であった。

ところが、新参者の撮影者は、ご多分に漏れず幹線列車に眼を奪われていたのである。それでも、鉄道ファン誌の掲載記事に触発されて、夕張線へと向かったこともあるのだが、始めて見る、谷の斜面を埋め尽くす炭住街とあちらこちらで黒煙を噴き上げる蒸機の光景に圧倒され、戸惑うばかりの記憶が残る。この頃には、それを画角にまとめあげるだけの力量は無かったのである。

根室本線の富良野-釧路間を除けば、まだまだ全道が蒸機運転であったこの当時にあっては、運炭線をいつしか後回しにするうちに、そこは無煙化されるばかりか、70年代に至って廃線も続出したのだった。


大夕張鉄道も、この数日前に訪れた日曹炭坑の専用鉄道で、 大夕張抗の南抗へのスクラップアンドビルドの噂を聞きつけてスケジュールに急遽組み入れたのだった。例によって全線を乗って、明石町-千年町間のトレッスル橋であった旭沢橋梁に目をつけたのだけれど、長い運炭列車を捉えられる足場が見つからずに、結局は3キロ程先の大夕張炭山の構内に向かった。


この鉄道については、ここの旧住民の方によるディープな総合サイトふるさと大夕張や、詳細な年表を伴った三菱大夕張鉄道58年史などを始めとした多くのサイトが開設されており、ここに語ることは無い。


写真は、大夕張炭山構内の最奥部、巨大なホッパ設備の尽きるあたりである。16時13分発の混合6列車の牽引機が客車を従えて待機していた。客車は清水沢方連結が定位ゆえ、このままホッパ前部まで進んで、そこから満載となった石炭車編成を引き出し、駅乗降場に据え付けて発車時刻を待つのである。

機関車No,3は、1937年日立製造の自社発注機で国鉄C56の設計図面を流用したテンダに特徴があった。国鉄における9600形式の製造終了後の新製は、その線路規格が新鋭D51の入線を許さぬゆえである。続く客車も、これも自社生え抜き、同じく1937年日本車輌東京支店によるナハ1形式ナハ1を緩急車化したナハフ1と見える。


混合6列車は、清水沢への旅客扱いのある最終列車で、もちろんこれに乗車して大夕張を後にした。

この日の早朝、岩見沢で夜行<大雪>を捨てて以来、あれほど群れている観光客/旅行客をまったく見かけず、当時の夕張はそれとは無縁のところだったのだ。


[Data] NikonF photomicFTN +P-AutoNikkor5cm/F1.8  1/250sec-f5.6   Y48filter   NeopanSSS   Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

仁山信号場-大沼 (函館本線) 1972

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これは、滝の沢トンネルへ20.8パーミル勾配を登る125列車、札幌行きである。

実を云えば、画角中央に函館山を見るはずだった、これは恨みのカットなのである。


今でもそうであるように、途中駅の無い藤城線と異なり、仁山回り線は上り列車専用線とする訳には往かず、普通列車には下りも設定されていた。けれど、無煙化を翌年に控えたこの時期に、ここを登る蒸機牽引列車は僅か2本に過ぎなかったのである。

藤城線は七飯のあたりで幾度か撮っていたが、仁山回り線の未撮影に気がついて、72年冬の渡道にそれを組み込んだのだった。上り列車の車窓に、それが滝の沢トンネルを出るあたりから遥かに函館山を望むのを記憶していたゆえ、ロケーションはこの区間と決めていた。

この日、仁山信号場に下車して線路を大沼方に歩くと、トンネル入口側抗口の上部に登れそうな斜面を見つけたのである。

かなりの急斜面のそこは、予想通りに函館山を遠望して眼下に線路を見るポイントであった。

ここで、午後の125列車を待ったのだけれど、その直前になって直線距離で約20キロメートル余りは、僅かな風雪にて遮られてしまったのだった。


致し方なく、ここへは無煙化直前に再撮影を試みるも、無雪期のそこは草木に覆われて、とても登坂の叶うものでなく、結局のところ函館山の見えぬままにここでの蒸機撮影は終わってしまっている。

故に、これは恨みのカットなのである。以来40余年を経ても、列車通過のつい1分前まで遠望していた函館山を思い出す。


仁山へは、近年では2007年に下車しているが、道道96号線からの取付け道路が舗装路になっていたり、近隣にリゾートホテルが開業したりしているものの、構内や周辺の雰囲気はこの当時とさほど変わっていない。

その前後区間は、ロケーションは良いのに足場の無いのも同じである。


[Data] NikonF photomicFTN +P-AutoNikkor50mm/F2   1/250sec@f8    Y48filter    NeopanSSS    Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

恵比島 (留萠本線) 1972

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ここに降り立った1972年は、政府の第4次石炭政策の下、生産からの「なだらか」な閉山による漸次的撤退が進展した時代で、沿線の昭和、浅野、太刀別の各礦は既に無く、出炭をここへ運んだ留萌鉄道も2年の休止を経て前年に姿を消していた。構内の設備は早くも撤去され、列車の発着した3番線に錆びたレールの残るのみだった。

かつては賑わったであろう集落は櫛の欠けるように疎らで、名残の駅前旅館が印象に残っている。


国有鉄道における線路名称制定(1909年10月12日鉄道院告示第54号)の直後に深川-留萠間を開通したこの線区には、当初より独立した系統名が起こされ、留萠線部に属する留萠線の名称が付与された。函館線の支線に含まれなかったのは、空知炭田からの出炭を留萌港へ移送する重要幹線と位置づけられたからに他ならない。また、それまで移出手段のなかった留萌炭田や沿線林産資源の開発に資するものとされたのだった。ここから峠下への小さな峠越えが、積車の下りに対して9.1パーミル、空車の上りに対してもふたつの迂回曲線を挿入してまで最大10.5パーミルに抑えられたのも運炭線としての設計である。

それゆえ、それらが斜陽化すれば零落は避け得ない宿命であろう。


それでも、ビルド礦とされた赤平、茂尻、芦別からの出炭に、まだ4往復(臨貨含む)の運炭列車の設定のあったのが、この頃である。ただし、それらは1往復を除いて深夜から早朝の運転で撮影対象にはならず、辛うじて夜間の深川で後補機付き運転の出発を捉えている。深川 (函館/留萠本線) 1971

余談になるけれど、運炭列車は機関車の交換や途上での給水を除外すれば山元の発駅から積出港の着駅まで原則的に無停車運転であった。それは石炭定数と呼ばれた独自の牽引定数により経路上各停車場の本線有効長を越えて貨車を組成するからである。同組成で戻る返空列車も含めて列車交換に停車することの無い「殿様列車」が専用貨物列車A(72年3月改正時呼称)に指定の石炭列車なのだった。根室本線に特急列車の設定されてからは、それと中間小駅でバッティングしないことが至上命題とされ、スジ屋を悩ませた。それでも特急の遅延等でやむを得ないことがあり、それを待たせての堂々の通過を、その乗客として経験している。


写真は、恵比寿トンネルを出る776列車。前述の昼間1往復にあたる石炭車編成の返空回送列車で、これも深川まで無停車運転である。返空だけれど長い組成にD51の後補機が付いていた。

当時の未熟な技術で、このロールは現像過多である。温度管理に失敗したものと思う。


[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8   1/250sec@f4    Y48filter    NeopanSSS     Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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厚岸-糸魚沢 (根室本線) 1972

根釧地域の地形の基盤は、有史遥か以前の阿寒・知床火山群による火砕流堆積台地である。海進期に海食崖や海岸段丘、堆積海食面を形成し、湾口に砂州が発達してそれを塞いで、海面が後退すればそこに低湿地を生じた。

厚岸湖北岸に河口を有する別寒辺牛川と、尾幌川、大別川、チライカリベツ川、トライベツ川、フッポウシ川などの支流の流域に発達した8300haにも及ぶ湿原を別寒辺牛湿原と呼んでいる。この呼称は近年のことで、厚岸町により1980年代に命名されたものである。ここが厚岸道立公園に含有された1955年以来には厚岸湿原と呼ばれていたのだが、それは1980年当時の厚岸駅の名所案内標にも記されていなかった。


1919年11月25日に厚岸から厚床までを延長した根室線(当時に滝川-釧路間は釧路本線と呼称)は、厚岸に停車場を設けた以上、厚岸湖西岸からこの湿原をチライカリベツ川沿いに糸魚沢の台地に取り付く線形が選ばれた。ここは火山灰と腐敗植物による土壌が凍結と融解を繰返して形成された泥炭湿地帯であり、路盤構築には非泥炭地の数倍の設計土量の投入を要する工事であったに違いない。

道内には、この泥炭湿地が広く分布しており、必然的にそこへの線路敷設も避け得ない。1950年代の資料によれば、この根室本線総延長の15.4%に当たる69.4キロが泥炭地への敷設であり、釧路湿原を通過する釧網本線は33.3%が、オホーツク岸の海岸湿原への北見線(後の天北線)は実に42.4%、全線が石狩低地に在った札沼線に至っては72.3%が該当していた。


建設ばかりではない。泥炭地線路は軟弱地盤に不安定であり、同資料には年間の恒久的沈下量が普通路盤に対して2から3倍に及ぶことや、9600形機関車通過時弾性沈下の最大量が普通路盤の1・2mm程度を遥かに上回る最大56mmを記録したこと等の報告が在る。当然に軌道狂いを生ずる原因となって、軌間、水準狂いに極端な差は見られないものの高低と通り狂いは、2から3倍の発生量となり、これに軌道の輹進も大きいから保線作業量は、年間に1kmあたりの比較で非泥炭区間を100として158に達していた。

もちろん、線路部材や砂利などの保守資材も多くの投入を要して、人手も経費も掛かる線区だったのである。

現在では、重軌条化が達成され、道床厚増加にそれの砕石化による軌道強化を完了し、枕木や軌条締結方式への技術進展、さらにはセメントミルクの地盤注入によるそれ自体の強化も行われて、この報告当時の状況からは遥かに改善されてもいるのだが、泥炭上を線路の通過する限り根本的に解決されたではない。

冬期には、凍上と融下が繰返され、積雪地ともなればその間の保守作業が困難であることに変わりは無く、「手を焼かされる」線路なのである。


写真は、厚岸湿原を往く1493列車。

これは、良く云われる「手前側の丘」からの撮影。「向こうの丘」がベストとは承知していたけれど、厚岸から炎天下6キロ近くを歩いて、それ以上の気力がなかったのである。

この頃までは、モノクロ撮影に絞りきれずにカラーネガを併用していた。


=参考文献=

泥炭地線路の特性とその対策について : 旭川鉄道管理局施設部保線課 小川清 (1955年 土木学会研究資料)

日本の自然 北海道1 : 岩波書店編


[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Nikon L1Bc filter  SakuraColor100  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

 
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